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国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

たしかに・しかし教

2006-05-12 10:14:48 | 国語
先輩である小論文の先生と話していたときに「最近の生徒は書き方を質問してくる人が増えた」とおっしゃっていた。

生徒さんが聞きたがっている「書き方」というのは、書き「型」とも言うべきものらしい。

それで連想したのが「たしかに・しかし」を絶対に使用しなくてはいけないと考えている人が増えてきたという現象である。

以前、私の教え子で「汗」という題名で書かせたときに「たしかに汗はただの水だと思っている人はいるだろう。しかし、私はそうは思わない」と書いてきた子がいた。ちなみに今では知的成長も無事果たし、立派な大学生となっている方である。

「汗はただの水だ」と考える人は少ないだろうと言うと「たしかに・しかし」を絶対に使えと学校の先生に言われた云々と生徒が答えたような記憶がある。「たしかに・しかし」、いわゆる譲歩逆接文というやつだが、これは「絶対に」使わなくてはいけないものではない。「絶対に」などというとそれはもはや宗教である。

あ。ここでの宗教は「必ずしも正しいと証明できないことを前提に論理を組み立てていくこと」という意味である。例:バブルと言う宗教。橋爪大三郎氏の定義だったか。

閑話休題。

「たしかに」以下にありえない話を書いて、それを「しかし」以下で否定すると変な文章が大量に作れるだろう。(その話題で先輩の講師の方の作った例文が面白く、ひさびさに講師室で笑った。各自チャレンジなさるのも一興だろう)

で、だ。

私に言わせると、誠実に考えていくと譲歩逆接文にふさわしい内容がでてくるのである。

逆接以下は主張が来るのだが、その主張が独りよがりではないものになると他人の立場である「たしかに」以下の譲歩部分が出てくるはずなのだ。そして、自分とは異なる意見の人を納得させるような自分の意見を作っていくべきなのである。

譲歩逆接文を使えではなく、譲歩逆接文を使えるほど考えなさいと小論文ユーザーの方は思っていただきたいのである。

コメント
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