サロナは紀元前からの街。紀元一世紀にはヤドロ川からの水道も引かれていた。スプリトからサロナへいく途中、いつも道路から見かけていた古代の水道橋に立ち寄った。大型バスではなかなか行けない。千載一遇のチャンスである↓
「この水道橋はいつごろまで使われていたのですか?」と地元ガイドさんに訊ねると
「今もつかってますよ」と事もなげに返された。
※こちらにもう少し写真を載せました
**
サロナは、若きディオクレティアヌス(=まだディオクレスとよばれていた少年時代)に住んだ街といわれている。
紀元後三世紀半ばにはそこそこの町だったのだ。8世紀ごろのスラヴ人(今のクロアチア人の祖になる)侵入によって破壊され、20世紀にフラネ・ブリッチ氏によって発掘されるまで土に埋もれていた。
ドン・フラネ(司祭だったので「ドン」をつけて呼んでいたのだと地元ガイドさんが言った)が、生涯をかけて発掘・整理した成果がここに見られる↓
入ってすぐに視界にとびこんでくるのは、在りし日にはどれだけ巨大だったのだろうと思わせる教会の遺構↓
現在のスプリト大聖堂に葬られている聖ドミニウスはここで殉教したとされている↓
迫害したディオクレティアヌス帝の廟に移されるまで、この教会の中心部に彼の棺があったとされている。周囲には聖者を慕う人々の墓がたくさん集まることになった。権力者やお金持ちはそれなりの墓をつくらせて
↓このグリフォンの刻まれたものはキリスト教以前のもの?
見事な装飾の巨大な石棺は、そうそう、きのうのスプリト考古学博物館でたくさん見た。
ここから掘り出されたものたちだったのか。
教会に入るにはキリスト教徒でなくてはならなかった。
四世紀から五世紀ごろには、一年に一度キリスト教徒になる(洗礼する)ことのできる日が決まっていて、何十人もの人が行列して十字架型をした洗礼盤にどっぷり入ってキリスト教徒になったと思われる↓
その洗礼盤がこれ↓
キリスト教徒になるとすぐ横にある入口から巨大な聖堂に入ることが許された↓
復元されぐるりとまわりを囲んでいる面積はびっくりする広さ↓
↑★この壁、発掘された時には見えているものの三分の一ぐらいの高さしかなかった。上の写真でもよく見ると左奥の壁の下あたりにオリジナルの部分が分かる。
だが、ドン・フラネは「これでは一般の人が見てなんだか分からないだろう」と考えて、こんな高さまで石を積み直してしまったのだ。
※この話はクレタ島のクノッソス遺跡を発掘したイギリス人、アーサー・エヴァンスの話を思い出させる
どこまで復元するのが良いのか? 考古学にはずっとついてまわる問いだ。
ローマ式の浴場の跡↓床下暖房が通っていたのがわかる↓
しかしこういった浴場跡も、キリスト教徒によって礼拝堂につかわれることになった↓入口の左右に刻まれた十字架↓
↓こちらはローマ時代のオリジナルの舗装道路敷石↓
・・・サロナに到着して一時間ほどが経過。殉教者ドミニウスの墓や巨大な教会の遺構を見学しているうちにどんどん時間が過ぎてゆく。
サロナ遺跡は予想したよりもかなり大きな都市遺跡だった↓下の地図がサロナ遺跡全体図↓
一時間で我々が見学したのは、左右にのびる黒い線=城壁の中央部にかたまった教会群遺跡とローマ浴場、居住エリアの一部のみ。
まぁ、事前に得ていた情報ではサロナ遺跡でもっとも発掘・復元されているのは今いる初期キリスト教の教会エリアではあるのだが。
紀元前一世紀の内戦でカエサルに味方し、その結果街が発展して建設されたフォロや、西の端の円形闘技場まではとても行けそうにない。
円形闘技場はヴェネチア支配時代に対トルコ防御施設建設の為組織的に破壊されてしまっているのだそうだが。またいつか(いつ?)訪れる機会があるかしらん。
★ドン・フラネが教会の跡を熱心に発掘したのは、彼がキリスト教者だったからだろうか?
次のページで、彼がここを発掘した様子をもうすこし紹介したい。
「この水道橋はいつごろまで使われていたのですか?」と地元ガイドさんに訊ねると
「今もつかってますよ」と事もなげに返された。
※こちらにもう少し写真を載せました
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サロナは、若きディオクレティアヌス(=まだディオクレスとよばれていた少年時代)に住んだ街といわれている。
紀元後三世紀半ばにはそこそこの町だったのだ。8世紀ごろのスラヴ人(今のクロアチア人の祖になる)侵入によって破壊され、20世紀にフラネ・ブリッチ氏によって発掘されるまで土に埋もれていた。
ドン・フラネ(司祭だったので「ドン」をつけて呼んでいたのだと地元ガイドさんが言った)が、生涯をかけて発掘・整理した成果がここに見られる↓
入ってすぐに視界にとびこんでくるのは、在りし日にはどれだけ巨大だったのだろうと思わせる教会の遺構↓
現在のスプリト大聖堂に葬られている聖ドミニウスはここで殉教したとされている↓
迫害したディオクレティアヌス帝の廟に移されるまで、この教会の中心部に彼の棺があったとされている。周囲には聖者を慕う人々の墓がたくさん集まることになった。権力者やお金持ちはそれなりの墓をつくらせて
↓このグリフォンの刻まれたものはキリスト教以前のもの?
見事な装飾の巨大な石棺は、そうそう、きのうのスプリト考古学博物館でたくさん見た。
ここから掘り出されたものたちだったのか。
教会に入るにはキリスト教徒でなくてはならなかった。
四世紀から五世紀ごろには、一年に一度キリスト教徒になる(洗礼する)ことのできる日が決まっていて、何十人もの人が行列して十字架型をした洗礼盤にどっぷり入ってキリスト教徒になったと思われる↓
その洗礼盤がこれ↓
キリスト教徒になるとすぐ横にある入口から巨大な聖堂に入ることが許された↓
復元されぐるりとまわりを囲んでいる面積はびっくりする広さ↓
↑★この壁、発掘された時には見えているものの三分の一ぐらいの高さしかなかった。上の写真でもよく見ると左奥の壁の下あたりにオリジナルの部分が分かる。
だが、ドン・フラネは「これでは一般の人が見てなんだか分からないだろう」と考えて、こんな高さまで石を積み直してしまったのだ。
※この話はクレタ島のクノッソス遺跡を発掘したイギリス人、アーサー・エヴァンスの話を思い出させる
どこまで復元するのが良いのか? 考古学にはずっとついてまわる問いだ。
ローマ式の浴場の跡↓床下暖房が通っていたのがわかる↓
しかしこういった浴場跡も、キリスト教徒によって礼拝堂につかわれることになった↓入口の左右に刻まれた十字架↓
↓こちらはローマ時代のオリジナルの舗装道路敷石↓
・・・サロナに到着して一時間ほどが経過。殉教者ドミニウスの墓や巨大な教会の遺構を見学しているうちにどんどん時間が過ぎてゆく。
サロナ遺跡は予想したよりもかなり大きな都市遺跡だった↓下の地図がサロナ遺跡全体図↓
一時間で我々が見学したのは、左右にのびる黒い線=城壁の中央部にかたまった教会群遺跡とローマ浴場、居住エリアの一部のみ。
まぁ、事前に得ていた情報ではサロナ遺跡でもっとも発掘・復元されているのは今いる初期キリスト教の教会エリアではあるのだが。
紀元前一世紀の内戦でカエサルに味方し、その結果街が発展して建設されたフォロや、西の端の円形闘技場まではとても行けそうにない。
円形闘技場はヴェネチア支配時代に対トルコ防御施設建設の為組織的に破壊されてしまっているのだそうだが。またいつか(いつ?)訪れる機会があるかしらん。
★ドン・フラネが教会の跡を熱心に発掘したのは、彼がキリスト教者だったからだろうか?
次のページで、彼がここを発掘した様子をもうすこし紹介したい。