旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

サロナ~ディオクレティアヌスの故郷、フラネ・ブリッチが発掘した遺跡

2018-06-13 10:13:56 | クロアチア
サロナは紀元前からの街。紀元一世紀にはヤドロ川からの水道も引かれていた。スプリトからサロナへいく途中、いつも道路から見かけていた古代の水道橋に立ち寄った。大型バスではなかなか行けない。千載一遇のチャンスである↓

「この水道橋はいつごろまで使われていたのですか?」と地元ガイドさんに訊ねると
「今もつかってますよ」と事もなげに返された。
※こちらにもう少し写真を載せました
**
サロナは、若きディオクレティアヌス(=まだディオクレスとよばれていた少年時代)に住んだ街といわれている。
紀元後三世紀半ばにはそこそこの町だったのだ。8世紀ごろのスラヴ人(今のクロアチア人の祖になる)侵入によって破壊され、20世紀にフラネ・ブリッチ氏によって発掘されるまで土に埋もれていた。

ドン・フラネ(司祭だったので「ドン」をつけて呼んでいたのだと地元ガイドさんが言った)が、生涯をかけて発掘・整理した成果がここに見られる↓
入ってすぐに視界にとびこんでくるのは、在りし日にはどれだけ巨大だったのだろうと思わせる教会の遺構↓

現在のスプリト大聖堂に葬られている聖ドミニウスはここで殉教したとされている↓

迫害したディオクレティアヌス帝の廟に移されるまで、この教会の中心部に彼の棺があったとされている。周囲には聖者を慕う人々の墓がたくさん集まることになった。権力者やお金持ちはそれなりの墓をつくらせて
↓このグリフォンの刻まれたものはキリスト教以前のもの?

見事な装飾の巨大な石棺は、そうそう、きのうのスプリト考古学博物館でたくさん見た。
ここから掘り出されたものたちだったのか。

教会に入るにはキリスト教徒でなくてはならなかった。
四世紀から五世紀ごろには、一年に一度キリスト教徒になる(洗礼する)ことのできる日が決まっていて、何十人もの人が行列して十字架型をした洗礼盤にどっぷり入ってキリスト教徒になったと思われる↓

その洗礼盤がこれ↓

キリスト教徒になるとすぐ横にある入口から巨大な聖堂に入ることが許された↓

復元されぐるりとまわりを囲んでいる面積はびっくりする広さ↓

↑★この壁、発掘された時には見えているものの三分の一ぐらいの高さしかなかった。上の写真でもよく見ると左奥の壁の下あたりにオリジナルの部分が分かる。
だが、ドン・フラネは「これでは一般の人が見てなんだか分からないだろう」と考えて、こんな高さまで石を積み直してしまったのだ。
※この話はクレタ島のクノッソス遺跡を発掘したイギリス人、アーサー・エヴァンスの話を思い出させる
どこまで復元するのが良いのか? 考古学にはずっとついてまわる問いだ。

ローマ式の浴場の跡↓床下暖房が通っていたのがわかる↓

しかしこういった浴場跡も、キリスト教徒によって礼拝堂につかわれることになった↓入口の左右に刻まれた十字架↓

↓こちらはローマ時代のオリジナルの舗装道路敷石↓


・・・サロナに到着して一時間ほどが経過。殉教者ドミニウスの墓や巨大な教会の遺構を見学しているうちにどんどん時間が過ぎてゆく。
サロナ遺跡は予想したよりもかなり大きな都市遺跡だった↓下の地図がサロナ遺跡全体図↓

一時間で我々が見学したのは、左右にのびる黒い線=城壁の中央部にかたまった教会群遺跡とローマ浴場、居住エリアの一部のみ。

まぁ、事前に得ていた情報ではサロナ遺跡でもっとも発掘・復元されているのは今いる初期キリスト教の教会エリアではあるのだが。
紀元前一世紀の内戦でカエサルに味方し、その結果街が発展して建設されたフォロや、西の端の円形闘技場まではとても行けそうにない。
円形闘技場はヴェネチア支配時代に対トルコ防御施設建設の為組織的に破壊されてしまっているのだそうだが。またいつか(いつ?)訪れる機会があるかしらん。

★ドン・フラネが教会の跡を熱心に発掘したのは、彼がキリスト教者だったからだろうか?
次のページで、彼がここを発掘した様子をもうすこし紹介したい。



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スプリト考古学博物館 夜は鯖を食べに

2018-06-12 14:14:14 | クロアチア
スプリト旧市街から徒歩だと少し離れた場所にあるので通常の観光では訪れない↓

20世紀はじめの建物
↓司祭で考古学者だったフラネ・ブリッチ氏の尽力によってできた↓彼の名前を今回しっかり認識した↓

どんな遺跡でも誰かの情熱がなければ現代には引き継がれない
※翌日、サロナ遺跡の見学で彼の住んだ家と墓があった

本館にチケットを買いに入ると昼休みだった。それでも建物は開いている。あえてチケットを買わなくても自由に見学できる雰囲気。お昼寝をしていたこんな子までいた

考古学博物館本館よりも前庭を囲う回廊に見所が多い↓
↓家族墓碑ですね↓

どこかの邸宅の床↓


古代帝政ローマ時代から初期キリスト教時代にかけての発掘物が多い↓見事な彫の石棺↓

↓葡萄園装飾も↓

↓こちらはギリシャ神話の「フェードラ(パイドラ)とヒッポリュトス」から題材をとられた石棺だそうだが、知識が足りなくてよく見えてこない…↓

↓大量のアンフォラ↓

初期キリスト教時代、つまり四世紀から七世紀ごろ↓サロナがスラヴ人の侵入によって荒廃してしまうまでの時代のもの↓

↓★良き羊飼いの刻まれた石棺はフラネ・ブリッチ氏もたいへん気に入っていたもののようで、彼の邸宅の壁のデザインにも使われていたのだった↓


館内のコイン展示にスプリトに宮殿を建設させたディオクレティアヌス帝のものがあった↓

↑彼の性格までみえてきそうな精巧な横顔である
↓東ローマビザンチン時代のユスティニアヌス帝のものと比べるとその差がわかる↓

****
中世クロアチア王国時代のものを見せてほしいと頼んだら、ショーケースひとつほどの展示しかなかった↓
クロアチア公トロピミルの名が刻まれた教会の装飾↓

ローマ人の住んだサロナを破壊したスラヴ人の長だったトロピミルが、サロナのすぐ隣のソリンにつくった街の教会からのようだ。
スプリトをはじめダルマツィア地方はローマの遺跡の方が圧倒的に目立つので、こういったスラヴ人の遺物は注目されにくい。
スプリトには考古学博物館とは別に中世クロアチアの遺物をあつめた博物館があるのだそうだ。
そこを見学するとなると…現地のガイドさんのなかでもそのあたりにしっかり知識がある人にお願いしないと難しいででしょうね。
また、いつか(いつ?)
***
スプリト二日目の夜、ど真ん中から少しだけ離れてレストランをさがす。
裏路地は(危険がない街ならば)歩くのがたのしい。

これはいいんじゃない?っと思った一軒に入るが食事を出してなかった。
さらに歩いていると「ステーキ&ピッツァ」という看板にちと惹かれたのだが、
「せっかくここなら海モノがいいですかね」ということで、
そのすぐ近くのサカナの看板の店に決める。
店内に入るとけっこういっぱいで、「道路テラスならいいよ」と言われて座る。

ちかくの車の下でじっとしている子を観察
メニューを見て地ビールと「二名よりのおまかせ盛り合わせ」を注文↓

タコもハムもいいかんじ。右側のは魚のフリットあんかけ。

やがて焼マックロー(鯖)がやってくる↓

トマトソースをかけるのってどうなの?と日本人的に思ったのだが
使ってみるとこれがけっこう合う。地中海岸のサカナの食べ方にはそれなりの伝統があるのだ。

食べ終えて「やっぱりサカナの店にしてよかった」と思って立つと、
すぐ後ろの席で肉とピッツァを注文していた。
あれ?とおもったら、どうやらさっきやめておいた「ステーキ&ピッツァ」の店と同じ経営だった。
↓下の写真で左側奥が肉の店、右の手前がサカナの店↓

午後九時になり、地元常連組がならんでいる。
こんどは(いつ?)あの肉も食べてにいってみたい。






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スプリト旧市街歩き

2018-06-12 11:11:11 | クロアチア
ホテルの部屋の窓から見えているこの壁はディオクレティアヌス帝の時代から残るジュピターの神殿↓

このぐらい便利な場所に滞在すれば時間が無駄にならないし、疲れたらすぐにホテルに戻ることができる。
ガイドさんと歩き始めてすぐにダルマツィア地方(クロアチアの海岸部南方)の漁師が伝統的に歌っていた男声合唱のチームがいた↓

夏休みシーズン直前。朝十時ぐらいにはクルーズ船からのバスもたくさん到着するので旧市街の有名箇所はグループでいっぱいになる。
合唱団がいた場所の天井は、きのうも見上げた丸い空。かつて神に捧げる燔祭の煙がのぼっていった穴↓

ホテルの窓から見えていたジュピター神殿へ↓入り口の見事な古代彫刻↓

内部の天井も見事↓

※トロギールの大聖堂の礼拝堂を装飾したフェレンツィナッツもこれを見ていたんだろうなぁ
ここで見るべき中世クロアチア王国の遺構は十字型をした洗礼盤↓

使われている石材は寄せ集め。正面に戴冠されているようなクロアチア王の姿が刻まれている↓

※ザダルの考古学博物館に展示してあった教会の仕切り石板の装飾ととてもよく似ている。同じ作者かなとおもうぐらい

ジュピター神殿は、キリスト教の時代になってからは「洗礼者ヨハネの礼拝堂」になっていた。今回初めて知ったのは、二階建てになっていて地下に聖トマスに捧げられた礼拝堂があったということ。それ、見てみたい。ガイドさんが管理人さんに「入れますか?」と訊ねてくれたが、今はカギがかかっていて公開していないとのこと。入り口は裏だと言うのでまわってみると…↓

おお、確かに下の部屋に通じる入り口が開いている↑
なんとか中がみえないかな…↓古代のものらしい大きな石が整然と積み重なっていた↓

**
ディオクレティアヌス帝の廟だった建物へ入ってみよう↓横から見上げた雰囲気は古代を感じさせる↓


古代のままの構造はこの天井と周辺の装飾↓

窓は後代に開けられたもの
★2016年に書いたページご参照ください

今回新たに知ったのは床の古代オリジナル装飾が発見されたこと↓

現役で使われている教会の調査や保存は思うようにならないことが多いもの。教会側としては博物館やアミューズメントパーク化したくない。しかし調査してその歴史を明らかにして訪れる人に理解してもらう事も必要。

ディオクレティアヌスの迫害によって殉教した聖ドムニウスと聖アナスタシウスがここに葬られている。

木製の扉は中世のオリジナルトロギール大聖堂の門を装飾したラドヴァンとの類似を感じる。

塔にもあがろう。この塔は百年ほど前に考古学者で司祭のフラネ・ブリッチ氏が復元したもの。






↓★ずっと訪れたかった聖マルティン教会を訪れた※こちらからご覧ください


地下宮殿ももちろん見学。
この宮殿まで水を運んでいた古代水道の地図↓


戦争時に爆撃で開いた穴を地下宮殿から見上げる

***
ランチ、ガイドさんに連れて行ってもらった。知っていなければちょっと入らないような場所にある↓

ヴェネチアの時代に町を見張る軍が駐屯していた砦だった場所だそうだ。
マグロステーキをまた注文(^.^)↓今度は出来るだけレアに焼いてもらった↓



考古学博物館は、通常観光だと足をのばさない少し離れた場所にある。陽射しがきついの帽子をたくさん売っている。
「なかなかお似合いです、写真撮りましょう」↓

スプリトの19世紀からの劇場↓左側↓


もうすぐ考古学博物館
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スプリト到着・街角歩き

2018-06-11 20:20:00 | クロアチア
旧市街ど真ん中のホテルから歩き出すとこんな顏が見下ろしていた↓

パッと見遅くとも14世紀までのロマネスクの雨どい口か。左側が欠損していたものを右に合わせて修復し、復元した壁に貼り付けてある。※二日後にサロナ遺跡を訪れた時に発掘復元したフラネ・ブリッチ氏の事を知って、復元の真実を知った。またあらためて。
**
街歩きが楽しいスプリトの旧市街に泊まりたい。だが大型団体利用できるタイプのホテルはひとつもない。駐車場からこんな路地を入ってホテルへ着いた。ポーター役をする若者に荷物を持ってもらってほんとによかった。

チェックインして

部屋へ入ると「オダリスク」がどーんと待っていてびっくり↓ま、デッサンの名手アングルはきらいじゃないけど

六月は午後五時を過ぎてもまだまだ昼間、さっそく街角歩きしましょう
旧市街の中心に聳えているのは↓聖ドミニウス教会の鐘楼↓

↑塔の右側に見える八角形の建物が元ディオクレティアヌス廟で↑現聖ドミニウス教会本堂

ディオクレティアヌス帝がが暮らしたエリアへの入口に天井がぽかんと開いた部屋がある↓

某日本のガイドブックには「天井が落ちてこんな風になった」と書かれていたが、そんな復元ではない。
地元のガイドさんともお話していたのだが、古代に神にささげる燔祭の煙を空に届かせるために開けられていた天井にちがいない。

ディオクレティアヌスの邸宅西側の出口=鉄の門から、壁の外に中世に出来た旧市街へ出る。鉄の門の上にある鐘楼↓

この壁の中にあった小さな教会(ステファノ教会ときいたことがある)は、今はなくなってしまったが、北の黄金の門の上に今もある聖マルティン教会にもこんな鐘楼があったのかしらん。

旧市街の路地で突然であったロマネスクの小聖堂↓

こういう出会いがあるから街歩きはやめられない(^.^)
細部なかなか魅力がある↓

検索しても少なくとも英語の解説したものはまったく見つからない。
こういうレアものについては、地元ガイドをしている人のなかでも情報を持っているひとは限られるだろう。
記憶にファイルしておいて、いつか(いつ?)もっと知る機会があればよいと思う。

***
少し早目の夕食を、城壁ちかくにたくさん並んでいる店のひとつで

クロアチアは地中海でのクロマグロ養殖の一大拠点。2015年にカリ・ツナ(「美しいマグロ」の意味?)社を日本企業が買収してから拍車がかかった。2017年にはヨーロッパのマグロ需要への供給拠点になる工場をたちあげている。やっぱりマグロステーキ食べなきゃ↓

素材がいちばん(^.^)

二〇時半をすぎてようやく傾いてきた光が、さっき見た時代のちがう二つの鐘楼を照らしていた↓



明日は一日かけて地元ガイドさんとスプリト旧市街を歩く予定です(^.^)

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トロギールをちょっと散策してルネサンスの天井に気付く

2018-06-11 15:15:15 | クロアチア
ニンでだいぶゆっくりしたのでトロギールでは一時間程度
城門を入る時に鐘楼の向こうに大きく飛行機が見えた↓

トロギールはこの城門から旧市街の向こう側の城門までただ歩くだけなら五分もかからない小さな島=旧市街
ヴェネチア支配下にあった時代に建てられた鐘楼はヴェネチアのサン・マルコ聖堂のものとそっくり。
13世紀のキボリウム(天蓋)↓

堂内への門はラドヴァンという石工が十三世紀につくったもの↓



※これについてはこちらに書いております
今回新たに注目したのは、初代司教イヴァン・ウルスニの礼拝堂↓

ラドヴァンの二百年ほど後にイタリアでドナテッロに学んでいたユライ・フェレンツィナッツが手掛けた。
世は完全にルネサンス。天井が特にギリシャ・ローマ時代を再現している。
もうひとつの礼拝堂の天井も↓ああ、ルネサンス

上の天井のお手本は、近くのスプリトに残るディオクレティアヌス宮殿内ジュピター神殿からだろう↓下の写真はスプリトのジュピター神殿入口

↓そっくり!
千七百年前のこの古代ローマの装飾を、五百年前のフェレンツィナッツはモデルにしていたんじゃないだろうか。

イヴァン・フェレンツィナッツは二百年前のラドヴァンをはじめとするロマネスク彫刻もたくさん目にしていた筈。
だが、当時の彼は古代ローマの美術表現の方が断然気に入ったということだろう。
フェレンツィナッツの目にはロマネスクはただのヘタウマに見えていたのかもしれない。

古い階段を登り
鐘楼に登ると、ちょうど教会の屋根瓦をあたらしくしていた↓


失われてしまったロマネスクの教会跡↓

※これについては以前こちらに書きました



こちらの路地の左にあるトロギール最古のロマネスク教会は一度も開いていたことがない↓




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