旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

「インカ橋」を見てからクスコへもどる

2015-05-24 22:45:20 | ペルー
ワイナピチュ登山からマチュピチュ遺跡にもどり、サンクチュアリー・ロッジでゆっくりしていたかたと待ち合わせて「インカ橋」まで行く予定にしていた。携帯で連絡をとりあって、「インカ橋」への入り口チェックポイントで合流橋がかかっている道もまたかつてのインカ帝国全土5万㌔以上にはりめぐらされたという「インカ道」のひとつである。崖にへばりつくような道が続いている。


マチュピチュ山の右側へ回り込むようにして続く道からは谷の水力発電所が見えた

この発電所の見えている裏側にあった村は近年の大雨・洪水で流されてしまったそうな

そして、これがその橋。見えました?⇒



インカ帝国は現在のペルーよりも広い領土をもっていた。征服した地域の支配を確実にするためには確実な伝達機能が不可欠。全国に張り巡らされた「インカ道」は五万㌔にもおよぶという。
地形も気候ものりこえて、こんな道を建造していたのはすごい。

こういう道をつかって飛脚制度が機能しており、クスコ⇔リマ間を三日で結んでいたとされている。クスコ⇔リマは飛行機でも一時間かかる距離なのに。

**
全員でゆっくりサンクチュアリーロッジに戻ると、正午少し前となった。予定通り。
実は、きのうチェックインした際にホテルの階段で滑って近くのクリニックからお医者さんにきてもらっていた方があった。ホテルを離れるタイミングで、もういちどホテルがドクターを呼んでくれていたのは、さすがサンクチュアリー・ロッジであります。マチュピチュ遺跡の入り口わきの道をはいってすぐにこのクリニック、近くて便利

ホテル目の前から出発する乗合バスでマチュピチュ村へ降りるかつて「グッバイボーイ」というのが出現していた道だが、少年は学校へ行くことになり、もう現れません。※何のことか分からないかたは「グッバイボーイ、マチュピチュ」で検索してみてください。

村はかつて「アグアカリエンテス(熱い水)」という名前だったが、今はマチュピチュ村と名前を変えた。
この温泉というのは、実は日系人の村長が開発したというのを「世界不思議発見」でやっていた。
日本からの移民は1899年に第一回がはじまり1923年の廃止までに一万七千人が渡航したとされている。彼らの勤勉さはそこから多くのリーダーを輩出し、そのなかの一人がこの町をつくり、日系人大統領も実現させたのか。
民族を越えて信頼を得て、異国でのリーダーになりえたという先人に敬意を払います。

村の広場ここに面して市庁舎がある。中を見てみたかったが、今日は日曜日で残念。

広場の道の名前にはインカ皇帝
スペイン時代の教会ももちろん、ある。

昼食はごく軽くカフェで、と話したら、こんな店を勧めてくれたオーナーがフランス人なのだとか。たしかにおいしいです

オリャンタイタンボまで、今日はインカレールにて
往路とちがって青空、雪山も見える
オリャンタイタンボ到着。今日は村祭りで町の方へバスが入れないとのこと。ごったがえす観光客はウルバンバ川方向へ誘導され、観光バスもそちらへやってきた

おととい通った峠をあがってゆき、オリャンタイタンボを見下ろす標高3800mのチンチェロ村をとおりそろそろ日が暮れるころ標高3400mのクスコに到着した今回の旅、今日のクスコと明日のプーノが三千メートルを超える宿泊地なので高山病の注意が必要になる。

今日の宿泊はドメニコ修道院=インカ神殿コリカンチャ跡のすぐまえに位置しているホテル。ライトアップ
夕食は徒歩で近くのポジェリア(ポッジョ=鶏肉をたべさせてくれるところをそう呼びます)へ。ツーリスト向けでなく、ごくふつうのクスコの人が行くお店へトリもおいしかったけれどアンティクーチョ=串肉もやはりたべたい

ホテルへの帰路にある立派な建物は裁判所

遅くまで開いていたスーパーでこんなものをお土産に買われた方があり、ひとついただきました。
ずしっと重たい300g。チョコレートかと思ったらそうではなく、ホットチョコレートをつくるためのノンシュガー材料なのだそうです。
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ワイナピチュへ登る

2015-05-24 08:45:37 | ペルー
誰でも知っているマチュピチュ遺跡の後ろにそびえている山がワイナピチュ山。
この頂上に遺跡があり、一日二百人限定で登ることが出来ると知って、是非行ってみたくなった。

登った人のブログなど拝見すると、かなり急な階段が断崖につづいているようで、一般的なツアーでは希望しても行かせてくれないようだ。

全員に同じサービスというのではなく、希望する人にはより個別の楽しみを提供するのも《手造の旅》の目指すところ。今回、小松含め十二名中、最終的に小松含めて五名が登る選択をした。ベルモントホテルでゆっくりするのもぜったい正しい選択なのは朝食を見て思ったのだが

午前六時過ぎ、テラスからマチュピチュ遺跡の入り口を見ると、すでに行列があった遺跡のオープンは午前六時で、遺跡のさらに奥にあるワイナピチュへの登山道は午前七時にオープンする。

チケットは二百人ずつ二回に分けて、一日四百人だけ。通常のマチュピチュ遺跡チケットに加えてワイナピチュと書かれている。これは一回目の入場のもので、7-8時の入場

ゆっくり朝食をとって、我々は06:40にサンクチュアリー・ロッジを出て、すぐ横のマチュピチュ遺跡に入る。この時間でもすでにいくつかグループがきている。日の出を見るプランが日程に入っているようだ。
小松も最初日の出を見たいとおもったが、現地の地形と日の出の時間を知って「これでは思ったような日の出の絶景は見られない」と感じて無理に行かない決断をした。

リャマが草をはんでいる
急な階段斜面上の方が明るくなってゆく

「今朝は人が少ないのでコンドル神殿へ寄っていきましょう」とガイドのエドガーさんが導いてくれる。まるで道が途中で切れてしまっているような場所

その、すぐ近くにコンドルが翼をひろげたような石が姿をあらわした。印象的な形状!
昼間の時間は団体でごったがえして写真も満足に撮れない場所なのだそうだ。

この場所、奥のくぼみからアルパカやリャマの骨がたくさん見つかったのだそうだ。手前のU字型の石を付け加えて、コンドルのアタマのように見せている
ここに犠牲動物の肉を置いて、コンドルがやってくるようにしていたのだそうだ。ふうむ。

**ワイナピチュの入り口が近づいてくる。きのうの午後とはうってかわってすばらしい青空だと、あ!山稜に雪山が見える

入り口にはおおまかなワイナピチュ山周辺の地図。これをよく見ていかないと、ガイドなしの場合一方通行の道を逆行しかねない。我々の目指すワイナピチュ山頂のさらにむこうには「月の神殿」があり、そちらをまわってくるばあいにはさらに一時間ほど時間がかかるようだ
入口でチケットチェック、パスポートを見せて名前を記帳する。急峻な道をまよって遭難した観光客があって、それ以来登山者が確実に戻っているのを確認するようになったそうな。

まず、道は下り、ワイナピチュの全容が前にそびえる登りになると急な階段が続く、十五分も登ればかなりな高さに至り、振り返ればマチュピチュ遺跡が眼下に見えるではないか。

実は遺跡そのものには名前はない。マチュピチュというのは「老いた山」という意味で、つまり、上の写真で遺跡の後ろにそびえている山の事をさしているのである。標高3082m。ワイナピチュは「若い山」標高2720m

ふと足をとめたくなる花も後日しらべてみると「トゥウンボ」という花。パッションフルーツのような実がなる、トケイソウの仲間だとか。

階段に次ぐ階段!
目の前にほんとうにそびえているこの階段は、頂上から降りてくるときに使う一方通行の出口だった。上りはここを右に曲がらないと、降りてくる人と急な階段ではちあわせてしまいます。

「頂上はとても狭いので、ここで記念写真とっておきましょう」とエドガーさん。
良いお天気に恵まれ、サイコーの登山(^^)/
さらに少しだけ登ると最後にこんな岩の間の階段
頂上はこんな場所です。


こちらベゴニアの仲間葉っぱのふちも赤くなっていてきれい

この花、なんだろう?

マチュピチュの町はコンドルの形につくられているというのだが、どうです?わかります?

頂上をぐるっとまわってゆくと登山記念の頂上プレートがあった 「月の神殿」への道との分かれ道がここ

さっき見上げた階段を下りてゆく。たしかに踏み外したら転げ落ちてただではすまなそうだ。雨がふっていたりしたらとんでもない。晴れてよかった

この花は? こちらは現地ガイドブックで「チョクリョチョクリョ」と書いてあったのですが、日本語ですか??花の名前はいつも謎です。

ワイナピチュへの入口へもどってきた入る時に書いた自分の名前の横にサインして遺跡エリアに退出する。

今回、いちばんゆっくりペースの方に合わせて往復したおかげで体力に余裕がある。感謝。もしも自分がリードしていたら、ついつい早くいこうとしていただろう。まだまだワカイですなぁ。

この後はサンクチュアリーロッジに残った方々と待ち合わせして、「インカ橋」へ行く予定。
すっかり観光客でいっぱいになったマチュピチュ遺跡でリャマが一心に草を食んでいる。近くによるとわしわしと歯が草をむしりとってゆく音がきこえる食べながらこちらをじろっと見た。「観光客ってめんどうだなぁ」

・・・「インカ橋」へ向かいます
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マチュピチュのサンクチュアリー・ロッジに泊まる

2015-05-23 22:02:34 | ペルー
今回の《手造の旅》の催行を最終的に決断したのは、このホテルの部屋が予約できたから。マチュピチュ遺跡の入り口にただ一軒建ち、三十室しかない

**まず、朝の出発は「聖なる谷」のユカイ村にあるカソナホテルから庭の植物もとてもよく手入れされている

四葉のクローバーを二つも見つけた方があった
門を出るとすぐユカイ村の中心、大きな木が立っている。村の簡単な地図がホテルに用意してあって、ちょっと散策するのに役立つ。

バスで出発、となりのオリャンタイタンボ村車窓からちょっと歩いてみたくなる道が見えるが、直接駅へむかう。
往路はビスタ・ドーム号を利用ひとりひとりパスポートとチケットの名前を照合してからホームに入れてくれる
スカーフ売りのおねえさん青いの、12ドルは10ドルになりました(^^)

**
車内の座席はこんな感じ
コーヒーとお菓子がサービスされる

並走するウルバンバ川の対岸には削り取られたインカ道が見える
途中の駅からは、このインカ道のトレッキングルートがあり、マチュピチュ遺跡までテント三泊の行程だとか。ここがスタート
マチュピチュ村(旧アグア・カリエンテス)に到着今度は乗合バスで遺跡を目指すジグザグにのぼってゆくとだんだんと狭い渓谷が見下ろせる高さになってきた途中、新しい崖崩れの跡が見える。やはりこういう事は起こるのです

ぼんぼんよく揺れるバスは三十分弱で遺跡の入り口到着。左に見える建物が本日宿泊のベルモントホテル・サンクチュアリー・ロッジであります
時刻はまだ11時半。まずは手荷物を預かってもらい二階の宿泊者専用のテラスでダイニングの開くのをまつ。

雲が時折太陽をさえぎってくれるのが嬉しい暑さ。
ここは標高2400mだが亜熱帯なのでこの時期でもけっこう暑くて湿気もある。

こちら宿泊者専用のダイニングが正午にオープンアラカルトでゆっくり、いただきます。

●セビーチェマスをつかっている。先日ナスカからの帰路に食べたものとは全然違う。赤いお芋が甘い(^^)

●マスのバーガーこれがかなりおいしかったそうな。

●チッチャローン・デ・チャンチョ(Chicharron de Chancho)は、いわばポークの唐揚げ
どれもさすがのお味でした。

食事のあと13時半にチェックイン

・・・午後二時半、観光客が少なくなってくるころを見計らって、ホテルを出てすぐのマチュピチュ遺跡に入場!
入ってすぐに19011年の「発見者」アメリカ人ハイラム・ビンガムを記念したプレートが掲げられている
実際にはビンガム以前にもこの遺跡を訪れた欧米人はいたのが分かっていて、その先人の署名を削るような所業もしているビンガムだが、西欧社会にマチュピチュ遺跡の存在を知らしめたことで「発見者」として認知されている。

「あの」風景が見える見晴らし台までは少々登りが続く。雨がぱらついているが、日差しがきついよりもよいのかもしれないそして、「あの」風景が眼前に広がった時には陽が射してきた(^^)

山の間にちょうどよくこんな盆地があったと思われそうだが、違った。
隠された伝説の都市遺跡は、山と山の間の土地を埋めたてて平らにしたところに建設されたのだとガイドさんに断面図を見せてもらってびっくり
ところどころにもともとの岩盤がその斜面をあらわしている
ただ土を埋め立てるのではなく、雨水が効率よく地面に吸収されてゆくように材料を選んである。内部には水路も埋め込んであるのがわかる


「太陽の神殿」は、先日クスコで見たものと同じかたちをした小型版だ
この神殿の地下の部分が埋葬所になっている事はしらなかった奥の壁龕には王のミイラを安置したのではないかと言われている。
手前の石に初期の訪問者が書き残した名前が見える

頂上付近まで上がってゆくと、南十字星の形に削られた石なるほど頂上が南を指している。

遺跡クローズの午後五時少し前、沈みゆく太陽にフランス人のスピリチュアルな団体が夕日からパワーをもらっていた?つられて我々の何人かも同じポーズを…

この時間になると、ほとんどの団体はバスで下の村へ降りてしまっている。遺跡を見学するのにはやはりこのぐらいのコンディションであってほしいもの

遺跡の出口には、ここでしか押せないスタンプが置いてある。


「わたしのなまえはきむらたくーや」と、いきなり話しかけてきた物売りそのごもいろんな名前出して我々を感心させます。で、何人もハガキをお買い上げ。物売りも勉強しとくといいことあります(^^)

****
マチュピチュ遺跡すぐにあるベルモントホテル、夜になると他にホテルはないから静かな空間になる。なんせ一泊一室1200ドル以上はするから、滞在している人もそれなりの方々ばかり。

昼間、少し休憩していたテラス庭には天体望遠鏡を設置して、解説してくれる方がいる月のすぐ右に見えている明るい星は?「ジュピター」
覗かせてもらうと、たしかに縞縞模様が見えました。
月はこんなふうに
*****
19時にダイニングへ降りてゆく。今日もアラカルトで、さぁ、何たべましょ(^^)

全員へのアミューズは帆立貝 前菜の一つにフォアグラがあったので注文してみると、缶詰でないふわふわしたホンモノの味で出てきた こちらはアルパカのステーキ赤みがサクッとしております。

音楽も入って、サンクチュアリー・ロッジの夜はふけてゆく

・・・明日朝は、いよいよ一日限定四百人のワイナピチュ山への登山です。
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クスコからマラス塩田を経て「聖なる谷」のユカイホテルへ

2015-05-22 08:52:17 | ペルー
リマ発07:45の飛行機でクスコへ機内で出されたスナックはこれえんどう豆ですね?

クスコは●標高3400m。高山病が心配な高度になってくる。今回、出発前に懇意にしていただいているドクターがこんなものをくださった。血中酸素濃度を測る機械。リマの空港で全員の測定をしてみると全員が90%台だったが、クスコに入ってすぐに80%台にさがっていた。さらにちょっと走ったりしてしんどくなった時には70%台になっている。
70%台というのは入院が必要になるレベルなのだそうだ。
これ、体調管理にたいへん役に立ちます。簡単に測れて便利でした(^^)

空港を出てすぐのところに現代の軍人の格好をした銅像がある。ガイドさんにたずねると南米諸国独立の英雄シモン・ボリバルとアルゼンチンからやってきてペルーを解放したサン・マルティンの像だそうなあんまり似てないけれけれど。調べてみるとこの二人が会談したのは1822年7月のただ一度。


かつてのインカ帝国の首都クスコ。クスコ彼らの言葉ケチュア語で「へそ」を意味する。※このあたりの話はまた別のところに書きます。

スペイン人がとても真似できなかった精緻な石組みがいたるところに残されているこの石組みの上に現在の町が建設されているのだ。


インカの太陽の神殿「コリカンチャ」の土台の上に建設された教会。黒く見える部分がインカ時代のもの。

ペルーの国花カントゥ=Cantutaが美しく咲いていた
神殿のあった場所からは、かつて「金の庭」と呼ばれた広場が見下ろせる。ここに黄金の像がならんでいたという説からこの名前があるインカ時代の用水路は頑丈で現代も機能している。

「コリカンチャ」へ入場ここは、現代でもドメニコはの修道院がある。修道院の視覚の中庭に入ると、一角が公壊れてしまっているのがわかる。これは1950年の地震による被害。


しかし、この「被害」によって、もともとここにあったインカ時代の石組みの建物がびくともせずに姿をあらわしたのだった。これこそがここの見ものである。

生贄のテーブルと流れた血のための穴といわれるものどうなんでしょう?
門をかざっていたのはどんな装飾だったのだろう神殿の奥に置かれていたと考えられている「ケルカ」にはインカの世界観が集約されている。これは17世紀初めにファン・サンタクルス・パチャクティという征服者とインカ両方の血を引く人物が描いた絵をもとにして復元されたもの

***
門の外では、民族衣装を着た人たちがモデル料をかせいでいる

****昼食に日系人のやっているお店へ
これはキヌア・スープとにんにくスープ キヌアQUINUAとは、ヒエのような穀物で、アンデスではとても一般的。この日、あとから実物を見ることになる。
雑炊のようでおいしい

***クスコの中心アルムス広場

左手がカテドラル(大聖堂)、右手はイエズス会がつくった教会。


クスコにまだまだ見どころは多いが、今日の宿泊はより標高の低い「聖なる谷」にあるユカイ村のホテル。そこへ至るにはしかし、富士山よりも標高の高い峠をこえてゆかねばならない。

いくつかの村を抜け、標高3760mのチンチェロ村で雪山が見えた標高5530mのチコン山。今回の旅でアンデスの雪山が見られると予想していなかったのではっとする。
展望台の横の斜面を見上げるとインカ時代の遺跡が発掘されて姿を現している。「マチュ・コルカ、古い倉庫という意味です」とガイドのエドガー君がおしえてくれる。


***ここからは「聖なる谷」に向かって下ってゆく。
太陽が少し傾き、雲の影がさす山間の美しさに声もなくみとれている。

畑が赤くなっている場所がみられる。きけばキヌワを栽培しているのだそうだ。
今日クスコで食べたキヌワ・スープにはいっていたのがどんなふうに栽培されているのか間近にみてみたくて車を止めた。不審者に硬い表情のワン
キヌワ畑とチコン山
ひとつ積んでバスにもってきた

このまま谷間で降りる前に、一か所寄り道。マラスの塩田を見学谷へ下りていく手前で小さな水の流れを越えるときロバが水を飲んでいた。ここはまだ塩水ではないらしい
すぐ下には塩の畑がひろがっているが、それはごく一部の層に限られた塩が溶け出しているのだろうと想像される。


塩田の素は当然塩水だが、それは住民がつくりだしているわけではなく、自然に流れてくる水なのだから実に便利。これがその素。さわってみるとほのかに暖かく、いわゆる塩の温泉であるのがわかる現在三百六十世帯がこの塩づくりで生計をたてているそうだが、インカ時代より遥か前からここでは塩づくりが行われていたと推察されている。当然こんな現金収入も足元はあぶないが畦道をずうっと先方まで歩いていくことができるなんでも下の「聖なる谷」まで歩くルートもあるのだそうだ。

我々は再びバスで上の車ルートに戻る。

バギーカーのアトラクション、おもしろそうだけど、パンクは困った事ですね

夕焼けは濃くなり放牧の人々も家路につく頃

ウルバンバの近郊ユカイ村のホテルへたどりついた。平屋の部屋に囲まれた居心地良い中庭がある。

夕食は席だけ予約しておいてもらって、アラカルトにて楽しむ。
これはティラディートというカルパッチョのようなもの。焼いた小粒のコーンがアクセントになっておいしい。魚は川魚の赤みの鱒。これが日本人好みでおいしい(^^)ビールはペルーのキリンビールと紹介されたクスケーニャだが、これは「黒」です

夕食後、都会と違って暗い夜空には星がいっぱい。南十字星をみつけて、自分が南半球に居ることをあらためて認識した

・・・明日はいよいよマチュピチュへ向かいます。
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ゥワカチーナオアシスで砂丘すべり

2015-05-21 18:17:47 | ペルー
「ナスカの地上絵」観光をスムーズに終えることができたので、さらに南にあるイカの街郊外、ゥワカチーナ(HUACACHINA)オアシスへも足をのばすことにした。街を出てすぐに砂丘がひろがっているのがみえてくる

オアシスが近づくとサンド・バギーが何台も並んでいるこいつで砂漠をドライブにいきましょう!

ちゃんとグラスもかしてくれます





我々総勢12名は、二台のバギーに分乗した。十人乗りのものと、より小型の四人乗り。

小松の乗った小型の方のドライバー、メンバーが元気な男性陣ばかりとみるや、いきなり砂漠をぶりぶり飛ばしだした。急坂をぐいぐい登り青い空が視界いっぱいにひろがると、次の瞬間には砂の坂を逆落とし。
「ひぇ~!」っと思わず声が出る。
もう一台と行く方向は同じだが、こちらは、あっちへのぼりこっちへ降りて縦横無尽


周囲はすべて砂と青空、バギーは大きな砂丘の上で止まった。

ドライバーは、後ろに積んでいたスノーボードのようなもの(ほんとにスノーボードだと思います)をとりだす。

「え?ここをすべりおりるんですかい?どんなふうに?」
冗談かとおもったがホント。うつぶせに寝るように促した。
誰が最初に…ここは小松が行くしかないでしょう(^^)
「ヒジを出さないように」というのがポイント。

砂山のトップからずずずっとせり出すし、ボードは音もなくすべりだす。
みるみるスピードがあがって、ちょっとした恐怖がよぎるが、そのままいっきに下まで。
百メートルほどはあっただろうか。おもしろ~い!
砂丘の上を見上げると、すぐに次のメンバーがすべり降りてきた。


結局、八人がすべった。
いや~おもしろかったぁ~とほっとしたら、「今のは練習」とドライバー。
次にとまったところは、さっきとはくらべものにならないぐらい大きな砂丘の頂上。
途中のルートが視界から見えないじゃないですか…ぴゅー

だんだんハマってきた。

さらに、もう一か所、もっと長いコースをすべって、大満足
足を少し砂に触れさせてスピードコントロールと方向調整。慣れてきてます。

記念に砂漠で全員ジャンプの記念写真

ゥワカチーナ砂漠は、予想以上の大満足(^^)
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