旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

シエナ大聖堂の半地下洗礼堂と礼拝堂

2019-05-14 16:00:00 | イタリア
シエナは三つの丘の上に出来た街。大聖堂はいちばん高い丘の頂上からせり出して建てられている。後陣部分が丘からはみ出して下に支える石の部屋が二層になっているのがわかる↓

↑二層の下の部分=三つの扉がつくられているのが半地下の洗礼堂、その上の窓のない部分がかつて礼拝堂で近年まで瓦礫が詰め込まれていた階※後程入ります
↓大聖堂正面入口のある広場から、洗礼堂入口扉のある広場まで降りてくる階段↓

↓その途中に刻まれたこの小さな十字架は何を意味する?

↑聖女カタリーナが子供の頃にここで転んだんだそうです
なるほどぉ、昔からつるつる滑りやすい階段だったのかと納得

★半地下洗礼堂が一番下にある
↓扉を開けて入ると…

↑フレスコ画で被われた空間が待っている
↓中央の洗礼盤は15世紀はじめにヤコポ・デッラ・クエルチャがデザインしたもの

↕下部のブロンズ彫刻はヤコポではない。

彼は二十代の時にフィレンツェの大聖堂洗礼度扉のコンペで落選して以来ブロンズ制作に自信がなくなっていたらしく、同時代のライバル職人たちに依頼していた↓その一人=ロレンツォ・ギベルディによるキリストの洗礼↓

フレスコ画に描かれた主題のひとつが面白い↓下の左右二枚
↓動物のロバも聖ベルナルディーノの前に跪く奇跡(右)
↓強欲な金貸しが死んだ(左)↓

↑遺体をしらべると彼の心臓が無い事が分かって皆が首をひねっている(左下)
そこにやってきた聖ベルナルディーノが
「強欲だったこの者の心臓は金庫にある」と示唆…
↓金庫の中にほんとにあった(右上の黄色い箱)

↑中から出されたしなびてしまった心臓に手を残念そうに見ながら手を合わせている↑
**
ひとつ上の階、近年まで瓦礫が詰め込まれていた礼拝堂↓別の入口から入る

↑より古い時代のフレスコ画が残されていた
↓この場所は大聖堂の床下すぐに位置している↓
↓それが分かるようにガラスがはめ込まれた天井↓

↑大聖堂の床にあたるわけだ

色大理石の太い柱が見える↓

この部屋の瓦礫を取り除くと大聖堂の床が壊れてしまわないか心配されていたので、このフレスコ画の存在はわかっていたけれどそのままにされていたのだそうな。

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シエナ大聖堂博物館

2019-05-14 15:30:00 | イタリア
★シエナ大聖堂博物館の白眉はドゥッチョの「マエスタ(荘厳の聖母)」

縦二メートル、横四メートルを超える

★この作品についてこちらにもう少し詳しく書きました
↑この祭壇画は1296年に宿敵フィレンツェを打ち破ったモンタペルティの戦いの勝利に感謝して1311年ごろに完成した。

↓一方、戦いの前に戦勝を祈願したより古い時代の板絵が別室にある↓「大きな目の聖母」と呼ばれる↓

↑ビザンチン・ロマネスク風の固い描写。中世の雰囲気。
これに代わって、先のドゥッチョの「マエスタ」が華やかに美しく大聖堂にやってきたのだ。
まさにルネサンスの夜明け。
みんなびっくりしただろう。

ファサードにはめ込まれた丸窓のステンドグラスもドゥッチョのデザインによるもので、
↓オリジナルは博物館にこんな風に展示されて、間近に見ることができる↓


祭壇画は19世紀ごろにバラバラにされて売られてしまっていた。
↓あとから集めてきてこんな風に展示している

ドゥッチョの「マエスタ」でさえ例外ではなかった。

大聖堂のファサード上部を飾っているモザイクの原画もある↓

こちらは19世紀に描かれたもの

シエナ大聖堂は何百年もかけてゆっくり現在のかたちになっていった



19世紀のこの彫刻も博物館で見るべきもののひとつ↓

ヴェネチアのカノーバの次の世代になるジョヴァンニ・デュプレによるもの


この博物館の見ものは、シエナの街を一望できる建設途中で放棄された壁の上に出られること↓

人数制限しているのでちょっと待たされることもある。
↓大聖堂がこの見ている場所まで拡大される計画があったのだ↓


↓カンポ広場が見える


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シエナ大聖堂天井裏ツアー

2019-05-14 15:00:00 | イタリア
シエナ大聖堂をこんな方向から見られることは、まずない↓

ドームの内側を埋める星が間近に見える↑
↓大聖堂を歩く人々を見下ろしながらぐるりと歩く↓

この大聖堂でしか見たことがない床モザイクの至宝も上から


**
シエナ大聖堂の天井裏の修復が完成されて観光客を入れるようになって一年も経たないそうだ。
人数限定・時間指定・イタリア語ガイドのみ。
指定された時間に行くと二十人ほどが細い階段を誘導されて登りはじめる

途中に見えたこの窓は薄く切ったアラバスター製のようだ↓

オリジナルのままなのだろうか
↓ロマネスクの窓

木の梁が斜めになった天井裏へ出た↓

この場所は大聖堂を建設していく時に職人たちの工房として使われていた。

↓修復後にその様子を再現している

当時使われていた釘各種↓

多様な色石↓


内部を見下ろす場所に出る↓主祭壇方向

↓逆の正面入り口上の円窓はゴシック以前のものなのでいわゆる「バラ窓」ではない↓
↓13世紀のとても色鮮やかなステンドグラス↓ドゥッチョはジョットと兄弟弟子だったシエナ派巨匠↓

※これはレプリカでホンモノは大聖堂博物館でもっと間近にみることができる

↓壁の外側に出る

ステンドグラスも外側から間近に見える


そして「もっと大きな大聖堂」にするための未完成の壁方向を見る↓

薄い壁の上に登っている人が見える。
あそこへは大聖堂博物館から訪れることが出来る。
※あとから行きます

↓となりの病院だった建物を見つめる

天使の羽のくっつき具合も見える


↓正面ファサード



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シエナ散歩

2019-05-13 17:00:00 | イタリア
午後五時過ぎにシエナに到着。旧市街入口のホテルなのだから散歩に出よう。
シエナは三つの丘からできてる。その間、いちばん底に位置するのがカンポ広場↓

傾斜した貝殻型の広場、そのいちばん低い部分にプブリコ宮殿がある

一方、大聖堂は丘の上

大きさではなく美しさにおいてイタリア指折りである


坂ばかりだから、階段ばかり
教会の近くは滑りやすい大理石なので気をつけて


スーパーでちょこっとお買いもの
お昼のワイナリーで食べすぎたので今晩はこのぐらいでいいかな

**

翌朝、体力も回復して青空の下歩き出す
↓街のすぐ外に築かれた要塞は↓

↓巨大なメディチ家の紋章がはめこまれている。

1555年、シエナは最大のライバル=フィレンツェに敗れた。
フィレンツェは監視のためにこの要塞を建設して兵を駐屯させていた。

↓要塞のわきに、町に向かって手を挙げている女性の像↓彼女は?

彼女はこの町の出身の聖所カタリーナ。
ミイラになった彼女の首が祭壇に置かれているドメニコ教会↓

内部は改装されてひろびろとしている↓

カタリーナは若くしてドメニコ修道士会に入ろうとしたが、「あんたみたいな若くてきれいな人はどこぞへ嫁にいきなさい」として断られた。
それでも未練があったので在家の信者として敬虔な生活をおくっていると、キリストが目の前に現れて彼女と対話した。

↓こちらはキリストではなく聖ドメニコと語るカタリーナの姿↓二人の生きた時代は百年以上ちがうのだから出会ったことなどないのだけれど


カタリーナの家だったところは記念館・教会になっている。
そのすぐ横でコントラーダの祭りに使うのだろう男用のタイツが干されていた↓

コントラーダとは、シエナを十七に分ける町内会である↓それぞれのシンボルマークがある

↑ここはガチョウ地区。
他にゾウ、サイ、かたつむり、塔、などなんでもありのシンボルマーク。
なかでもこの青虫というのはかわっております↓

もともとは蚕で、絹織物をつくっていた地区だったのだろうとのこと。なるほど。

↓このあたりから見るとシエナの街の地形がよくわかる



↓街で最古のトロメイ家の屋敷は石造りで要塞の様

イスラムの月を制する紋章


さらに丘の底に向かっていく「フランチェジーナ街道」をゆくと↓
交差点に大きなロッジャがある建物↓

いわば商業裁判所
街道はイギリスのカンタベリーとローマ、さらにはエルサレムへの道だったので国際商人が行き来した。
そこで起きるもめごとを調停する場所である。

↓当時シエナはまだ独立国だったので、とりつけられているシエナの守護聖人たちは全員キッと(ライバル都市)フィレンツェの方向をにらんでいる


***今日はこの後シエナ大聖堂をフルコースで見学することにしている。
まずは付属の美術館へ
13世後半に描かれたドゥッチョ・ディ・ボニンセーニャの「マエスタ(荘厳の聖母)」は、小松の絵画の見方を変えさせてくれた作品↓

兄弟弟子のジョットとは異なり、ルネサンス的な卓越した遠近法も解剖学的に正確な描写もないが、
絵画の美しさとは本来そういう技巧ではないのだと認識した。

大聖堂のフルコース、楽しみです(^.^)

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サン・ジミニャーノへ

2019-05-13 10:38:29 | イタリア
「塔の街」サン・ジミニャーノが見えてきた

現在残る塔は十四本。かつてはあんな小さな町に七十本もにょきにょき立っていたのだそうな。
街の美術館にジミニャーノ聖人が護る15世紀ごろの姿が描かれている↓

たしかにたくさん立っております。
★サン・ジミニャーノは以前はシルヴィア(「森」の意味)という名前の街だったが、敵に攻められそうになった時に聖ジミニャーノに祈って難を逃れた(霧で隠されたとか?)ことから町の名前になった

周辺はワイン用の葡萄畑

ワイナリーのレストランがいくつもある

我々もそこでランチにした
看板犬がお出迎え

↓十四世紀ごろから?という農家の建物の二階に個室を用意してくださっていた

↓そこからの眺め

↓我々七人だけの為の前菜バッフェ

リッコタチーズが新鮮そのもの(^.^)

ひと口にハムといってもモノがちがいます

メインコースにピチといううどんみたいなパスタのラグーソース。

終わってからオーナーのウンベルトさんに蔵を案内していただいた

造っているワインに子供や奥さんの名前がつけられていた。
「ご自分のお名前のはないのですか?」と訊ねると、よく見るとどのラベルにも小さく彼の名前がワイナリーの名前として入っておりました(^.^)
**
街の正門=サン・ジョヴァンニ門前で下車。今回は九人乗りの車だからバスよりずっと時間がセーブできる

門をくぐると中世にタイムスリップ

この町を繁栄させたフランチェージナ街道(フランスへ続く道なのでこう呼ばれる)がこの道。
いや、イギリスのカンタベリーから聖地エルサレムへの道の一部でもある↓

↓かつて聖地を守ったエルサレム騎士団(テンプル騎士団と思われる)に属する14世紀の教会入口だった建物

火災にあって入口だけが当時のもの。隣は羊毛会館。
↓さらにゆるい坂をのぼってゆく

街の中心へはさらに古い門をくぐったところにあるチステルナ広場↓

「チステルナ」とは井戸の事。これが、それ。
周囲の建物は12世紀から14世紀にさかのぼる。

城壁をちょっとくぐった外側にこんなカフェ・レストランも

ひさしぶりに訪れたが観光客の増加とともにこういったお店の増加も実感した

チステルナ広場と隣接しているもうひとつのドゥオーモ広場に入る

二本の塔は、一説にはニューヨークにかつてあったワールド・トレード・センタービルのモデルになったのだとか。確かに似ているかも。
貴族たちの意地の張り合いのように高さを競って建てられた塔。このツインタワーは市が敷いた高さ規制に対抗してサルヴッチ家が二本ならべて権勢を誇示しようとしたのだそうな。
***
この街のドゥオモ=参事会教会に入ろう
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