旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

三度目のスリランカ到着

2017-01-19 08:50:34 | スリランカ

スリランカ航空直行便で九時間半、日本の真冬にスリランカの乾季へ旅するのはちょっと嬉しい↓



機内はインド的な雰囲気もあるが、もっときちんとしている印象↓



二回の食事ともにチョイスメニューだが、まぁカレーたべておきました。お米は日本のようなものではなく、カレーにあうバスマティ↓



★台湾をすぎたあたりで、こんな地図になった。よく見ると、大陸に接した二か所が台湾領として国境線が引かれている。これはなぜ?→こちらにもう少し書きました



↑地図の左端に写っている東沙諸島も台湾が実行支配している島。


★地図というのはしっかり見ていると実にいろんな歴史が見えてくる。昨年も同じフライトでアンダマン諸島の事を知る事ができたっけ⇒こちらに書いております

**コロンボ空港到着。仏教国らしく、ターミナルど真ん中で大きな仏様がお出迎くださる↓



一年ぶりに、またガイドのマーティンさんと再会↓



****我々は空港から十五分ほどのホテルへチェックイン。


※同じ飛行機に乗っていた某グループ、このままキャンディまで走るのだそうな。それはちょっと・・・遠くないですか。ハイウェイが完備されていない内陸のスリランカは、あまり快適なドライブではない。昼間なら村落の風景も楽しめるが、この時間真っ暗だ。夜道をくねくね曲がりながら走ると車酔いもしやすい。 スリランカを知らずに申し込むお客様方はそれを理解していないだろうし、カウンターで接客する係員も知らないことだろう。現場を知っているなら、こういう行程はつくらない。自分が快適ではないと思うような旅を造りたくはない。


翌朝、ゲートウェイホテルでの朝食


スリランカ料理アーッパ(ホッパー)をつくってくれるコーナー↓




↑上のセクションで気になるのは、一番下に写っている黒い塊。これは、椰子の花蜜からつくられる黒砂糖=ハルクと呼ばれる↓



溶けにくいので齧りながら紅茶を飲むのだそうだ。スリランカでは多様な椰子があって、捨てるところがない有効な財産とみなされている。「椰子の木を五本もっていれば嫁に行ける」、とガイドのマーティンさんも話していたっけ。


 


 

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バワのパラダイス・カフェ

2016-02-02 13:18:48 | スリランカ

コロンボの高層ビルに囲まれて、バワのカフェはオアシスのような場所だった。元はバワの事務所だったという場所である。

喧騒の道路から、このアーチをはいるとちょっとした中庭がありひらけた空間は、 カンダラマのヘリタンスやゴールのライトハウス・ホテルで見た空間を思い出させた。↑※冒頭の写真がそれ。

ここを過ぎるとバーカウンターと絵やオブジェが飾られたスペース。一角にはバワの胸像もある

すぐにダイニングがつづいている

この中庭にある木は、もとからあったものをそのまま利用している。ヘリタンスでもライトハウスといったホテルでも、もとあった岩をそのまま生かしているが、ここでそれは樹木になっているのか。

けっして広いとは言えない空間。細長い敷地を上手に活用している

ここはしかし、現在運営しているパラダイス・カフェがバワの手法をうまく利用できているのをほめるべきだろう。つまり、レストランで使われているデザインは見事にこのスペースに合っている⇒お土産屋さんの袋もこんな⇒ なにより★提供される料理がすばらしい。①スイート・パンプキンスープ ②ジンジャー・チキン、レモングラスとほうれん草、マッシュポテト ③SEER(「シーア」と発音するサワラの一種?)のグリル、ココナッツ・リゾット添え、アップルソースのラタトゥイユも⇒ ③ほうれん草のクレープにマッシュルーム・クリームを詰めたもの↴

デザートはレモンメレンゲ・パイ⇒ またはモカ・ポット⇒

どれもとても洗練されていて、それでいてスリランカを感じさせてくれる。このパラダイスカフェが流行っているのは、けっしてバワ建築のおかげだけではないのがよくわかった。

ちゃんとお土産屋さんもあります⇒

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ライトハウスホテル~朝から昼

2016-01-20 09:19:29 | スリランカ



デスク前の鎧戸を開ける午前六時

七時からの朝食のころにはすっかり朝の光

天気がよければテラス席もよい

スリランカ朝食の定番HOPPERは米粉とココナッツミルクのクレープとった感じ。
少し焦げたぐらいがおいしい。
今朝は三つもいっちゃいました。
彼女、お上手です



海岸沿いの敷地、しかしこの海は泳ぐのに適さない



が、それがかえって快適。少し離れた方のプールとスパこのプールがおそろしく深いのだけれど


メインビルへあがってゆくバワ設計らしい階段 ※ここでリスがびっくりのポーズをとった写真は⇒こちらから


 昨夜のバー、天井の絵柄がよく見える


これはオランダ東インド会社ですね⇒


バー隣のテラスに出ると、熱いインド洋の風が吹いてくる




道路からアクセスする螺旋階段の彫刻も、天井に開けられた穴からの光で、昨夜とは全然違ってみえる



螺旋階段を覆うドーム⇒


どの場所にもバワらしいデザインが見える。唐突な階段⇒


この岩を残すセンス⇒


階段の向こうにひとつ置かれた壺↴



この壺がスリランカの歴史を見せてくれているのだということを、ゴールの海洋考古学博物館へ行ってみて理解した。


**ライトハウスホテルを感じるためには時間が必要だ。一泊だけでさっと移動してしまっては見えてこない視点がたくさん隠されている。我々が滞在した中日は午後一時半からゴール旧市街への出発とした。それでも、もっと時間が必要だと感じさせられる。小松認定・極楽ホテル


 


 

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ジャヤヴァルダナの「アジアの国日本」への言葉

2016-01-20 00:01:29 | スリランカ

「人間というのは、なぜ同胞に対してこれほど残虐になったり殺したりすることができるのだろう。誰でもが、誰かのパートナーや、母や、子供であるに違いないのに」1983年に国民に対して行った発言より⇒

彼の記念館は、外国人観光客がそれほど興味を持つ場所ではない。ひっそりと小さな入口である⇒ しかし、入ってすぐのホワイトボードに、こんな日本語が↴

裏手には特別に「日本館」があり⇒ 日本人だけは、頻繁に訪れる⇒ 今日は我々が訪れたので、開けてくれた。

日本とスリランカが好意的な間柄になったのは、このJ.R.ジャヤヴァルダナ(当時外務大臣、後の大統領)が1951年サンフランシスコ講和会議で行った演説が大きな役割を果たしたと言ってよい。

戦後六年、未だ占領下にあった日本を、どのような条件で国際社会に復帰させるかという会議。主役は当然戦勝国のアメリカ、ソ連、イギリス、それに中国(当時はまだ中華民国政府)で、アジア諸国は「被害国」がどう賠償を求めるかという程度で、大きな発言権はなかった。

ソ連が最初に提案した案は、事実上の日本分割統治。いかなるきびしい条件がつけられようとも、日本はそれを拒否することは難しい場面だった。アジア諸国がどのような賠償を求めても、それを受け入れざるを得なかった。

演説の主要部分を引用・・・

「しかし、我々はその(賠償の)権利を行使するつもりはありません、なぜなら、アジアで何百万人の人々の生き方に徳をあたえてきた(小松意訳してます、「Gerat Teacher」=(ブッダを指す)の言葉を信じるからであります。」

「Hatred ceases not by hatred,but love」=「憎しみが憎しみを終わらせることはない。愛する事だけがそれを可能にする」←後年、本人が書いたもの

「この仏教の創始者・ブッダの言葉が伝えたヒューマニズムの波(小松意訳)は、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム(タイ)、インドネシア、セイロン、ヒマラヤの北チベット、中国、そして日本まで伝わっています。それは、今でも存在し続けて、何百年も、我々(アジア全体のことを指している)を、結びつけ続けているのです。」

「この会議に来る途中私は日本に立ち寄り、日本の市井の人々、国のリーダー、寺院の僧侶、様々な日本人の中にブッダの教えが未だ生き続けているのを感じました。かれらにその教えを実践する機会を、我々は与えるべきではないでしょうか。」

「ここで決められる条約は、できる限り寛大であるべきです。我々は日本に友情の手をさしだし、信頼し、人類の歴史のこのページ(「戦争」を指す)を閉じるべきであります。そして、平和と繁栄の新たなページを人類の尊厳をもってはじめようではありませんか」~演説の締めくくりの言葉を意訳

前半の部分でも、アジアの視点で、欧米諸国を牽制している。

「昨年コロンボで行われたコモウェルス(元英国の植民地でつくる英国連邦国の集まり)の外相会議では、日本に完全な独立国とするべきだという結論となっていました。日本を孤立させてはならない。 東アジア、東南アジアを繁栄させていくことは世界にとって重要な事です。何世紀にもわたり(主権を)無視され、苦しめられて、最近になってようやく自由を得た国々のひとつとして、日本を見てゆくべきなのであります。小松意訳してます)

この言葉、日本の掲げた「アジアの独立」の大義を思い出させる。太平洋戦争初期に日本が掲げた、アジアの欧米からの独立は、それが結果的に侵略の方便になっていたのだとしても、アジアの人々に希望を抱かせてくれたことを、思い起こさせてくれている。 議場でこの演説を聴いた吉田茂は、どれだけ有り難く思い、勇気づけられたことだろう。

実際に演説の時に使われた原稿が展示されていた⇒

**晩年、来日された時の写真がいくつも飾られている  八王子の寺には彼の銅像もあるのだそうだ⇒

***サンフランシスコで演説した当時彼は外相、同年大蔵大臣にもなり、はじめてセイロン中央銀行を設立。自国のお金が発行された。下は、最初に印刷された紙幣「000001番」のお札。ジャヤヴァルダナのサインとアメリカの経済学者ジョン・エクセターのサインが見える。エクセターは、FRB(連邦準備議会)のメンバーであった人物で、セイロン銀行初代総裁になった人物。

「セイロン中央銀行によって発行されたこの最初の紙幣を、銀行の設立に尽力されたあなたに、喜びをもってお贈りします。」ジョン・エクセター

1951年は、スリランカ(当時はまだセイロン)だってやっと、何百年にもわたるポルトガル、オランダ、イギリスの支配から、やっと抜け出すことができた時期なのである。 紙幣に描かれているのは、未だイギリス国王・ジョージ6世、エリザベス二世女王の父である。

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ゴール海洋考古学博物館

2016-01-19 12:59:38 | スリランカ

ゴール旧市街、もともとオランダ東インド会社の倉庫だった建物が博物館になっている。昨年その存在を知って、今年ようやく訪れることができた。

ベテランのガイドさんも入ったことがないという。日本人のグループツアーでここを入れているものは、見たことがない。個人客のブログでもこれについてちゃんと書いているものはなかった。 あまり人気はないのか・・・でも、博物館・美術館というのは、他人の評価はあてにならない。

これまでも自分自身で見て、価値がある訪問だったと思えた場所は多かった。今回は是非、脳みそフル回転させてその魅力を見つけよう。

**

建物は17世紀のオランダ東インド会社時代の倉庫⇒ ミュージアムの看板もある⇒ 2004年のインド洋大津波の際、ここは2メートルの高さまで水没し、2009年にやっと再オープン。しかし、入口がどこなのかはっきりしない。

この、オランダ時代からのゲートの内側にあった入口から入ると・・・確かにオランダ東インド会社の船模型とかあるけれど⇒ 巨大なクジラの骨⇒ 2004年インド洋大津波の説明⇒ といった感じで、どうも思ったものと展示がちがう。※こちら入場料300ルピー

「こんな程度?」と思いながら退出して歩き出したが・・・あれ?巨大なイカリが展示してある。もっと大きな入口があるようだ↴

入ってすぐに理解した。ここが、海洋考古博物館の本丸だった。※先ほどとは別の入場料で US$5 または700ルピー この二つののミュージアムは統合すべきです

入場して最初の部屋に、先日訪れたダンブッラ石窟寺院からもってこられた、18世紀のフレスコ画が飾られていた。※ダンブッラ石窟寺院については写真日記をご覧ください

そうか、こんなフレスコ画が、やっぱりあったのか。 主題は、アショカ王の娘サンガミッター尼が、釈迦が悟りをひらいた菩提樹の木の分木をスリランカにもたらしたシーン↴

そうそう、ダンブッラの石窟寺院前に大きな菩提樹が植えられていた。ブッダガヤから持ってこられたあと何代目かにはなるそうだが。

小松が最もおもしろいとおもったのが15世紀の●三つの言葉で書かれた碑文。写真下↴

右に縦書きの中国語、左上に南インドからスリランカにかけて用いられているタミル語、左下にペルシャ語をアラビア文字で、記されている。三つの言葉の境目を拡大した写真が下↴

スリランカがそれぞれの文化圏をつなぐ場所であったことがこの碑文から実感できる。

●誰によって設置された?⇒15世紀明のアドミラル(海軍提督)鄭和(zheng-He,ていわ) 明の永楽帝によって中国南方へ派遣された宦官将軍

●何が書いてある?⇒三つの民族それぞれの神への奉納をしたこと。漢字では、アダムズ・ピーク(セイロン島の山)頂上の仏教寺院へ。タミル語ではヒンズー教の神に。ペルシャ語ではイスラム教のアラーの神に。

★⇒鄭和とこの碑文について、こちらにもう少し書きました

鄭和のポートレートが大きく掲げられていた⇒中国の南アジアにおける存在感は、昨日今日にはじまったことではないと、実感。

***碑文をもうひとつ

こちらは、12世紀の海洋法、パラクラマバフ一世王の時代にスリランカ島北部のジャフナに設置されたもの。タミル語で書かれている↴

内容は、いわば「海洋法」。緊急に必要なときには港に避難し、船を修理する事を告げている。その際、積荷の半分を差し出すこと、ゾウや馬などの動物の場合には四分の一。と、書かれている。これは一見とんでもない暴利に思えるかもしれないが、不法に港に入った船は全部没収されても文句が言えない時代に、こういう「慈悲」を法にしているのである。

***

ゴールの港にはたくさんの沈没船が眠っている。

その場所を確定した地図がこれ⇒ 場所はわかっていても、すぐに引き上げられるものではない。

●1659年7月2日に難破した東インド会社の船の復元⇒引き上げられた大砲のひとつが写真の左に写っている。 海底にはこんなかたちで残っているだそうな⇒

●沈没船から引き揚げられたソーダ水のボトル↴

これはゴール湾をまもる灯台近くで発見された、19世紀半ばに沈没した船に積んであったもの。ボトルに書かれた会社名はClarke Romer & Co. Ceylon。現在の我々には想像できないが、当時は「ソーダ水」というもの自体がたいへんな価値をもって取引されていたようだ。それは気軽な飲み物というのではなく、たとえばコレラなどの病気の治癒を助けるものと位置付けられていたようである。 コロンボの博物館には同様の沈没瓶がより完全なかたちで保存されており、中身がまだ入っているものもあったそうだ。⇒こちらのページにその写真がありました

●巨大な神像。仏とヒンズー教の両方の雰囲気を感じさせる。解説版にはBodihisattava Avalokiteshvaraと説明されていた。あえて日本的に理解しようとすれば「菩薩」「 観音」となろう↴

ゴールの海洋渡航者を守り、皮膚病に苦しむものを救うとされていたのだそうだ。

※両者の共通項は?・・・「荒れるもの」から救う、という理解をしたのだけれど。禅問答みたいですね(笑)

 

●2004年の津波の時にみつかっった木造⇒その形状からミャンマーで製作されたと考えられている。

●マルタバンの甕が、バラバラになっていたものを復元されていた。

もとはこんなにバラバラだったのだ⇒ 「マルタバン」とは、現在ミャンマー領の海岸の街。ここでつくられていたこのタイプのものを「マルタバン」と一般的によぶ。

これを見て、ライトハウスホテルに何気なく置かれていた甕が、ぐっと意味を持って思い出されてきた。

あぁ、バワもセイロン島の歴史を感じさせようとしていたのか

 

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