旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

「老人と海」のコヒマール村、ヘミングウェイの邸宅

2015-12-10 11:34:15 | キューバ

ハバナから三十分ほどの小さなコヒマール村は、ヘミングウェイが「老人と海」の舞台にしなければ、これほどまでに観光地にならなかっただろう。
訪れてみると・・・アメリカ時代に区画整理された市街地も今はくたびれ果てていた。

華やかな雰囲気はほとんどないし、かつての邸宅は廃墟のよう(人は住んでいる)↓

「老人と海」の映画が撮影された1950年代なかごろには、裕福なアメリカ人たちが滞在していた名残が感じられる。
この立派は廃屋はホテルに改葬されることが決まったそうだ↓

ヘミングウェイいきつけの店「ラ・テラッツァ」は、そんなくたびれた町の中に突然あった

このちかくだけ観光バスがずらりと止まっている。
この店にだけ、続々と観光客が昼食をとりに入ってゆく。
海に向かって張り出した、たしかに雰囲気のよい空間↓

我々もバンドを聴きながらランチ

壁にはこんな巨大サメの写真が飾られていて↓

「老人と海」のラストのように巨大なカジキまぐろもばりばり喰っていたんだろうなと思わせる。

フィデル・カストロとヘミングウェイはここで一度だけ会っている。
共に釣り大会に参加して、フィデルが優勝したのだそうだ。
革命から二年もたたない時期にも、フィデルは一個人としてのアメリカ人となら楽しく会っていたのか。
国家と個人というのは、いつも分けて考えなくてはならない。


「ラ・テラッツァ」から港の小さな要塞までは五分もかからない

映画「老人と海」の中でも、何度もこの場所が出てきていた。
あの話はヘミングウェイが実際にここできいた話がモデルになっている。



ギリシャ風の円形列柱の中にヘミングウェイの胸像がある

ヘミングウェイが1961年に猟銃自殺すると、コヒマールの漁民たちは悲しみ、自分たちの船のスクリューを持ち寄って、この銅像をつくったのだそうだ。


★後日、映画「老人と海」を見せてもらった時、意外な事が分かった。ギリシャ風の円形列柱が映画の中にも映っていて、その時にはヘミングウェイの胸像は存在していなかったのである。


***コヒマールからさらに三十分ほどバスに乗り、ヘミングウェイが19年間暮らした邸宅を訪問する。
四ヘクタールの敷地を持つお屋敷の入口がこれ↓

門柱を入ってすぐ左に野球のグラウンドがあり、地域の子供たちのために解放されていた場所だそうだ。
しばらくいくと小高い丘に邸宅が見えてくる。
この場所にはスペインが築いた見張り砦があった。
今でもその石垣の一部は残っている。
本宅のすぐ右に、ヘミングウェイの息子が滞在した家がある↓

息子は父の四番目の妻とは折り合いがわるかったので、離れを建てて住んだのだそうな。

こちらがヘミングウェイが暮らした本宅の入口↓

お客が到着するとポーチの鐘を鳴らし、ドアを開けると左右に小さな大砲を鳴らして歓迎した。


家と敷地はヘミングウェイの四番目の妻がキューバ政府にそのままのかたちで遺贈した。半世紀後の今も当時の様子がそのままになっていて、いまにもどこかでヘミングウェイがくつろいでいそうな雰囲気がある。


基本的に中へは入れず、窓から中を覗き込むかたちで見学する。
どの部屋も本がぎっしり入った本棚が置かれている。
趣味の狩りで得た獲物の剥製もほとんどすべての部屋に飾られていた↓

剥製とともに当時の芸術家たちの作品も置かれている。
碑の差し込むほそながい部屋の壁にかけられているのはジョアン・ミロの作品だとか↓

こちらの闘牛のオブジェは、イタリアの独裁者ムッソリーニが気に入って「いくらでもいいから売ってくれ」と、数字の書かれていない小切手を送ってきたそうだが、ヘミングウェイは「返答不能」の印を押して返してしまった↓


ワードローブの軍服と靴↓

ヘミングウェイは「男っぽい」ライフスタイルをことさら演じていたように感じる。

妻の趣味だった天体観測のために建てられた塔もある↓

風が通る三階部分は「夫が執筆するのによい環境になるだろう」と思って用意されたそうだが、
ヘミングウェイは下の部屋で書くことが多かったという。
痛めた膝がつらかったのかもしれない。


ひろい庭の一角には所有していたボートが置かれている。
かつてはコヒマールの港につながれていた↓

写真で手前に写っている四つの墓は犬たちのもの。
猫も大好きで五十匹以上いたのだそうだが、多すぎるからかその墓はみあたらなかった。


****


ハバナまで一時間ほど走る。ホテルの近くのスーパーマーケットでなにか買ってとおもったのだが・・・ここで我々は★真実のキューバを見つけることになった

※キューバのスーパーの実態をこちらに書きました


いやはやこんな品揃えだとは…ガイドさんも先に教えてくれればよいのにと思ったが、こういうことって自分の目で見ないと、いくら言われても納得できないもの。パッケージツアーでは見ることができない素顔のキューバと言える。

ひとやすみして、夜九時過ぎにホテルを出発。
1935年から続くキューバ一のキャバレー「トロピカーナ」のショーを見学。
なんと、屋外にある千人規模の施設。
22時から24時まで、ノンストップで見ごたえのあるステージが繰り広げられた。


 

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ハバナ~モロ要塞とカバーニャ要塞、ゲバラの博物館

2015-12-10 08:03:57 | キューバ

ハバナ湾は一本の水路で外海とつながった良港である。その入口を守るために1584年から1640年まで半世紀以上をかけて建設されたのがモロ要塞。下の衛星写真地図をみると、その位置の重要性がわかる↴

水路を挟んで対岸にあるプンタ(岬)要塞との間に巨大な鎖を渡して、ハバナ湾の出入りをコントロールしていた。鎖は朝六時に下げられ、午後九時に引き上げられる。要塞の入口に俯瞰写真が入口に掲げられていた⇒

中に入る前に、外側から水路を挟んでハバナ旧市街を見晴らす⇒きのうの青空と違い視界が悪いが、それでも対岸にハバナのスカイラインがずらり。ひときわ多いなクーポラは、アメリカの連邦議事堂とそっくり。アメリカ支配時代の建物である。 今しも、奥の湾から巨大な船がやってくる⇒

1762年の6月、スペイン本国が七年戦争でプロイセンと戦っていた時、プロイセン側についていたイギリスが不意に襲ってきた。三か月包囲され、堅固な城壁の中に籠城したが、海側の一角を爆破され、陥落した。爆破された部分は今でもそのままになっていた⇒ キューバ全土は未だスペインの支配下にあったが、最重要のこのハバナだけはイギリス支配下となり、スペインはイギリスと交渉する。なんと、領有していたフロリダ半島とこのハバナ一都市を交換したのである。これによって、フロリダはイギリス領となり(※アメリカ独立戦争前である)、翌年ハバナはスペインの手に戻った。

この要害には、現代にいたるまでたくさんの大砲が設置されてきたのがわかる。今でもその残骸がたくさんみられる⇒ 1963年のいわゆる「キューバ危機」の際にはアメリカ軍の侵攻も十分あり得る事だったので、コンクリートのトーチカも建設されている。今でもその銃眼や大砲台はそのまま↴

柵なんてないので、気をつけましょう 堀は17世紀からそれほど変わっていないのだろう、手すりのない急な階段がある。降りるのも落ちるのも自己責任⇒

モロ要塞入口⇒ 当時の大砲は一発20㎏の重さ⇒ こんな恰好の兵士がいたんでしょうね⇒ キリスト教徒にとって不可欠な礼拝堂もある⇒ここ埋葬されるのはそれなりの位にあった人だけ。

灯台は新しいものだがのぼってみよう上まで行ったら管理人さんに「今日はテラスが滑りやすいからクローズ」と言われた。今でも現役の灯台である。一枚だけ写真を撮らせてもらった。ハバナ港への水路がよく見える⇒

***バスに乗って、すぐとなりに建設されたカバーニャ要塞へ向かう。 スペインはイギリスによる手痛いハバナ占領を繰り返させないために、南北アメリカ大陸で最大の面積を誇る大要塞を、わずか十年ほどで建設した。カバーニャとは粗末な納屋のこと。イギリス軍はモロ要塞を攻略する際、粗末な納屋があっただけのこの丘を占領して大砲を設置し、モロ要塞を砲撃したのだった。

入ってすぐのところに、世界最長の葉巻をつくった職人さんがいる⇒この写真で写っている背の高い黒人さんがその人。これは蝋人形なんですけどね(笑)、本物は奥の有料エリアにてお待ちしております。

1994年にフィデル・カストロがフランスのテレビ局と共にやってきた時の写真があった⇒

18世紀の大砲⇒カルロス四世の名刻まれている。マドリッドのプラド美術館にあるゴヤの描いた何枚もの絵が有名ですね。 ここでは今でも午後9時になると、かつて港の鎖を閉める合図だった大砲を一発撃つという儀式が行われている。観光客がいっぱいで、良い場所で見るには一時間ぐらい前から場所取りをしておかないとダメなのだそうだ。

カバーニャ要塞は現代でも守りの要だったので、1959年1月1日に革命が成功してすぐに、ゲバラがカバーニャ要塞司令官に任命された。彼が執務していたのがこの建物⇒現在修復中なので、ゲバラの博物館は別室にある⇒一部屋だけのものだが、ゲバラが使っていたニコンのカメラがある⇒26歳のゲバラはメキシコシティで写真屋をやっていたほどの腕前。フィデル・カストロの兄弟と出会ってキューバ革命へ導かれていった頃だ。ゲバラがボリビアで殺され、その遺体は1997年にやっと発見された。その場所の土

****再びバスに乗りカバーニャ要塞のすぐちかくにあるゲバラの第一邸宅へ向かう。途中、アメリカ軍のU2偵察機の残骸が展示されている。キューバ危機の時に撃ち落したものだそうだ⇒ 

巨大なキリスト像は1958年のクリスマスに完成して、革命で一週間後に国外逃亡することになるバティスタ将軍もやって来たのだそうだ。 すぐ近くにあるこの家がゲバラ住んだ最初の家入口に大きく彼自身のCheというサインが拡大して描かれている。入ってすぐ左に、家にいるときの仕事部屋⇒ここに彼は二度目の妻になるアレイダと暮らしていたが、結婚前だったので部屋は別にしていたのだとか チェスも好きだったゲバラ ジャングルでの闘争のさ中でも、村の人たちを教える事を怠らなかった。この写真はその貧しい屋外学校⇒

1997年、キューバに戻ったゲバラの遺骨をおさめて式典に出されていた箱↴

*****

午後はヘミングウェイ「老人と海」ゆかりのコヒマールへ向かう

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