ザグレブの大聖堂は、1094年にハンガリー王ラースローが「カプトル」司教区をつくったのにはじまる。
大聖堂13世紀にモンゴル人の襲来で壊されたが、すぐにゴシック様式で再建されていた。しかし、その聖堂は1880年の大地震で天井が崩落。塔も大きなダメージをうけたので建てなおされた。この時予算が足りなくて、もろい砂岩が使われてしまったおかげで、もう18年も修復が終わらない↓
※地震前の1880年以前に撮影された絵葉書をこちらからご覧いただけます
入口のゴシック風とびら。いちばん右の聖人はキリル↓
中に入ってふりかえると、クロアチア独特の文字がかべいっぱいに描かれている↓
★グレゴール文字は、スラブ語でミサをおこなうために、キリルとメトディウスによって9世紀に作りだされたとされる。ギリシャ文字をもとにしているが、クロアチアで使われるグレゴール文字はさらに独特であまり似てはいない。
ラテン文字によるミサと説教を、地元の一般民衆にも分かるスラブ語(クロアチア語)とグレゴール文字で広めようという運動は、しばしばローマと衝突した。
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大聖堂の中心に、蝋人形が寝かされていてぎょっとする↓
この人物はステピナッツという第二次大戦中の司教。ナチスドイツがクロアチアを、セルビア中心のユーゴスラビアから独立させたのを利用した。
それがナチスへの協力だったと疑われ、ユーゴスラビア共和国で有罪判決をうけ、戦後ずっと軟禁され、そのまま1958年に亡くなった。
だが、1991-5年の内戦を経て独立したクロアチアは、ステピナッツの有罪判決を取消し、遺体はこの大聖堂に埋葬されたのである。
★ ステピナッツに助けられた、クロアチアを代表する彫刻家イワン・メシュトロビッチは、聖堂内にステピナッツがキリストに祝福されているレリーフを奉納している。この作品はいつからここに置かれるようになったのだろう↓
**「血の橋」と呼ばれる場所を通り、もうひとつの旧市街の中心「グラデッツ」地区へあがってゆく。
二つの丘は別々の街で、その間を流れる川の水利権をめぐって流血があったからこの名前になったというガイドブックの解説だったが…本日ガイドしてくれた若いイワン君が独自にしらべたところによるとそうではないそうな。 「グラデッツ」地区へ入る大事な橋が赤く塗られていたのが、この名前の由来だと僕はおもっています」との事。それも有り得ますね(^^) ガイドブックを鵜のみにしない方が、街歩きは楽しくなる。
「グラデッツ」地区のもと城壁だった場所に、市民の信仰をあつめる「石の門」がある。ここに掲げられているイコンは、火事の時にも無傷で残り、人々の願いを叶えてきた。クロアチア語のありがとう「HLAVA(フヴァラ)」パネルがたくさん奉納されていた↓
「グラデッツ」地区の中心にあるサン・マルコ教会↓屋根のタイルにクロアチアの地域を表す紋章と、ザグレブ市の紋章が見える↓
ここに向かって右手が国会議事堂。今日はお休みだけれど民族衣装のガードが立っていた↓
丘の端まで行く。14世紀の塔の窓から小型の大砲が先を覗かせている。これは今でも正午に空砲を鳴らす。
「カプトル」地区の、さっき訪れた大聖堂が見える。社会主義時代の似つかわしくないビルもある↓
*** 旧市街と新市街の境目にあたる「イエラチッチ広場」に到着。 この人物がそのイエラチッチ↓
※彼については別に書きます 夕食はビアホールでザグレブ風カツレツであります↓
駅近くのシェラトンホテルでおやすみなさい。