旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

五島列島四日 キリシタン洞窟から中通島へ

2017-09-19 22:34:48 | 国内
久賀島を出た船は二十分ほどで若松島の南端に至る。陸からはたどり着けない岩場に「キリシタン洞窟」を呼ばれる岩穴がある↓

明治初年の切支丹弾圧の際、郷を逃れた数家族が隠れ住んだが、料理する煙を漁船にみつけられ、捕えられてしまった。

この場所に住んだのは四か月ほどだったと言われる。
岩場では毎年ミサが行われている↓


**
若松島の土井の浦で上陸。予約してあった二台のタクシーに分乗。小松がリクエストしておいた「日の島の墓石群」へ向かう。今は離島の中のまた離島になっている小島だが、中世には活発な港だった。港には今でも沈没船があるという。

室町時代からという風化して文字も読めない墓石がずらりと並んでいる↓






●龍観山(りゅうかんざん)展望台 

ここで坪内パンさんのつくってくれたサンドイッチをいただきまーす↓



若松大橋をとおり↓

中の浦教会を横目にみて↓


島の中心である有川港に近づくと蛤浜がある↓

ここは海開きで砂の彫刻をつくるのが有名なのだそうだが、シーズン終わりの九月半ばでもこのぐらいのこっていた↓はじめてこの手の砂の像を触ったが、おもったよりも固く締まっている↓


●鯨賓館(げいひんかん)は港のターミナルそのものに付属している
かつて有川の主要産業だった捕鯨の博物館であります↓


建物そのものが鯨のカタチだ↓


●頭が島教会はやはり行っておかねばならない教会だ。これは中通島の東のはずれから1981年に建設された橋でつながった頭が島にある。こんな辺鄙なところにと思うが、やはりこういう場所でなければ、移住者は受け入れてもらえなかったのだろう↓辺鄙な島に橋が架かったのは、頭が島の丘の上に飛行場が建設されたから。現在でもチャーター機ならば利用できるのだそうだ。

尾根の道から港を見下ろすと、頭が島教会の建物が見えた↓この道だって飛行場が出来たタイミングで整備されたものでまだまだ新しい。

こういった海辺の村落のほとんどすべてが、当時は海からのアクセスしかなかったと思ってよい。
今はしかし、たくさんの観光客がやってくるので、混雑時は一般車は手前のパーキングに入れさせられ、そこからシャトルバスで訪問するのだそうだ。幸い、タクシーやバスは現状そのままアクセスできる↓

当時西日本で唯一の石造り教会であった↓地元でとれる砂岩があったので可能になったのである。

切り出された石は使われる場所によって長さが違う。きざまれた数字は「四尺九寸五分」の意味↓

屋根の雨どいは、雨だれが壁を伝わないように工夫がしてある↓

***
今晩宿泊のマルゲリータへ行く途中「青砂ヶ浦天主堂」↓

置かれていた、拷問「算木責」に使われていた石↓

矢堅目埼の面白いかたち↓

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マルゲリータ到着
解放的な入口レセプションの空間↓

ここはけっして広いホテルではないけれど、充分な快適さがある。
なにより、おいしいダイニングが待っている。


明日は野崎島を見学してから小値賀島に宿泊です


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五島列島四日 久賀(ひさか)島

2017-09-19 12:00:34 | 国内

朝、福江島の港へ行く途中、商店街の坪内パンさんにランチ用のサンドイッチをとりに途中下車。忙しい朝なのに、わざわざバスに乗り込んで説明してくださった↓
※こちらに詳しく載せました

永冶さんが今朝も港まで送りにきてくださった。永冶さんはNPO法人の代表を務め、五島の椿油のために活動しておられる↓
※こちら内閣府のホームページです
※こちらツィッターのページです

ご自慢の椿油石鹸を、是非ためしていただきたく、こま通信から予算を出して、お一人ひとつプレゼント↓




午前九時半、チャーター船に乗って久賀島へ向かう。ここからのガイドは長崎巡礼協会の平山さんにおねがいした。これから向かう久賀島のご出身であります↓


十五分ほどで久賀島がみえてきた↓あれは浜脇教会。久賀のキリスト教信仰の中心。↓

久賀島はアルファベットの「U]の形をしている↓左下の田ノ浦から上陸し、

今回ちょうどこの地図の赤い線と同じルートで回る

タクシーに分乗して、まずはさっきの浜脇教会へ到着↓

海上から見ていた時はごく普通にみえていたが、間近にするとはっとした。清楚にバランスがとれている。平山さんは「いちばんきれいな教会だと思っています」と、さらりとおっしゃった。小松も同意。

今、見えているのは1931年(昭和六年)に建設された、日本で初めてのコンクリート作りの教会。

先頭部分に木目が見えたので「この部分は木製?」と思ったが↓

これはコンクリートを固める木枠の木目のようである。

内部、今は当然のように椅子席がならべられているが、平山さんが子供の頃はただの板床で、その上にぎっしり正座していたそうな。
当時はたくさんいただろう子供たちが、広い聖堂の後ろの方でしびれを我慢して座っている姿が見えるような気がした。

☆この場所にはかつて、1881年(明治十四年)に建設された木造教会があった。
世界遺産登録候補にもなっている「旧五輪教会」がそれである⇒
正確には現在の教会の場所から左奥手の場所である。現在は民家が建っている⇒
ここにあった木造教会を1931年(昭和六年)に解体し、船に積み、現在ある五輪地区にてもういちど組み上げたのである。
五輪地区にはその後新しい教会が出来たので、木造教会は「旧」五輪教会と呼ばれているが、「旧浜脇教会」という理解もしておいたほうがよい。

***
再びタクシーに分乗し、少し山を越え、アルファベット「U」字型をした島の内海部分におりてゆく↓
田畑も多く、おだやかで豊かな景観である↓こういう場所には当然、キリスト教徒が移住してくる以前から仏教徒の集落があった。


先住の仏教徒たちから「いつき」と呼ばれていたのだと平山さんが解説されたが、小松はじめはなんの事か分からなかった。漢字で「居付」と書くのだと知って、その意味するところをやっと理解できた。

貧しかった五島藩は1797年(寛政九年)に大村藩から千人の入植農民を送ってくれるよう依頼する。
それに応じたのが西彼杵半島に多く住んでいた隠れ切支丹たちであった。五島藩はその実際をどのぐらい知っていたのか分からない。知っていても目をつぶり、年貢を納めてくれるならばそれでよいと考えたのかもしれない。同年、第一陣として百八名が移住。最終的には三千名が五島に移住したと言われている。

五島はしかし、無人の島ばかりではない。耕作に適した場所にはすでに村落があったので、入植者はよりきびしい土地を開墾するしかなかった。久賀島で現在キリスト教徒が多い集落になっている場所は、どこもきびしい地形をしている。外からやってきて「居付」いた人々には、そういった場所しか与えられなかったのだ。

先住の島民と「居付」の間に深い交流はなかなか育ちにくかっただろう。隠れた信仰というだけでなく、漁場、収穫、行事における優先権、生活のすべての場面で移民と先住民の軋轢があるのは古今東西変わらない。

明治になってもキリスト教弾圧は続いた。久賀島では自らキリスト教徒であることを名乗り出た人々が捕えられ、十二畳の広さに二百人もの人々を押し込めた。その場所が殉教地として残され、慰霊碑と教会が建てられている↓

場所は、内海に面している。その場所から海をはさんだ対岸に代官所があって見張られていた。

二百人もの人を押し込み(満員電車以上の状態)、食べ物もろくに与えず、糞尿は垂れ流し。死んだ者はそのまま下敷きになり五日間も放置されウジがわいた。
悲壮な建物のまわりを、仏教僧が「改宗させる」として念仏を唱えながらぐるぐる回った。中からはそれ以上の声でオラショ(キリスト教の祈り)を唱え、ひとりも改宗するものはでなかった。こんな状況が、八か月間も続き、殉教者は三十九名。牢を出てからも三名が亡くなった。

殉教者の最後の言葉を刻んだ石がずらりと並んでいる↓



現在この教会がある場所に牢があった。内部に入ると、その十二畳の広さだけ赤い色の絨毯になっている↓



現場で残虐行為を実行する者たちも、人として辛くなかったはずはない。彼らも命令を遂行するしかなかった弱い者だったのだろう。蛮行というのは、多くの場合弱者がさらに弱い者を痛めつける構図になっている。

最終的にキリスト教徒がすべて解放されたのは、「外圧」による。不平等条約の改正を目指して欧米を訪れていた使節団が、この蛮行を指摘され、最初は「あれはキリスト教徒ではない」と言っていたものの、とうとう無視できずに禁教を終わらせたのである。

****
小松がリクエストしていた通称「首長地蔵」を少し訪問。集落の人々は「高麗地蔵」と呼んでいる。知っていなければ通り過ぎてしまう集落の一軒↓

ちいさなドアの奥にこんなふうに安置されていた↓


この地蔵には★「高麗島の伝説」がある。
高麗島は福江島・三井楽の北十里、小値賀島の西に存在したとされる幻の島。この地蔵はもともとそこにあった。
島民の夢枕に立ち「私の顔が赤くなったら大禍が起きるので逃げよ」と告げた。
不信心者が嘲笑い、戯れに地蔵の顔を赤く塗ったところ、信心深い人々はあわてて船で島を離れた。
悪戯した不信心者は逃げた者たちを嘲笑ったが、島は一夜にして沈海にんでしまった。
高麗曽根という浅瀬も存在し、そこから古い陶磁器がひきあげられることがある。

*****
折り紙展望台まで上がり、

細い道をいくと車はここで終わり。

五百メートルほど歩いて海まで降りる↓


五輪地区へ到着↓

前出の「旧五輪教会」=「旧浜脇教会」に到着↓

外観は日本民家だが、内部にはゴシックの天井↓


ここから再びチャーターした船に乗って、若松島を目ざします


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