旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

松江城はどのぐらい古いの?

2019-10-14 11:20:12 | 国内
国宝・松江城は江戸初期からの形を留めているとされる。鴟尾は高さ二メートル以上。

日本一の大きさ。

↑この鴟尾は真新しくてとても江戸時代のものには見えない。
木で作った上に銅を張ってあるのだそうだ↓
「ほんとに江戸初期からのものなのですか?」と訊ねると
「修理の時にはずしたホンモノが城の中にありますよ」と言われた↓
↓入ってすぐのフロアにどかんと置かれていた↓

近くで見ると迫力がある↓断面をみると、なるほど内部は木製↓

これは昭和25年(1950)の大修理でとりはずされたもの。
これがしかし、江戸初期からのものとも断定できないそうな。
城は明21年(1888)に最初の天守閣修理、明治25年(1892)の台風被害の後市民の寄付で明治27年(1894)に大修理をうけている。
この時にいったいどこまでの修理が行われていたのかはよくわかっていない。

修復される度に使えなくなった古材を外して新しい木材と継ぎ足してきた↓
↓柱のひとつひとつがそうして生き残ってきたもの↓


鴟尾=しゃちほこが取り替えられた昭和の大修理においては、もとの木材のうち35パーセントしか再利用されなかった。
国宝指定の決め手となった棟札がうちつけられていた柱がそのままであったのは実に幸いなのである↓


最初の建造の時においてさえ、木材は中古が使われている↓これが、それ

1607年に堀尾氏が松江城の建設をはじめた時、堀尾氏のそれまでの居城だった月山富田城を解体してその木材を利用したとされる↓昭和の大修理の際に柱を解体してみると、継ぎ目にそれを現す刻印が現れた↓

↓拡大すると、堀尾氏の分銅のマークと「富」の文字が見えるだろう↓

↓足立美術館に行く途中の道で、その月山富田城があった場所が見えてきた↓



「江戸時代のまま」と言っても、実はそれぞれの時代の努力が積み重なって今日に至っているのだとよくわかる。


天守閣へ登る階段には手すりがあるが、江戸時代にそんな親切なものはなかった

↓嫁が島が見える


石積みに関してさえも、江戸時代そのものではない。


石を割った生々しい楔のあと↓

石はいったいいつごろ切り出されたのかしらん。。。と思っていたら
「昭和の石工さんがサインしているところがあるんですよ」とおしえてくださった
↓え?これのどこどこどこ?

↓あ!「石工ワタナベ」と刻んであるのがはっきり確認できる↓

氏族以外が姓をもつようになったのは明治以降。
昭和の大修理の時には城を全部解体してすべての木材の可否をチェックしたときいたが
実は石垣についても大改修をしていたのだと、ひと目で理解させてくれる証拠だ(^.^)

この入り口の鉄張りはきっと昭和の石よりも古い


江戸時代初期1607年築城とされていても、その時の形はずいぶんちがっていいたと推察される絵がみつかっている。さらに明治、昭和の修復でオリジナルの材料は三分の一程度になっている。内部の木材は1607年以前にあった城を解体して持ってきたものもある。

松江城はどのぐらい古いのか?
コメント
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