※2016年に大潟村を訪れたブログはこちらから
グラン・プレはフランス語で「広大な沃野」の意味↓
この土地は1680年ごろから入植したフランス人先住民三百人ほどが干拓したことでこの名前になった。
日本を出る前にそういう資料は読んでいたが、文字だけではなんのことなのか分からない。
↓現地でこの地図をじっと見ていて、はっと分かった↓
ファンディ湾に面する上部に三日月形をした「ロングアイランド」がもともと存在し、
下の半島本土との間に浅い海が広がっていたのだ。
そこに海水が入ってこないように左右に堤防をつくり、干拓農地にしていったのである。
↑※堤防は黄色い線で描かれている
日本の八郎潟をドライブしている時と同じ景色感がある。酪農の風景も変わらない。
ドライバーのピエールさんに「ダイク(堤防)へつれていってくれ」とリクエストした。
素朴な土盛の堤防がうねうねと続き、海と耕地を隔てていた↓
17世紀末フランス人入植者たちの執念が感じられる場所だ。
いったい、だれが最初にこんなアイデアを言い出したのだろう。
最初は荒唐無稽と相手にされなかったにちがいない。
それでも、親子三代ががんばって五十年後に「広大な沃野」を出現させたフランス人たちはしかし、1755年にイギリスによって追放されてしまったのである。さぞかし無念だっただろう。
こういった堤防は不断の手入れが欠かせない。現代オランダのダイク(堤防)でも常に排水ポンプを稼働させている。
ここグラン・プレで現代までこの堤防が維持できているのは支配者が変わっても干拓地はずっと使われてきたという証拠。
↑ここは現代の堤防工事にちがいない。この近辺では手に入らない大きな石がたくさん積まれている。
前出の地図で、グラン・プレとフォンディ湾を分けるロングアイランドの先端部にやってきた↓
↑干満差が最大十六メートルとされ、二百キロ以上にわたり潮が満ち引きする浅い湾。
17世紀に入植したフランス人たちは、満潮時にも海水が入ってこないように堤防を築き耕地にかえていった。
自然のロングアイランドと堤防で仕切られた内側に広がる耕地には古い木造の教会がぽつんと見えた↓
**
この場所を耕していたフラン人たちが追放される前に住んでいた村跡がある↓
↑十七世紀フランスから「理想郷(ギリシャ語で「アルカディア」)を目指してやってきた人々をアカディアンと呼ぶ。
↑追放された子孫たちが協力して1922年に建設された教会
前に立つ銅像は「エヴァンジェリン」。
1847年にアメリカ人の詩人ロングフェローが書いた、追放されたフランス人たちの悲劇を象徴する物語の主人公。
1755年8月、エヴァンジェリンの結婚式当日に追放令が発布され、式場に踏みこんできたイギリス兵によって二人はばらばらに追放されてしまうのである。
↓この井戸は二十世紀になって発掘され十八世紀当時のモノがたくさんみつかったそうだ
アメリカから来たという双子の若い男性が日本語で声をかけてきた↓
↓子供のころ日本に住んでいてアニメが大好き↓エヴァンジェリンの井戸を見て「犬夜叉」を思い出したそうだ(笑)
彼らはフランスとこのあたりの先住民ミックマック族の血をひいているので、父祖の地を訪れたかったのだという↓
アカディアンの子孫たちは、今も二万人以上がアメリカやカナダの東部に暮らしている。
ニューオリンズのケイジャン料理は、「アカディアン」が伝えたのでこの名前になったのだ。
***
現代のグラン・プレ周辺を見学するには廃線になった線路を自転車で走るのが最適だそうだ↓
ルートにはこんなしっかりした設備が備わっております↓
さて、今晩泊まる隣町のウルフヴィルへ
グラン・プレはフランス語で「広大な沃野」の意味↓
この土地は1680年ごろから入植したフランス人先住民三百人ほどが干拓したことでこの名前になった。
日本を出る前にそういう資料は読んでいたが、文字だけではなんのことなのか分からない。
↓現地でこの地図をじっと見ていて、はっと分かった↓
ファンディ湾に面する上部に三日月形をした「ロングアイランド」がもともと存在し、
下の半島本土との間に浅い海が広がっていたのだ。
そこに海水が入ってこないように左右に堤防をつくり、干拓農地にしていったのである。
↑※堤防は黄色い線で描かれている
日本の八郎潟をドライブしている時と同じ景色感がある。酪農の風景も変わらない。
ドライバーのピエールさんに「ダイク(堤防)へつれていってくれ」とリクエストした。
素朴な土盛の堤防がうねうねと続き、海と耕地を隔てていた↓
17世紀末フランス人入植者たちの執念が感じられる場所だ。
いったい、だれが最初にこんなアイデアを言い出したのだろう。
最初は荒唐無稽と相手にされなかったにちがいない。
それでも、親子三代ががんばって五十年後に「広大な沃野」を出現させたフランス人たちはしかし、1755年にイギリスによって追放されてしまったのである。さぞかし無念だっただろう。
こういった堤防は不断の手入れが欠かせない。現代オランダのダイク(堤防)でも常に排水ポンプを稼働させている。
ここグラン・プレで現代までこの堤防が維持できているのは支配者が変わっても干拓地はずっと使われてきたという証拠。
↑ここは現代の堤防工事にちがいない。この近辺では手に入らない大きな石がたくさん積まれている。
前出の地図で、グラン・プレとフォンディ湾を分けるロングアイランドの先端部にやってきた↓
↑干満差が最大十六メートルとされ、二百キロ以上にわたり潮が満ち引きする浅い湾。
17世紀に入植したフランス人たちは、満潮時にも海水が入ってこないように堤防を築き耕地にかえていった。
自然のロングアイランドと堤防で仕切られた内側に広がる耕地には古い木造の教会がぽつんと見えた↓
**
この場所を耕していたフラン人たちが追放される前に住んでいた村跡がある↓
↑十七世紀フランスから「理想郷(ギリシャ語で「アルカディア」)を目指してやってきた人々をアカディアンと呼ぶ。
↑追放された子孫たちが協力して1922年に建設された教会
前に立つ銅像は「エヴァンジェリン」。
1847年にアメリカ人の詩人ロングフェローが書いた、追放されたフランス人たちの悲劇を象徴する物語の主人公。
1755年8月、エヴァンジェリンの結婚式当日に追放令が発布され、式場に踏みこんできたイギリス兵によって二人はばらばらに追放されてしまうのである。
↓この井戸は二十世紀になって発掘され十八世紀当時のモノがたくさんみつかったそうだ
アメリカから来たという双子の若い男性が日本語で声をかけてきた↓
↓子供のころ日本に住んでいてアニメが大好き↓エヴァンジェリンの井戸を見て「犬夜叉」を思い出したそうだ(笑)
彼らはフランスとこのあたりの先住民ミックマック族の血をひいているので、父祖の地を訪れたかったのだという↓
アカディアンの子孫たちは、今も二万人以上がアメリカやカナダの東部に暮らしている。
ニューオリンズのケイジャン料理は、「アカディアン」が伝えたのでこの名前になったのだ。
***
現代のグラン・プレ周辺を見学するには廃線になった線路を自転車で走るのが最適だそうだ↓
ルートにはこんなしっかりした設備が備わっております↓
さて、今晩泊まる隣町のウルフヴィルへ