旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

グラン・プレは十七世紀カナダの八郎潟か

2019-10-21 16:45:00 | カナダ
※2016年に大潟村を訪れたブログはこちらから

グラン・プレはフランス語で「広大な沃野」の意味↓

この土地は1680年ごろから入植したフランス人先住民三百人ほどが干拓したことでこの名前になった。
日本を出る前にそういう資料は読んでいたが、文字だけではなんのことなのか分からない。

↓現地でこの地図をじっと見ていて、はっと分かった↓

ファンディ湾に面する上部に三日月形をした「ロングアイランド」がもともと存在し、
下の半島本土との間に浅い海が広がっていたのだ。
そこに海水が入ってこないように左右に堤防をつくり、干拓農地にしていったのである。
↑※堤防は黄色い線で描かれている

日本の八郎潟をドライブしている時と同じ景色感がある。酪農の風景も変わらない。

ドライバーのピエールさんに「ダイク(堤防)へつれていってくれ」とリクエストした。
素朴な土盛の堤防がうねうねと続き、海と耕地を隔てていた↓

17世紀末フランス人入植者たちの執念が感じられる場所だ。
いったい、だれが最初にこんなアイデアを言い出したのだろう。
最初は荒唐無稽と相手にされなかったにちがいない。
それでも、親子三代ががんばって五十年後に「広大な沃野」を出現させたフランス人たちはしかし、1755年にイギリスによって追放されてしまったのである。さぞかし無念だっただろう。

こういった堤防は不断の手入れが欠かせない。現代オランダのダイク(堤防)でも常に排水ポンプを稼働させている。
ここグラン・プレで現代までこの堤防が維持できているのは支配者が変わっても干拓地はずっと使われてきたという証拠。

↑ここは現代の堤防工事にちがいない。この近辺では手に入らない大きな石がたくさん積まれている。

前出の地図で、グラン・プレとフォンディ湾を分けるロングアイランドの先端部にやってきた↓

↑干満差が最大十六メートルとされ、二百キロ以上にわたり潮が満ち引きする浅い湾。
17世紀に入植したフランス人たちは、満潮時にも海水が入ってこないように堤防を築き耕地にかえていった。





自然のロングアイランドと堤防で仕切られた内側に広がる耕地には古い木造の教会がぽつんと見えた↓


**
この場所を耕していたフラン人たちが追放される前に住んでいた村跡がある↓

↑十七世紀フランスから「理想郷(ギリシャ語で「アルカディア」)を目指してやってきた人々をアカディアンと呼ぶ。
↑追放された子孫たちが協力して1922年に建設された教会

前に立つ銅像は「エヴァンジェリン」。
1847年にアメリカ人の詩人ロングフェローが書いた、追放されたフランス人たちの悲劇を象徴する物語の主人公。
1755年8月、エヴァンジェリンの結婚式当日に追放令が発布され、式場に踏みこんできたイギリス兵によって二人はばらばらに追放されてしまうのである。

↓この井戸は二十世紀になって発掘され十八世紀当時のモノがたくさんみつかったそうだ

アメリカから来たという双子の若い男性が日本語で声をかけてきた↓
↓子供のころ日本に住んでいてアニメが大好き↓エヴァンジェリンの井戸を見て「犬夜叉」を思い出したそうだ(笑)
彼らはフランスとこのあたりの先住民ミックマック族の血をひいているので、父祖の地を訪れたかったのだという↓

アカディアンの子孫たちは、今も二万人以上がアメリカやカナダの東部に暮らしている。
ニューオリンズのケイジャン料理は、「アカディアン」が伝えたのでこの名前になったのだ。

***
現代のグラン・プレ周辺を見学するには廃線になった線路を自転車で走るのが最適だそうだ↓

ルートにはこんなしっかりした設備が備わっております↓




さて、今晩泊まる隣町のウルフヴィルへ
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ルーネンバーグから「ロス農場博物館」を経由してグラン‐プレへ

2019-10-21 14:00:00 | カナダ
ルーネンバーグの気持ち良い朝散歩を終えて十時半に出発

ノヴァ・スコシアの大西洋側から内陸を抜けて内湾に面したグラン‐プレへ向かう。
青空で気持ち良い山の中の道をゆくと、「ロス農場博物館」の看板が見えたので行ってみることにした。

ぱっと見は普通の農家の直販所だけにみえるが
ここは1816年にウィリアム・ロスが172人の退役軍人と拓いた村。小さな湖をはさんであるニュー・ロスと、二つの集落が今もある。

ウィリアム・ロスは1783年にアイルランド島南西部コークで生まれた軍人。

ヨーロッパのナポレオン戦争の飛び火した1812年からはじまるアメリカ合衆国(フランスに味方していた)との戦争に、イギリス軍の中尉として従軍していた。
妻のメアリーは夫の任地・時に戦地にさえもずっと同行して五人の子供たちを産んだ。
※ウィキだと四人になっているが、いくつかの資料を読んでいくと五人いたようだ
長女は1806年故郷アイルランドのコーク、長男ウィリアム・ヘンリーは1810年にカリブ海のアムステルダム要塞で。
アルメニアやイングランドやここロス農場でも。
いろいろ事情があってもとにかくいっしょに居て苦楽を共にしようという意志が感じられるではないか。

彼らが実際に暮らした築二百年の家が今も残されている↓

当時の入植農家としては格別に立派な家だったのだろう↓ピアノは四人の兵士が二十キロの道のりを担いで持ってきたのだそうだ。

二階建てではあるがここに十三人も住んでいたのだそうだ。
二階の寝室群にあがる急な階段↓扉がついている

賑やかだっただろうなぁ

↓シルクハットの入れ物があるのは、それなりの地位の人だったからだろう

三階・屋根裏に続く階段は天井を押し上げて入るタイプ↓

解説してくれた彼女が焼いたクッキーをいただきます


この農場は今も生きている


↓農機具を当時のスタイルで制作している人も


鍛冶屋さんでは

実際に炉に火をいれて

牛用の蹄鉄をつくっていた


「タクシーがまってるよ」と声をかけられて外に出ると…↓

下の湖までつれていってくれるそうだ

この湖の名前はウィリアム・ロスがハリファックスで世話になっていたジョン・ローソンにちなんでいる

※馬車の動画をこちらに載せました

畑にはビーツが植えられている

ここでつくったチーズ…いや石鹸だった


***
今日のお昼は村のスーパーで買ったサンドイッチにしておこう


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ルーネンバーグの海洋博物館

2019-10-21 12:00:00 | カナダ
カナダの10セント硬貨に描かれているヨット「ブルーノーズ」号は↓


↓1929年にノヴァ・スコシアのここルーネンバーグで進水した漁船兼レース船。
国際レースで宿敵アメリカを何度も破ってカナダ人の誇りであった↓
↓だから、ノヴァ・スコシア州のナンバープレートにもなっている↓

1946年にハイチで難破したが、1963年に「ブルーノーズⅡ」号が建設された↓
↓海洋博物館に係留されている

目のあたりにすると船体にくらべてマストがとても高いと感じる。
ここいっぱいに帆を張って疾走した姿が博物館にはいったところに再現されていた↓

この歴史的な船が、別の港から引く手あまただったにもかかわらずこのルーネンバーグにあるのは幸い。
再建造のパトロンが「この船はここルーネンバーグにあるべきだ」と、一ドルで州政府に販売したことによる。
**
海洋博物館が開いていてよかった↓
↓元は海産物を輸出できる形に加工するための建物だった↓

入るとするぐに水族館になっていて、ロブスターなどもおります↓

先住民と取引する欧米人たちの図↓

↓たばこの習慣はアメリカ先住民からヨーロッパ人に伝わったわけで、先住民の使った精巧なパイプが展示されていた↓

↓先住民ミックマック族の旗が飾られていた↓

係員さんに訊ねたが…「この旗は昨年から展示されているのよね~」ぐらいで詳しいいきさつはあまり知らなかった」

おもしろかったのは塩↓
↓冷蔵システムのなかった時代、海産物を輸出するために最重要なのはそれらを保存する方法。
塩漬けがそれに適していたわけだが、いったい大量の塩はどこから調達されたのか?

↓それを訊ねた係員はにっこりしてちゃんと説明してくれた↓
「フランス人たちが作っていた方法で、カリブ海の島でつくっていたのよ」

新大陸に輸出したあとに、大量の塩をこのルーネンバーグまで持ち帰っていたのである。
後年にはノヴァ・スコシアでも塩が採掘されるようになったそうだが。

**第二次大戦中の展示ではノルウェーの義勇兵の話が目をひいた↓

1753年にプロテスタントのヨーロッパ人を誘致移民させてはじまったこの町には北ドイツ人とノルウェー人がたくさんいた。
ヒトラーがノルウェーを電撃占領すると、祖国解放のためにここから出征したノルウェー人移民何世かがいたのだ。
朝の散歩で彼らの慰霊塔もあった↓

同じ町に住んだドイツ系とノルウェー系の住民たちの間では微妙な空気もながれていたにちがいない。

***再び外の展示
大きな鯨のアゴ部分

↓あれ?ロブスターの罠にしては大きい↓

↓人間の子供用でした(^.^)






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坂道のルーネンバーグを歩くとたくさんの教会に出会う

2019-10-21 10:00:00 | カナダ
↓入り江から続くまっすぐな坂道につくられたルーネンバーグの街

↓静かな朝の入り江にヨットがうかんでいる

まっすぐに通された道は1753年に建設された当時とかわらない

「きれいな街だなぁ」

歩いているうちにゆっくりと感じてくる

もしろんこの季節だということもある

観光バスがやってくる時期でなく、人の少ない朝であることもある

「有名」や「定番」といった予定調和でないほうが

記憶に残る旅になる

宗派の異なる教会がたくさんある。

↑これは教会の建物だったが1775年から1902年まで裁判所として使われたと解説されていた
↓すぐ前に立派な英国国教会↓

↑やはり支配者の宗派ということなのかしらん



↓このカトリック教会は作られてから百八十年が経つそうだ

↓見ていたら中に招き入れてくださった。
正面祭壇から左に向かってL字型に信者席が配置されていて不思議だとおもったら、そこは1980年代に拡張された部分だった。

↓175周年記念のステンドグラスに、拡張前のこの教会の姿が描かれていた。なるほど。↓

↑二つ前の写真と見比べてみてください

教会堂横には18世紀からの古い墓碑

先住移民だったフランス人はカトリック教徒が多かったから、このルーネンバーグには北ドイツとノルウェーのプロテスタントを移民誘致したとされている。
流血の確執は長く続いたし、今でもなくはないのではないかと思う。

「1930年から三十年間は閉鎖されていたのよ」と話してくれた。
そりゃあこの小さな街だけでこれだけの数の教会をささえていくのはたいへんです。

丘を降りて、古いフランス人墓地へいってみよう
さっきのカトリック教会を掃除していたお二人に古いフランス人墓地のことを訊ねると、お一人は「そんなのがあるの?」とけげんな顔。もうお一人が「ああ、あるね」との反応。
住んでいる人がみんなその町のコトを知っているというわけではない。

坂道の住宅街のはずれの先住フランス人たちの古い墓地↓

ルーネンバーグの街はガイドブックやネットには1753年に建設されたと書かれている。
しかし、それ以前にMerligueheと先住部族が呼んでいた町にフランス人が住んでいた。
★以下はこの墓地に掲げられていた解説文より
Merligueheは「白い頭(波頭を意味したそうだ)」
※どのように発音すべきかわからない。フランス風になら「ムルリゲ」だろうか
1632年にはすでにフランス人のコミニュニティが存在し、先住民たちから毛皮を仕入れてヨーロッパに売る商売をはじめていたとされている。






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