旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

台湾、地元で人気の飯屋

2020-02-17 20:33:42 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 四日目
住宅街の一角のこんなお店↓

「ここの牛肉麺が人気なんですよ」
台北のガイドさんが昔からきていたお店だそうな。

ツーリスト向けにというそぶりはまったくなく
↓これでも「小さい方」の牛肉麺

写真映えするかは知らないが、この肉の柔らかさとボリュームはうれしい
↓付け合せというか、サイドメニューに

豆腐の種類が豊富。昆布巻は日本のものと似ている。
↓こちら内臓系は日本ではあまりないかも

旅人はよく「地元の料理が食べたい」というけれど、
外国からのビジターにも必ずウケる「地元の料理」というのは簡単ではないように思う。

昨夜、同じくガイドさんに連れて行ってもらった店は
「なんといっても魯肉飯(ルーローハン)」↓が売り

なるほど!
台湾の旅ではルーローハンを見かける度に試してきたけれど、ここのがこれまでのBESTだった(^.^)
タケノコやイカも

茄子も青野菜もよいのですが

次はぜったい大きな碗で食べたいここの魯肉飯(ルーローハン)!
オーダーは↓こんなシートに記入して

写真がないから分からない?
そういうツーリストフレンドリーにしなくても地元のご贔屓さんだけで充分にやっていけるのでしょうね(^.^)
ビールを注文しても、しても、しても、結局忘れてしまわれたけど
「もしかしたら、飲んだら長くなるから『忘れた』のかもしれませんね」とガイドさん(笑)
この魯肉飯(ルーローハン)があれば許されます(^.^)
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義愛公~台湾の村に祀られる日本人巡査

2020-02-17 16:20:06 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 三日目
けっして上出来な細工ではないが、何かが宿っていると感じさせる↓

森川巡査は1897年、三十七歳で台湾に赴任した。日清戦争の結果、台湾が日本領になってまだ三年。日本に対する反感は強く、前年には日本から赴任した教師六人が殺される事件まで起こっていた時期。地方の巡査は治安維持だけでなく徴税の責任も課され、住民の生活にも深くかかわる存在だった。
★彼の生涯を画いた素朴なタイル画がつい五年ほど前にできていた↓
赴任の三年後に日本から妻子を呼び寄せ↓

子供の為に教師を雇って学校を開校。
村の子供たちも学べるようにした↓

漁民が怪我をして岩場にとりのこされていると、自ら助けに行き自分自身がもっとおおきな怪我をしていたこともあったそうな↓

1902年、政府が漁民のささやかな漁具にも課税すると通告。貧しい漁村の生死を左右する事態。森川巡査は上級役所に談判に行く。が、逆に懲戒を言い渡され、村民との板挟みになった彼は、村に戻って拳銃自殺してしまった↓下右

二十年が過ぎ、周囲の村に疫病が流行りだすと、村長の夢枕に森川巡査が立った。
「ドブを掃除し、衛生管理をしっかりすれば助かる」という助言にしたがうと、疫病は東石村には流行らなかった。
村民は森川巡査の木彫をつくり、神様の一人としてここに祀るようになった。

当初の素朴な祠はなんども立て替えられ、2015年ごろには現在の立派な寺が完成した↓

小さな漁村には不釣り合いなほど

↓我々が日本人だとわかると、管理の人が奥から木造を抱え出してきて、着ていたマントをとって開帳してくださった↓

森川巡査の住んだ家はこの寺のすぐ横にあったのだと教えてくれた。
**
嘉儀駅発15時半の新幹線に乗るために東石村を出る。

新幹線の開通以来、いちめんのサトウキビ畑だったこの地域にも新しい施設建設がはじまった。
↓その代表が2015年に開館した故宮博物院の南館↓特徴的な建物が見えた↓

そのすぐ近くにエヴァーホテル↓

故宮の名品を持ってきているというだけでなく、アジアアートの発信基地にもしようというのだそうな。
※こちらに故宮博物院南院の日本語紹介ページがあります


今回ガイドをお願いした施さんが連れて行ってくれたのは、日本時代にサトウキビのプランテーションを運営していた村↓
サトウキビ列車は観光列車として復活し、台湾の人々がやってくるのだそうだ↓

村には日本時代からの家屋がたくさん残されている↓


↓壁には近年画かれた絵

中心部の公園に見える胸像後姿は…↓

「後から蒋介石に変えられたんです」
なるほど、とがったアタマのカタチが蒋介石のものだ

嘉儀の新幹線駅から
新幹線で台北へ向かいます
今回は嘉儀の街を見る時間がなかったが、必ずチャンスをつくります(^.^)

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牡蠣養殖の海岸とここでしか食べられない絶品海鮮

2020-02-17 15:22:10 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 三日目
海岸に近づくと道路脇ほとんどが牡蠣殻の山だった

堤防をのぼってゆくと

養殖いかだが海を覆っていた
いかだは竹製



すぐ近くにある料理屋は、高雄のガイドさんがわざわざ来て見つけてくれた↓

中国本土からのお客がよくやってくるとのことで、今はがらんとしているがけっこう広い。
一角にとれたて食材が並んでいる↓

↓「サバヒーはどれですか?」と言ったらかきわけてみせてくれた↓

↓この貝もあとからでてきました

↓殻が山のようになっていた牡蠣は、こんなふうに登場!

小ぶりの牡蠣だがめっぽう美味しい(^.^)
↓エビが上手に揚がっている

↓はまぐり?ですか

↓ウナギ(これは日本風)、カラスミとニンニク葱

★この鶏のスープは見た目の何十倍も美味しい。今まで食べたことのない少し薬膳的な風味のある出汁。ついついどんどんおかわりっしちゃいました↓

↓ひとり一匹 小骨もあるが良い味です

↓あ、さっきの貝

デザートに↓フルーツはグアヴァとレンブ

これは店構えとは不釣り合いな(失礼)A級料理だと思う。台湾というとB級グルメや屋台食べ歩きにスポットがあたることが多いが、こういう料理こそこの地へこないと食べられない。

レストランを出発すると、そこここで牡蠣の山に座り込む女性たちをみかけた↓

なんと、こうやって牡蠣の身をとりだしていた。
稚貝は最初↓この箱にいれて

ある程度大きくなると、こんな風に殻に紐をとおしていかだから吊るして育てていたのか↓

自分の目で見てはじめて理解できました(^.^)
**
沖縄でよくみる甕棺墓のような墓が養殖池?の近くに見えた↓

これ、海にちかすぎません?

きけば、なんと、古い墓は地盤沈下で多くの墓が海に水没してしまっているのだそうだ。

午後三時半嘉儀発の新幹線で台北に向かいます。
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養殖池を抜けると塩田にたどりついた

2020-02-17 11:37:31 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 三日目
台湾南西海岸では清朝の時代から製塩がおこなわれていたが、今では実質ここだけなのだそうだ。

手のかかるこういった塩田は値段が高くなりすぎ、台湾市場に出回っているのはオーストラリアからの輸入だと塩田の人が言っていた。

台南から車で北上すること四十分ほど、嘉儀に入る手前。
このエリアを走ると左右ずうっと養殖場が続く。
↓選挙用のポスターもこんな

「漁民の収入を増大させますよ~、地元に利益をもってきますよ~」という姿勢が伝わってくる。
日本の昔からの「どぶ板選挙」スタイルがここでもそのままなのでしょうね。

「ここで養殖されているのはサバヒーという魚。英語ではMilk fishと言います。」
サバヒーという名前のおもしろい由来がウィキに載っていたのでそのまま引用させていただきます↓
※ウィキペディアより引用
鄭成功が食べて「(これは)なんという魚か(啥咪魚:sia-mi hi:シャミヒ)?」と泉州方言の中国語で質問したのを地元の人が「サバヒー?」と聞き間違えたことが名前の由来となった

暖かい海を好む魚で日本ではあまり出回っていないそうな。

さて、塩田

近づいて見ると、比較的大きな塩の結晶になっているのがわかる

海水をこの結晶にするまで二週間から三週間、四つの違ったタイプの塩田を使って行われている↓

↓展望台から見ると、左の写真映えするエリアではなく右の広い方が最初に海水を蒸発させる場所だとわかる↓

↓写真で奥の方に見える取水口から海水を取り込む。この時は3%ほどの塩分を「大蒸発池」に六日から八日入れておくことで12%まで濃くする。それを「小蒸発池」に移し五日から七日で濃度25%まで濃縮。ここまでのプロセスで海水に交じっているゴミや鉄分も除くことができる。

さらに小さな区画に区切った「結晶池」で製品化してゆく。
★本物のトーファ(豆腐花)を食べる
塩の結晶が出来る過程でのこされる水が「にがり」
台南名物のトーファはこれがあるから名物になったのかもしれない。
塩田付属のお店で豆乳に入れてつくってくれた↓

↑「にがり」豆乳に対して1パーセントでよいのだそうだ
↓この炊飯器みたいなので15分から20分で完成

↓これ、いままで食べたトーファでいちばんおいしかった↓市販の多くのトーファは凝固させるために石膏をつかっているそうだから、味がちがうのは当然だろう↓

ひとり一椀、ぺろりといただきました(^.^)

さらに養殖池が続く中を北上します

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台南~安平古堡秘話

2020-02-17 11:31:15 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 三日目
オランダの商館長ヌイツを捕え人質にして長崎に連れてゆくとは、濱田彌兵衞というのはかなり胆のすわった人物だったのだろう。
今は「安平古堡」と刻まれた石碑になっているが↓かつては濱田彌兵衛への顕彰碑だった↓※日本統治時代の大正13年に設置

大正時代に贈られた官位と共に刻まれている「贈従五位濱田彌兵衛武勇之趾」

館内の解説板では、濱田の行動について一行だけ言及してあった↓

オランダは1624年に膨湖島そして台南(当時は「大員」と表記されていた台南と周辺地域)を占領し、西欧流に10%の交易税を徴収しはじめた。オランダのやってくる以前から交易所を開いていた日本の商人たちはそれを拒否。濱田はせっかく持っていった高価な品を税としてとりあげられ、命がけの反撃にでた。
↓ヌイツが捕えられるところを描いた江戸時代の絵※ウィキの写真より

この事件は完全解決まで四年かかり、ヌイツは1636年まで長崎に留め置かれた。
解放されたきっかけは、後任の商館長フランソワ・カロンが江戸にきて将軍家光に拝謁した際に解放を願い出て許可されたとされている。
その際にオランダから贈られた葵の紋入り回転燈籠が日光東照宮にある↓
↓2010年に訪れた時に自分で撮影した写真を見つけた↓こんな話は全く知らずに撮っておりました。

↓燈籠の葵の紋が上下逆さになっているだがこれは意図的ないじわるかしらん?

説明板には1643年に贈られたとあるが、それでは年号が合わない…

カロンは七回も江戸に行っているし、贈られた年と奉納された年が同じともかぎらない。
…と考えていると、台湾のガイドさんから別の燈籠の写真が送られてきた
↓2015年に台湾からのグループを連れて訪問した時に撮影したそうだ

↓これは1636年と解説されている↓こちらの方がフランソワ・カロンが贈った灯籠だと推察される

日光東照宮には他にもオランダがもたらしたと思える燭台がある↓

↑こちらも2010年に小松が撮影したもの

**
オランダのゼーランディア要塞は1662年に鄭成功によって陥落し、鄭成功の故郷の街にちなんで「安平」と名付けられた。
オランダから鄭成功時代のレンガの壁が残されている↓オランダ時代三十八年、鄭成功時代も二十三年でしかなかった。

そこにはヨーロッパの家屋によく見られるウォールアンカーの跡が見られる↓

↓実際にここにはまっていたのだろう実物も展示されている

鄭政権を攻め滅ぼした清は引き続き水軍の基地として使用した。
その時代のものがこれ↓


★安平古堡の部屋の奥に壁いっぱいに飾られた巨大な絵が展示されていて、オランダ支配時代のもう一つの秘話を知った↓

↑1661年、4月4日、もうひとつのオランダ人の砦だったプロビンキア(現「赤崁楼」)が陥落。
※鄭成功は二万五千の兵で3月23日から二つの砦を包囲していた
囚えたキリスト教牧師のアントニウス・ハムロックをゼーランディア城に籠城するオランダ人に降伏を呼びかける使者にたてることにした。
ハムロックの三人の息子と妻は鄭成功に人質として捕えられていたが、
二人の娘はゼーランディア城の方にたてこもっていたからである。
注:プロテスタントの牧師は結婚できる
↑画かれたシーンはこう解説されている
「ゼーランディア城に入ったハムロックは降伏をよびかける代わりに徹底抗戦して援軍を待つことを勧めた。それは鄭成功のもとにもどれば確実に殺されることを意味している。ゼーランディア城にいる二人の娘は父にどうかもどらないように懇願した」
なるほど。と、いったんは納得して絵を見ていたが、帰国してから調べているとアムステルダム国立美術館が元絵と思われるものを所蔵しているのが分かった↓

二枚を見比べると、下の方が歴史的な事実をしっかりふまえているように見える。
だとすると、安平古堡にあったものは誰かが画きなおしたコピーだということになるが、人物を変えてしまっている。
不思議である。

さらに調べていくと、オランダ東インド会社の記録ではゼーランディア城の徹底抗戦を主張したのは最後の総督となるフレデリック・コイェットで、ハムロックはそのために刑死したことになっていた。
1776年の版画がウィキの頁にあった↓

↑黒い服を着ているのが牧師のハムロック
↑娘が跪いてお願いしているのがコイェット総督
同じ処刑される結果になるのならば、ハムロック牧師が徹底抗戦を呼びかけたことにした方が「オランダ人の勇気」を喧伝できる。
歴史は人々が「こうあったらより感動できるよね」という方向に悪意なく改竄されていくものなのだろう。

それは、この絵が1810年に(ヤン・ウィリアム・ピエネマンというオランダ人画家によって)画かれたと知ると、より納得できる。
1810年は、オランダという国がナポレオンによって消滅させられており、世界中でオランダ国旗がひるがえっていたのは出島だけだった時代にあたる。
「オランダ人の勇気」を画いて同胞を勇気づけたかったにちがいない。

次にアムステルダム国立美術館に行ったら、この絵のことを訊ねてみるとしよう


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