カリフォルニアが(実質的に)アメリカ領になった1845年からサン・ファン・カピストラーノに住んでいた家族の写真↓
※現地の展示より↓
↑いちばん右のピオ・ピコの顔がどこか白人ではないのは、母がソノラ(メキシコ)の原住民女性だったから。
↑彼ははメキシコ時代最後の総督である。
父はスペインからやってきた軍人ホセ・ピコ。
ピオは混血のクリオーリョ(英語ならクレオール)である。
※さらに、父方の祖母はMULATA=アフリカ系黒人とスペイン人の混血と記録されていた
↑彼はスペイン人として生まれ、
↑1821にメキシコ人となり
↑1848年にアメリカ人になった。
1821年にメキシコ革命が成功するとスペイン生まれの者は追放されている。
新スペイン(後のメキシコ)で生まれ、現地の言葉も(ある程度にせよ)理解できただろうピオのような男がもっとも活躍できた時代である。
↑真ん中の女性はピオの妹・イシドラ。
↑彼女は30歳の1838年に兄の紹介で六歳年下のイギリス人と結婚していた。
↑写真左のジョン・フォスター氏
メキシコがアメリカとの戦争に敗れ、
サン・ファン・カピストラーノがアメリカ領となると決まった時、
妹の旦那ならイギリス系だから維持しやすいと思ったのだろう。
破格の「身内価格」(「$55000の価値があったすべてを$710で」と解説してあった)で譲ったのだった。
↑彼らは子供たちと二十年以上ここに住んだ。
かつて修道士たちが住んだ部屋を改装した「リビングルーム」の想像図↑
**
彼らが住んだ当時も↓1812年の地震で崩落した大聖堂はそのままだった↓
フォスター家の子供たちはきっと、この廃墟で遊んだのじゃないかしらん。
1806年の完成時の模型↓
完成からわずか六年で崩壊してしまったのだったが。
それは、フォスター家が住むようになる三十年以上前のこと。
当時はスペイン人の修道士たちが先住民たちをキリスト教化して
千五百人を超える住民がいたとされている。
当時のスペインの修道士たちの生活を垣間見ることができる。
※2023年㋅に訪れた時のブログにリンクします
大きな教会も必要だった。
1821年にメキシコ革命が成功する。
メキシコ生まれの人々がスペイン人たちと血みどろの戦いをしていたことを、
2018年にメキシコのグアナファトを訪れた時によく理解できたっけ。
※グアナファト訪問のブログにリンクします
スペインが建設したミッション教会は、メキシコ政府によって「世俗化」=解体されてしまった。
修道院がなくなっても
キリスト教徒になった原住民たちの心は簡単に変えられない。
↑セラ礼拝堂だけはぼろぼろになっても祈りの場として生き続けていたのではないだろうか。
1821‐1845年のメキシコ政府の不器用な統治のあとアメリカ合衆国の領土になると
冒頭のフォスター家が住み、農場として使われていたサン・ファン・カピストラーノ。
だが、1886年以降誰も住まない廃墟になっていたと記録されている。
フォスター家の子供たちはどこへいってしまったのだろう。
ここを現在のように復興させたのは誰なのだろう?
1910年7月に、
ケンタッキー生まれの神父ジョン・オサリバンがやってきた。
結核療養のためだったが、この場所の歴史を知り「それを復興するのが自分の使命だ」と天啓をうけた彼は、
ひとり廃墟のテントに住んで、自らの手で壊れた教会を積みなおしていった。
セラ礼拝堂の↑現在のこの土壁もオサリバン神父の手で修復された↑
1933年に亡くなるまで23年ここに住み、
セラ礼拝堂を出てすぐ裏に葬られている↓
↑古い十字架はオサリバンが立てなおしたもの↑
今は墓標もなくなっているが、修道院時代に三千人が葬られていた古い墓地。
オサリバンは特例としてここに葬られた。
****
サボテン? ↑むこうに見える赤いドームは現代の大聖堂
スペイン時代にカリフォルニアではじめてワインがつくられたのがここ
近年復活させようといううごきがある。
金属は貴重だったので再利用するために鍛冶屋が必要だった。
ミッション教会跡を出て現代の大聖堂をのぞきにいく
途中でみかけた鉄柵の装飾が気になった↑
大聖堂では結婚式の準備がおこなわれていたが
幸い見学することができた。
***
二か月前にも訪れたイタリアンレストランで昼食。
店員さんも覚えていてくれた(^^)
駅近くの、西部劇時代からあるSALOONをちょっと見学
「14時からLIVEやるよ」と言われても…14:05のメトロリンクでアナハイムに戻るんです(^^;
アンティークのお店で購入した手作りの歴史冊子。
こういうところに書いてある歴史がおもしろいのです。
↑アナハイム駅の横を流れる涸れ川↑
明日はハリケーンがきてここにも濁流が流れるという予報なのだが…。
さて、今日もエンジェルス対レイズを観戦に行こう(^^)
※現地の展示より↓
↑いちばん右のピオ・ピコの顔がどこか白人ではないのは、母がソノラ(メキシコ)の原住民女性だったから。
↑彼ははメキシコ時代最後の総督である。
父はスペインからやってきた軍人ホセ・ピコ。
ピオは混血のクリオーリョ(英語ならクレオール)である。
※さらに、父方の祖母はMULATA=アフリカ系黒人とスペイン人の混血と記録されていた
↑彼はスペイン人として生まれ、
↑1821にメキシコ人となり
↑1848年にアメリカ人になった。
1821年にメキシコ革命が成功するとスペイン生まれの者は追放されている。
新スペイン(後のメキシコ)で生まれ、現地の言葉も(ある程度にせよ)理解できただろうピオのような男がもっとも活躍できた時代である。
↑真ん中の女性はピオの妹・イシドラ。
↑彼女は30歳の1838年に兄の紹介で六歳年下のイギリス人と結婚していた。
↑写真左のジョン・フォスター氏
メキシコがアメリカとの戦争に敗れ、
サン・ファン・カピストラーノがアメリカ領となると決まった時、
妹の旦那ならイギリス系だから維持しやすいと思ったのだろう。
破格の「身内価格」(「$55000の価値があったすべてを$710で」と解説してあった)で譲ったのだった。
↑彼らは子供たちと二十年以上ここに住んだ。
かつて修道士たちが住んだ部屋を改装した「リビングルーム」の想像図↑
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彼らが住んだ当時も↓1812年の地震で崩落した大聖堂はそのままだった↓
フォスター家の子供たちはきっと、この廃墟で遊んだのじゃないかしらん。
1806年の完成時の模型↓
完成からわずか六年で崩壊してしまったのだったが。
それは、フォスター家が住むようになる三十年以上前のこと。
当時はスペイン人の修道士たちが先住民たちをキリスト教化して
千五百人を超える住民がいたとされている。
当時のスペインの修道士たちの生活を垣間見ることができる。
※2023年㋅に訪れた時のブログにリンクします
大きな教会も必要だった。
1821年にメキシコ革命が成功する。
メキシコ生まれの人々がスペイン人たちと血みどろの戦いをしていたことを、
2018年にメキシコのグアナファトを訪れた時によく理解できたっけ。
※グアナファト訪問のブログにリンクします
スペインが建設したミッション教会は、メキシコ政府によって「世俗化」=解体されてしまった。
修道院がなくなっても
キリスト教徒になった原住民たちの心は簡単に変えられない。
↑セラ礼拝堂だけはぼろぼろになっても祈りの場として生き続けていたのではないだろうか。
1821‐1845年のメキシコ政府の不器用な統治のあとアメリカ合衆国の領土になると
冒頭のフォスター家が住み、農場として使われていたサン・ファン・カピストラーノ。
だが、1886年以降誰も住まない廃墟になっていたと記録されている。
フォスター家の子供たちはどこへいってしまったのだろう。
ここを現在のように復興させたのは誰なのだろう?
1910年7月に、
ケンタッキー生まれの神父ジョン・オサリバンがやってきた。
結核療養のためだったが、この場所の歴史を知り「それを復興するのが自分の使命だ」と天啓をうけた彼は、
ひとり廃墟のテントに住んで、自らの手で壊れた教会を積みなおしていった。
セラ礼拝堂の↑現在のこの土壁もオサリバン神父の手で修復された↑
1933年に亡くなるまで23年ここに住み、
セラ礼拝堂を出てすぐ裏に葬られている↓
↑古い十字架はオサリバンが立てなおしたもの↑
今は墓標もなくなっているが、修道院時代に三千人が葬られていた古い墓地。
オサリバンは特例としてここに葬られた。
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サボテン? ↑むこうに見える赤いドームは現代の大聖堂
スペイン時代にカリフォルニアではじめてワインがつくられたのがここ
近年復活させようといううごきがある。
金属は貴重だったので再利用するために鍛冶屋が必要だった。
ミッション教会跡を出て現代の大聖堂をのぞきにいく
途中でみかけた鉄柵の装飾が気になった↑
大聖堂では結婚式の準備がおこなわれていたが
幸い見学することができた。
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二か月前にも訪れたイタリアンレストランで昼食。
店員さんも覚えていてくれた(^^)
駅近くの、西部劇時代からあるSALOONをちょっと見学
「14時からLIVEやるよ」と言われても…14:05のメトロリンクでアナハイムに戻るんです(^^;
アンティークのお店で購入した手作りの歴史冊子。
こういうところに書いてある歴史がおもしろいのです。
↑アナハイム駅の横を流れる涸れ川↑
明日はハリケーンがきてここにも濁流が流れるという予報なのだが…。
さて、今日もエンジェルス対レイズを観戦に行こう(^^)