旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ダブリン市内観光~フェニックス公園、聖パトリック大聖堂

2019-08-22 10:00:00 | アイルランド
ダブリン市のすぐ外には周囲11㎞の壁に囲われた広大なフェニックス公園がある。元々は王様の狩場でもっと広かったそうな。今も鹿がおります。
↓入口

その名前↓フェニックス(不死鳥)は、もともとはアイルランド語(ゲール語)で「泉」という意味の言葉がなまったのだそうだ。

↓このオベリスクはウェリントン公を記念して1817年に建設が開始されたが金欠のために中断を重ね、彼の死後の1861年になってやっとオープンした。
四面にはワーテルローの戦いでナポレオン側から奪取した大砲のブロンズを使った記念プレートがはめこまれている。

↑高さ92mでヨーロッパで最大のオベリスク。
騎馬像も予定されていたが完成していない。
★アメリカの首都に聳えるワシントン・モニュメントのオベリスク(こちらは高さ169m)は、このダブリンのウェリントン記念塔の着工よりも後の1836年にデザインを公募・決定している。
この塔から影響をうけているのかしらん?


「なぜ、ダブリンにウェリントン公爵の記念碑があるのですか?」と、誰もが思う。
ウェリントンはダブリン生まれのイギリス人だったのである。
ウェリントン自身はそれを指摘されるのを好まず、それを言われると必ずこう切り返した。
「馬小屋で生まれたらみんな馬だというわけではないだろう?」


フェニックス公園内には動物園やアイルランド大統領公邸、アメリカ大使公邸もあって、治安はよいそうな。
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公園からリフィー川の向こうのギネス工場が見える↓

★1759年にアーサー・ギネスによってはじまったこのビールは、現在では世界五十か国の工場で生産されているそうだが、原料、気候などの違いからダブリンのものとまったくおなじにはけっしてならないそうな。※帰国後の東京でも生のギネスをもう一度味わってみたが、たしかに、そうかもしれない

現在、工場見学ツアーは22ユーロ。最後にダブリン市内が見晴らせるガラス張りのバーにて一杯だけのませてくれるそうな↓
↓あ、あそこがそうですね↓小さく見えてます



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○「ジョージアン(王朝)様式」は「ヴィクトリア(女王)様式」以前、18世紀の街並。
日本ならまだまだ江戸中期にこの整った町並みが出現していたのだ↓

イングランドのバースの街並がこのスタイルの代表格だがあちらは地元の石が使われている。
レンガでつくられているのがダブリン的。

ダブリン名物のひとつにジョウジアン様式の扉がある↓これはよく被写体になるもの

カラフルな扉もあるが、こういうシック色合いの方が合っている
↓こういった集合住宅に住む人々は散歩できる庭がほしいと思っていたので、住民専用の公園がつくられて住民たちだけがカギをもっている↓

↑現在でもカギを持っていないと入れません

***聖パトリック大聖堂に入る


↓盲目の吟遊詩人でハープ奏者★ターロック・オキャロラン(=トゥールロホ・オ・カロラン~アイルランド語・ゲール語の表記・発音)通称「カロラン」の墓碑↓1670年生まれというから芭蕉の二十年ぐらい後の人。同じようにパトロンに庇護されて国中を旅していた。

今回の旅でアイルランドの音楽を調べていてカロランがそのルーツにある人であることを認識した。現在でも五百曲を数える曲が伝わっているとネット辞典は言う。三百五十年以上前の人の曲をYoutubeで聴くことができる。←音が出ます
↑墓碑を捧げたのはシドニー・モーガンという女性小説家。ゲーテやルソーの影響を受けて、ブロンテ姉妹が生まれるより前に小説を出版していた人だった。ロンドンのヴィクトリア&アルバートに彼女の胸像があるそうだ。盲目のハープ奏者詩人の音楽をうっとり聴いている彼女の姿を思い浮かべた。

この大聖堂に葬られているなかでいちばん有名なのは「ガリバー旅行記」を書いたスウィイフトだろう↓

★ジョナサン・スウィフトは前出の盲目のカロランとほぼ同じ世代。この教会の主任司祭をしていたからカロランや小説を書いていたシドニー・レイディ・モーガンとも会ったことがあったかもしれない。
↑となりに葬られている「ステラ」と呼ばれていた女性は十四歳年下だったが、スウィフトが47歳の時に病で没してしまう。
スウィフトは意気消沈して葬儀にも出席できず、葬儀の灯りが見えるのもきらって窓辺からベッドを移動させたと伝わっている。
↓下はスウィフトの死後、名声が高まってから設置された記念碑群


有名人の墓碑がたくさん並んでいるのはどこの古刹も同じだが、ここにしかないものがこれ↓

↑この古い木製の板はもともと教会のチャプターハウス(会議を行ったりする教会内の重要な別室、聖具室になっていることもある)の扉だった
★CHANCE YOUR ARMという英語の慣用句はここからきている
1492年、勢力争いを続ける貴族バトラー家とフィッツジェラルド家の市街戦で、バトラー家の面々が教会のチャプターハウスに逃げ込んだ。追ってきたジェラルド・フィッツジェラルドだったが、突然「こんな抗争を続けていてはダブリンのためによくない、和解をしよう」とおもいたった。立て籠もるバトラー家の面々に扉を通じて呼びかけるが相手は罠だと思って応じない。
ジェラルドは木製の扉に穴を開けさせ、本気で和解を望んでいることを示すために自分の腕を中に入れて握手を求めた。相手に切り取られてしまうかもしれないリスクをとってでも和解をしたいと伝えたのである。バトラー家側は握手を受け入れた。
CHANCE YOUR ARM=腕にチャンスをあたえよ、という言葉は、危険を冒しても望みの結果を得るための行動をとることを指す慣用句として使われるようになった。



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