旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

世界最大の捕鯨博物館へ

2012-12-19 21:14:28 | アメリカ東部
ボストンから南へ一時間ほど行ったニューベッドフォードという港町は、当時世界屈指の捕鯨基地であった。街の倉庫の壁に絵かがれた巨大なクジラが迎えてくれた。
現在は全く行われないアメリカの捕鯨だが、19世紀の中ごろには、鯨の油がアメリカ家庭の夜を照らしていたのである。

下はジョン万次郎記念館にあった家庭用の鯨油ランプ


12月の晴れた日、ジョン万次郎記念館を訪れた後、ニューベッドフォードの捕鯨博物館を訪れた。入るとすぐに巨大なナガスクジラの骨格にびっくりさせられる。

ここを見学すると、「鯨漁は残酷だ」とアメリカが日本を批判するのに違和感を感じるだろう。彼らがやっていた漁もたいしてかわらない残酷さで鯨を虐殺していた。小さなボートで忍び寄り、くじらの急所に銛を打ち込み、暴れ苦しむ鯨が動かなくなるまで寄ってたかって攻撃する。
※ちなみにジョン万次郎もこの役をやっていた。

さらに、肉は捨ててその油だけを用いるという、日本人からすればなんとももったいない利用のしかただったのである。

「有名な小説家、ハーマン・メルヴィルもこのニューベッドフォードで鯨漁に従事していた。その体験から書かれたのが「白鯨」なのだ。展示の一角に小説からの言葉が掲げられていた。

博物館のおみやげには「白鯨チョコ」もあります。

巨大な捕鯨船を二分の一モデルで再現したコーナー

船の上で船員たちが鯨の骨に彫ったアートがたくさん展示されている。これはニューベッドフォードの地図ですね。

博物館の土産店で、ナンタケット島のバスケットを売っていた。非常に手の込んだ籐細工のカゴの話はきいていたが、実際に見るのははじめてだった。これでひとつ四万円ほどする。

ニューベッドフォードも、ナンタケット島も、19世紀半ばに捕鯨で栄えた場所だが、1850年代にペンシルバニアで油田が開発され、鯨油から灯油に移っていくとともに衰退していった。

***
ボストンへ戻ってひとやすみ。
夜はボストン・バレエの「くるみ割り人形」を観に行く。

題名はしらなくとも、曲をきけばだれもが「あ、これ知っている」と思うだろうクリスマスの定番演目。

バレエはやはり欧米のものなのだと実感する。子供たちもたくさん集まってきて、劇場内は映画館のような雰囲気。飲み物の持ち込みもOK。気楽な雰囲気で美しく楽しく、時におどけたバレエを楽しめる。このネズミ!一見に値します。

終わって、ちょっと入ってみたボストン発祥のドーナッツ屋・ダンキン。これが、このブランドの味わいなのだとしたら、ひとつも一食に値しない(-.-)
フレンチクルーラー、ひしゃげてぱさぱさでありました。

日本のドーナッツチェーンが上陸したら、またたくまに勝利をおさめるにちがいない。
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ジョン万次郎が育った街へ

2012-12-19 20:41:22 | アメリカ東部
ボストンから南へ一時間と少し。かつて鯨漁で栄えた港町ニューベッドフォード近くのフェアヘイブンの街へ。
幕末に活躍したジョン万次郎は14歳からの八年間をここで過ごした。

我々が訪れたのはクリスマスも近い12月だったが、穏やかな陽射しに桜の花さえみられた。

★1841年(天保12年)土佐、宇佐の浦で漁をしていた船が嵐に遭う。水もない六日の漂流の後、五人の乗組員は鳥島へ漂着した。アホウドリを食べ、ぼろぼろになりながら命をつないで四か月、ついに船が見えた。

アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号の船長ウィリアム・ホィットフィールドは、その日の事を日記に書いている。
「日曜日、南東の弱い風。ウミガメを探すために午後一時に二隻のボートを下す。五名の遭難者を発見。彼らからの言葉はなにもわからなかったが、腹がへっていることだけは分かった。」
船長が彼ら五人を助けたのはもちろん偶然だ。しかし、その中で万次郎だけがこの町で暮らすことになったのは、彼自身の魅力による。他の四人はハワイに預け、ホイットフィールド船長は、明るく元気で何事にも前向きに取り組む万次郎を自分の息子としてこの家に連れてきたのである。
1843年5月7日、万次郎がはじめてこの家で目覚めた日である。

百五十年以上の年月が過ぎ、家は荒れ果てていた。
日本とアメリカの友好の先駆けが忘れられるのを惜しんだあの日野原先生の呼びかけで、資金を集めて修復。
2009年5月7日に「ホィットフィールド・万次郎友好記念館」として開設式が行われた。

今日、我々を迎えてくれた友好協会理事ルーニーさんは奥様が日本人。実質的にこの建物を管理している。
万次郎の事を熱く語ってくれた。


万次郎が滞在した当時から改修されてはいるが、彼が寝起きした最上階からは、同じ馬小屋が見えていただろうか。

土佐の漁民・万次郎は日本語の読み書きさえできなかった。そんな彼をホイットフィールド船長は地元の小学校に通わせた。こどもたちにまじって、ABCから学び始めたオールド・ストーン・スクールと呼ばれる小さな建物が今でも残っている。

妻を亡くして一人だった船長にとって、万次郎はほんとうの子供のような存在になっていったのだろう。

時代はしかし、東洋人の万次郎を差別せずにはおかない。南北戦争前、奴隷解放運動以前のアメリカだ。
ホイットフィールド船長は再婚した妻とともに万次郎を自分の子供として教会へ連れて行ったが、万次郎だけは家族席に入るのを拒まれてしまったのである。

怒った船長は、自分の宗派を変える決断をする。キリスト教徒にとってそれは小さなことではなかったはずだ。万次郎をどれだけ大事におもっていたのかが、よく伝わってくるエピソードである。
結局万次郎も家族として受け入れてくれたのは、このユニタリアン派の教会だった。
現在でも教会の前に二人の記念碑が置かれている。

船長の気持ちに報いるべく、万次郎は懸命に学ぶ。航海士になる為の上級学校へ進学し、アメリカ人でもなかなかなれなかった一等航海士の資格を取得し、ただの漂流民でなく、立派なアメリカ人として通用する人物に育っていった。

八年の後、彼は祖国へ戻る決断をする。
鎖国中の日本へ戻ることは充分に命の危険さえあったが、それでも万次郎は決断する。折しもはじまったカリフォルニアのゴールドラッシュで資金を貯め、ハワイの同僚二人とともに沖縄から日本へ入ることにしたのだった。

沖縄、薩摩、長崎、高知、全部で二年半に及ぶ長い長い取り調べを経て、1852年11月、万次郎は十年ぶりに故郷に戻った。
死んだと思っていた息子が、ほとんど見たこともない異人さんのようになって目の前に現れたのを見て、母はすぐには本人と思えなかったそうである。

翌年、浦賀に黒船がやってくる。
時代は万次郎を必要とした。幕府は漁民だった彼を武士にとりたてる。
身分社会のきびしい時代にあって、万次郎の力は十分に活用されてはいなかったが、咸臨丸への随行、ヨーロッパへの視察という機会を得られたのは彼個人にとって幸いだった。

1870年、ニューヨークに滞在した視察団の一員であった万次郎は、大恩ある父・ホィットフィールド船長に会うために列車でフェアヘイブンを訪れる事が出来た。船長65歳、万次郎43歳、あの時代に二人が生きて再会できた事は、それだけで生きてきた意味だ。



土佐清水とフェアヘイブンの街は、万次郎が縁で姉妹都市となった。
これは土佐清水から贈られたホイットフィールド船長と万次郎を真ん中に置いて、彼の生涯の場面を周りに配置したパッチワークである。

ホィットフィールド船長の墓は近くの墓地にこうしてある。
***

彼の足跡を訪ねて、日本から多くの人がやってくる。
日本の大使から贈られた刀をはじめ資料が収蔵されているこの町の図書館を訪れる。

この写真がその刀のオリジナルだが、実は盗難にあってしまって、今あるのは二代目だとか。

ここへは皇太子時代の今上天皇も美智子様とともに訪れている。そのサインが台帳にみられる。縦書き署名ゆえにスペースが必要だったのだろう。

もうひとり、著名な方の署名も場所をとっていた。こちらは横書きですが、「相応の」場所が必要と判断されたようですね。
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ボストン市内を歩く

2012-12-18 21:32:29 | アメリカ東部
《手造の旅》初日、午後。
ケンブリッジ地区のハーバードから旧市街へもどってくる。時計の付いた印象的な建物は旧税関の塔。昔はすぐそこまで海だったのだ。ジョン万次郎もこの塔をスケッチしているそうな。

ファニエル・ホールはもともと1740年に二階建てで建てられた市場だった。ここで建国の英雄たちが演説を行った事で史跡のひとつになっている。※2004年には当時の大統領候補だったケリー上院議員もここで演説したそうな。
1806年に現在の大きさに改修された。当時から風見についていたのは「バッタ」。ガイドさんによればこれはロンドン商工会議所のトレードマークとのこと。

建物の逆側には、ここで演説したサミュエル・アダムスの立像。


しばらくいくと、植民地時代の議事堂がビルの谷間に埋もれている。

独立宣言が読み上げられた時、建物上部左右角にある一角獣とライオンは燃やされてしまったが、後世に再度取り付けられた。

建物の前にあるこの丸い印は、茶会事件に先立つ「ボストン虐殺事件」をあらわしている。
イギリスの兵士がボストン市民を銃撃した事件、なのだが、当時の事情を知ると、市民側がさんざん愚弄し暴力を加えた末の出来事だったそうなで、イギリス兵にも釈明の余地ありと思えた。

ガイドブックでは「この建物の一階の一部はマリン・ミュージアム・・・」と書かれているが、その一部の他がどうなっているか?

「ひとがひっきりなしに出入りしているので、よっぽど人気がある場所なんだなと思っていたら・・・

地下鉄の駅だったんです!」と長年ボストン在住のガイドさんのお話。

オールド・サウス・ミーティング・ハウスは1729年に清教徒の礼拝所としてつくられた。

当時は植民地でいちばん大きな建物で、1773年12月16日に植民地の人々が集まり「イギリスの押し付けてきた茶税には従わない」という決議をした場所。

↑このビルはボストン旧市庁舎。フリーダムトレイルの他の建物と比べてひときわ立派なのは1865年の(新しい)建物だから。
以前ここにはアメリカではじめて公立のラテン語学校があった。それを記念する石板が道路にはまっている。

そのラテン語学校で学んだ一人、ベンジャミン・フランクリンの立像台座には、有名なタコで雷を電気だと解明した時の絵が刻まれている。


建物の前にロバの銅像?
ロバは民主党のマーク。この前にある靴型に立ってロバを愛でるのでしょうか、いえいえ、靴型の下には共和党のマークである象が画かれております。

キングス・チャペルはなんだか武骨な建物。神殿風の柱も実は木材。

英国国教会の教会を建てるについては、清教徒たちからの大反対があったそうな。彼らの弾圧から逃れて新世界へやってきたのだから当然でしょう。

グラナリー墓地にはサミュエル・アダムスの墓をはじめ、建国の父たちが多く葬られている。


パーク教会は愛唱歌「America-my country 'tis of thee」がはじめて歌われた場所
※このyoutubeのサイトにて聴くことができます

1829年にはじめて奴隷制度廃止への演説が行われた場所。

ここまでくればボストンコモン。今では公園だが、ボストンからレキシントンへ進軍する英国軍の集合出発地だった。州議事堂が金色のドームを見せている。
ここには巨大なリスたちが文字通りごろごろしていた

**
ホテルへ戻り、近くのモールへ。クリスマスの飾りが美しい。
ノンストップ便だからこそ、到着当日もこれだけ有効に見学することが出来たが、時差もあって少々お疲れ様。
ボストン名物のクラムチャウダーをくりぬいたパンの器に入れたものでも食べて、早く休みましょう。

写真はロブスター・ビスクです
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直行便にてボストン到着~ハーバードへ

2012-12-18 13:59:15 | アメリカ東部
《手造の旅》ボストン、NYC~コンサートとクリスマスの旅8日スタート。

JALがボストンへのノンストップ便を飛ばすときいて、このツアー企画をおもいたった。最新鋭機材B-787の特徴は翼の端がしなっている様なデザインであること

窓ガラスにシェードは、ない。

ボタン一つで曇りガラスに変わる。

「全然違う」のが、いちばん感じられるのがトイレだった。軽量の、大げさに言えば紙を固めたようなプラスチックである。


新鋭機材とは関係ないけれど、二回目の機内食はKFCとのコラボでした。
個人用スクリーンでいろんな漫画を楽しむことができるシステムはJALだけだろう。これには字幕もないようすだったし。自分のペースでよみ進められるのも漫画のよいところです。

**
ボストンは雨だった。そのせいか思ったほど寒くはない。トンネルをくぐって旧市街(ボストンはヨーロッパのようなこういう言い方が似合う)へ入っていくと、「ボストン茶会事件」の場所が見えた。当時のお茶を積んでいた船が再現されている。一時燃えてしまったのだが、再び姿をあらわしたそうな。

詩人の名前を冠したロングフェロー橋をわたって、ケンブリッジへ。この橋は途中に立っているこの建造物によって「ソルト・アンド・ペッパー橋」とあだ名されるのだとか。なるほど、塩コショウの入れ物に似てますね。

ハーバード大学には建築課もあるそうな。これら面白い建物はその成果?


こちら図書館の建造は1914年。あのタイタニック号に乗っていてご主人と息子を失い自分は生き残ることになった富豪の婦人が、息子の名前を冠して贈ったもの。


その向かい側にある教会はどの宗派にも属していないという。ここもまた世界大戦の時に従軍して命を落とした学生に捧げられている。
中の壁一方の全面は、その名前でうめつくされていた。
彼らは強制的な「学徒出陣」ではなく、自分の意志で従軍している。だから、医学生部門に特に名前が多い。

道路を渡ったところにあるさらに大きな建物は、今は講堂や食堂として使われているが、南北戦争の戦没学生を追悼するための教会だったそうだ。

内部へ入ると礼拝堂の雰囲気を感じさせてくれる。

建物にラテン語で「人間性」「勇敢さ」「慈悲」と刻まれているのは、なるほどそういう理由だったのだ。

ハーバード大学の学生であるということは、ただ単に頭脳が優秀であるという事だけでなく、その人格においても国のリーダーたることを求められているのだろう。

それは、今やアメリカというだけではない。世界中から学生たちが集まっている。近年は特に中国からの学生は多い。学生寮の窓に、こんな張り紙を見つけた。

2010年にノーベル平和賞を受賞した中国人・劉 暁波(リュウ・シャオボー)へのメッセージ、ということなのだろう。政治的なものと学問を切り離すというのは、簡単ではない。学ぶことは、自己の置かれた場所に目覚める事を意味するからである。

午後になって雨はあがったが、橋の向こうのボストンのスカイラインは、ご覧のように霧の中であった。
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