旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

五島列島四日 福江島~三井楽、玉之浦

2017-09-18 17:00:32 | 国内
1938年(昭和十三年)に建設された水ノ浦が道脇の高台に見える。教会をたくさんめぐるのが主題ではないので寄らなけれど↓


訪れたいとおもっていのは、福江島の北西の端に位置する「三井楽」。
これを「みみらく」とはなかなか読めない。
ここにある道の駅「ふるさと遣唐使館」へ↓

レストランと共に
遣唐使時代の話が解説されている。パネルを読むと、五島列島は日本の端というよりも、大陸へのメインルートにあたっていたのだ↓

つまり、京都の貴人たちの間では五島の事は知られていたということ。

資料館に「蜻蛉日記」のこんな和歌が紹介されていた↓
「いずことか 音にのみきくみみらくの しまがくれにしひとをたずねむ」
右大臣道綱の母が兄と共に、亡き母に会えるというみみらくをたずねようと詠った。
三井楽はそんな場所として知られていたのか↓
※五島市の公式サイト

三井楽ではもう一か所、小松がこだわった場所がある。「渕ノ元カトリック墓地」は、大きなバスではなかなか入れない道をたどった先にある↓

まばらな民家の先に海が見えてくる↓

きらきら輝く水平線に十字架のシルエットがみえてきた↓

墓は日本的に家族ごとに仕切られており、ぽつんと残された古い墓碑も目につく↓




海辺にこんな台が設置されていた↓これは?

これはサツマイモを干しておくための場所。もとは焼酎の原料としてのサツマイモ用だったが、今では多くはカンコロモチ用の干し台になっているのだそうだ↓
「長崎雑学事典」の永冶さんが自ら撮影した、サツマイモを処理する様子↓


****
三井楽を南下して、玉之浦へはいってゆく。日本の灯台五十選に選ばれている大瀬崎灯台は、五島列島屈指の景勝地↓


少し登って三百六十度の展望。夕方の光で複雑な形の玉之浦が輝いている↓


この玉之浦の入江を走っていると、山の頂上にぽちっと建物があるのが見える↓

拡大すると・・・↓

これは、魚見といって、山の上から魚の群れている場所を見極めるための場所だった。
山の上からだと、見る人が見れば「あそこに三十匹ほど」とか分かるのだそうだ。
永冶さんが登って撮影してきた写真↓

魚見にいる人は、入江にいる船に魚のいる場所を伝え、効率よく漁を指導する。
 
問題は、どうやって山の上から船に情報を伝えるのか?
なんと、手旗信号のように白い御幣みたいなのを振っていたのだそうだ。※同じく永冶さんがお撮りになっていた写真↓ちょっと暗くてすみません↓


******
さて、今日の泊まりはコンカナ王国。この名前は「来んかな」という方言だそうな。和洋ともに楽しめるコース↓



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五島列島四日 福江島~堂崎教会

2017-09-18 13:00:01 | 国内
福江島で見るべき教会のひとつ堂崎教会へ

複雑に入り組んだ入江、今日は空をきれいに映しこんでいる
丸く囲まれたいけずではマグロが養殖されているそうな↓

バスが止まれる場所から少し歩いていく↓

潮が引いた浅瀬には不思議な形をした大石が、まるで自然のアート↓

やがて、端正な煉瓦造りの教会がある↓

堂崎教会は、最初の仮聖堂が18979年(明治十二年)に建設された。それ以前には信徒の家に集まってミサを行っていたので、祈りの場を持つことはそれぞれの信徒の願いだったのである。
教会の前には、最初にやってきたフランス人司教ジョセフ・マルマンと二代目ペルー神父の像がある↓彼らは孤児貧窮院をつくったので、子供たちを抱いている↓

禁教時代に使われていたとされる十字が刻まれた石も、教会前に保存されている↓


現在の赤レンガ造りの建物は1908年(明治四十一年)に完成。さらに1917年(大正六年)に、鉄川与助によって現在の形に改築されたもの↓

入口前にある磔刑像はヨハネ五島のもの。19歳の時長崎の西坂で殉教した「二十六聖人」のひとり↓

内部の中央祭壇には彼の骨が納められている。
多くの資料が展示されているが、現在でもミサが行われる現役の教会である。

**
教会近くの民家先で椿の種が干されていた↓

これをしぼって椿油になるのか。それぞれの農家は自分で絞るのではなく、これらを持っていって買い取ってもらい、こういう↓工場で椿油がつくられていくのだ↓



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五島列島四日 福江島~鬼岳、椿茶屋、石田城

2017-09-18 06:38:17 | 国内


朝七時、羽田空港はまだ風が強かったが無事に離陸し長崎に到着。五島列島の福江への飛行機に乗り換える。

ソラシドエアからオリエンタル・エア・ブリッジへのこの乗り継ぎ、意外にわかりにくかった。
この飛行機なので、ちょっと大きめの荷物はゲートで預けることになる。離島便はどこも同じ↓

機内においてある手作りの地図がめっぽう面白い。さらに、機長さんらの似顔絵いりのうちわも↓

小さな航空会社がみんなでできるだけのことをやっている。大手航空会社の立派な機内誌にはない魅力。

海から突き出したこんな小さな島、住んでいる人がいるのかしらん↓

三十分もかからず、到着



福江でのガイドさんは、「五島雑学事典」を書かれている永冶さん。この本、今回小松が読んだ五島関係の本の中でいちばんおもしろかった。辞書スタイルなのでガイドブック替わりにはならないけれど。お話し、たのしみにしています

台風一過、雲はあるが青空に気持ち良い風が吹いている。空港から十分ほどの「鬼岳(おんだけ)」は、緑がすがすがしい↓



途中に、かつての「ふるさと創生金一億円」で建設された天文台があった↓

永冶さんいわく、ここの星空はプラネタリウム以上だそうです


遠くに見える島影は、左が赤島。人口は近年三倍に増えて二十一人↓民宿があり、伊勢海老の漁業権もとったのだそうな。


バスに乗り走り出すと、鬼岳が火山なのがよくわかる。福江のある半島はこの山からの溶岩でできている↓


十分ほどで昼食場所。同じ敷地で塩をつくっているのを見学↓

海の水を一晩ゆっくり煮詰めていく。この時の温度・火加減が重要なのだそうだ。

ゆっくり煮詰められると、塩は結晶になる。これが美しいだけでなく、美味しいんです↓

ここでつくっているなかで一番の塩はダイヤモンド・ソルトと称して、福岡の某焼肉チェーンの本店のためだけのものだそうな。ここでも販売はしておりません。舐めさせてもらっただけ(笑)

***十一時半に昼食。朝早かったのでおなかぺこぺこ。海を見下ろす高台の古民家風レストラン。予約制です。



いろりばたで、すでに串に刺したサカナがよい具合に焼けていた↓


水イカ

ちゃんと焼いて、一人分ずつにわけてくださいます↓


五島美豚(びとん)


五島うどん↓ 麺はそうめんみたいなので、小松は六月の下見ではじめて食べた時に「イメージとちがう」と感じて、好きになれなかった。今回も見た目はどっかの駅前そばみたいだけれど…

「あれ?ぜんぜんちがう!」椿油をねりこんであるつるつるの麺と、はじめての出汁風味。ここならアゴ(とびうお)出汁?と訊ねたら、なんと「北海道の昆布だしです」とのお答え。地元食材にこだわりすぎないのがむしろ良い結果につながっているのだと思った。


伝統のカンコロもちも、ちょうどよく焼いてくださる↓



そとへでて見下ろす海↓


***午後はじめは福江の石田城へ。

ここは日本最後の城として明治維新の五年前に建設された↓いまでも想像以上にりっぱな石垣が残されている↓

↑あの建物はもしやオリジナルのお城? いえいえ、近付いてみると・・・

看板のとおり図書館だった↓

↑永冶さん曰く「さいしょは旅館として建てられた建物ですよ」

おもしろいのは、このすぐ後ろの石垣。かつては三方を海に囲まれていた石田城のオリジナルの石垣と船泊まりが残っている。これは、知っていないと見逃してしまう場所にある↓

 

江戸時代には新しい城の建設は禁止されていたが、異国船の頻繁な出没に危機を感じた江戸幕府が例外的に建設を許可した城。それは函館近くの松前城とここ福江の石田城だけ。

「通常城というのは、彼らの領地を統治するために建てたけれど、ここは日本という国を守るために建設された城なのです」というご説明に納得。ゆえに、そびえる天守閣というのはもともと存在せず、砲撃があっても耐えられるような低く分厚い石垣と堀に重点が置かれている。

お城のような図書館のとなりにある、こちらもちょっとお城風な歴史資料館へ入場。壁に飾ってあったバラモン凧を見ていると、「よければ、後ろの骨組みを撮りませんか」と館の方が親切に裏返してみせてくださった↓

↑なるほど、一般的な凧とくらべると格段に複雑な骨組みで、素人が楽につくれるようなものではなさそうである。

午前中に訪れた鬼岳の草原でこの凧をあげる大会があるのだそうだ。見てみたいですね(^.^)





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする