旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

カフェでひと休みしてからアルベルティーナ美術館へ

2018-01-18 22:55:40 | オーストリア
ウィーンはパリに負けないカフェめぐりが楽しい街だ。美術史美術館を出て、カフェ・セントラルでひと休み↓

最初は1876年に開店した店。日本なら西南戦争の前の年。第二次大戦末期に一度は閉店。爆撃に遭ったのかしらん。1975年同じビルの別の場所で再オープン。1986年に完全に昔の姿をとりもどして現在に至↓

「セントラル」は英語風に「C」からの綴り?
この天井の高さは今のカフェにはのぞめない場所↓

魅惑的なケーキもたくさんあるが↓

いちごのパンケーキにて↓

**
近くにあるミノリーテン教会に、ミラノの「最後の晩餐」の19世紀の完全コピータイル画があるので行ってみたのだが…コンサートの準備か何かで仲へ入れてもらえず↓


地下鉄にちょっと乗ってみよう↓24時間チケットを買ったけ元がとれるかしらん

この切符を自分で箱に差し込んで日時を打刻する↓





***

アルベルティーナ美術館はオペラ座のすぐ横。デューラーの素描「ウサギ」を所蔵していることで有名↓

今日はしかし、名前の由来になったアルベルト公(マリア・テレジアのお気に入りだった四女(?)マリア・クリスティーナの夫)のストーリーをちょっと見てみたい。若い頃の彼の肖像がこれ↓
ザクセン大公国の六男として生まれ、26歳の時に四歳年下のマリア・クリスティーナと出会った。

ドレスデンで軍人として訓練をうけ、1764年にMaxenで起こったプロイセンとの戦いで陸軍大佐として軍功をあげた。
ちょうどマリア・クリスティーナは知り合って翌年。想い人の活躍に彼女は心ときめかせたかしらん。
翌年、母のマリア・テレジアは娘たちの中で唯一の恋愛結婚を認め、二人は当時プレスブルグと呼ばれた現在のブラティスラヴァの城に住んだ。

顎が長いのはハプスブルグの血がはいっているのかしらん?ザクセンの家系にもそういう傾向があるのか?
いくつも肖像を見たが、たいていは実際よりも良い見かけで描いている筈。なかなか彼の実像らしさが感じられない。そんななかでいちばん「あ、ホンモノらしいのでは?」と思って見たのが↓この胸像。顎の感じ、容赦ないです↓

こちらはオーストリア軍の司令官になってからのアルベルト↓

彼は結婚後に妻の口添えでオーストリア軍のトップになったが、その後軍人としての軍功には恵まれず1795年に引退。
プライベート・ライフを楽しんでいたが、四年後の1798年に妻のマリア・クリスティーナは没した。

アルベルト公は当時最高の彫刻家だったヴェネチアのアントニオ・カノーヴァに墓碑を依頼。
二年後の1800年にやっと製作がはじまり、1805年になって完成した↓それが、これ↓

アルベルティーナ美術館の解説に「キリスト教的なシンボルを廃してフリーメイソンのシンボルが織り込まれている」とある。言われてみると確かに十字架などが描かれていない。
カノーヴァはよほどこのデザインが気に入ったのだろう、自分自身の墓碑にも同じスタイルを採用している↓ヴェネチアにあるカノーヴァの墓がこれ↓

基本デザインは、同じです(^.^)

アルベルティーナ公は1822年に没した。フランス革命の動乱からナポレオンの侵攻・失脚、ウィーン会議、ナポレオンの復活、流刑地での死までをみとどけたことになる。

**
●デューラーの「ウサギ」↓はもちろんもう一度見ていこう

デューラーの描写力は、本物のウサギ以上にウサギらしいウサギを出現させている↑
これだけを見にアルベルティーナへ来る価値がある・・・でも・・・アルベルティーナで常設展示してあるのはデジタルコピーなのですが。
ホンモノの素描はすぐに劣化するのでごくまれにしか公開されないのです。
「なぁんだコピーなのか」と言うなかれ。実によくできている。

同じくデジタルコピーだが・・・
●ルーベンスが子供たち二人を描いた素描もある↓

小松はこれを見てはじめてルーベンスはほんとうにすごい画家だったのだと納得した。
完成された油絵よりもよっぽど筆力が感じられます。

●31歳のレンブラントが描いた「ゾウ」↓

描かれてはいないゾウの頭の毛のごわごわ感まで伝わってきそう

アルベルティーナのミュージアム・ショップ↓


***夕食の待ち合わせまで少し時間があるのでコンツェルトハウスすぐ近くのホテルで二時間休憩。

再びアルベルティーナ広場まで歩く。
ここは旧市街のど真ん中なのに不自然な広場になっている。
戦前ここにはアパートがあり、それが爆撃で破壊された。意図的に再建せずに、戦禍を記憶しようとしている場所なのだ。
そこに、なんの説明書きもないこんな不思議な像がある↓

★1938年、ドイツに併合されたオーストリアではさらにユダヤ人迫害がはげしくなり、11月9日にはドイツと同じく「水晶の夜」事件が起きる。
ユダヤ人の商店などが襲撃され、割られたガラスが水晶のように散乱したことからこの名前で呼ばれるようになった。
はいつくばった老人の姿は、事件後に「後始末」として地面を磨かされるユダヤ人たちの姿を象徴していた。
背中に巻かれた有刺鉄線は後の強制収容所のものである。

****
四人でカフェ・シュヴァルツェンベルグで軽く夕食↓

ここも雰囲気のあるクラシックなカフェ↓

注文したグヤーシュはパプリカの味が効いていておいしかった。

ホテルへもどる道、コンツェルトハウスが見えた↓「今夜はすばらしいパーカッショニストのコンサートなんですよ」と、ガイドさんがお話になっていたっけ。


明日は、雨の予報です↓


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ウィーン美術史美術館

2018-01-18 14:47:41 | オーストリア
朝、シェーンブルン宮殿を見学。ずいぶん久しぶりに訪れた↓



地上階の床も木製なのが良い↓オリジナル?分かりません

お庭もちらり ここには動物園もあり、パンダが人気者

今日ご一緒した方々は全員シェーンブルン宮殿は以前に来たことがあった。なので「美術史美術館」のほうに時間をもっとかけようということになった↓

ルーベンスの展覧会をやっている↓この建物は19世紀に最初から美術館として建設された。入ったところのこの豪華な空間はヨーロッパのどの美術館にもないものだと思う↓階段を登ったところに見えるカノーヴァ作の「ケンタウロスを倒すテセウス」は、この場所にぴったりの演出↓

天井画はミヒャエル・ムンカーチ(ハンガリー人なのでハンガリー語ので「ムンカーチ・ミハーイ」というほうが良いか)の作↓

↑ルネサンスへのオマージュをあらわす。左下に立つ二人はレオナルド・ダ・ヴィンチとラファエロ↑

この場所の壁にはクリムトが手掛けた印象的な人物が並んでいる↓その前に足場が組まれているのは工事中?↓

実は2018年2月は彼の没後百年にあたるので、それに合わせた展覧会が企画されているのだそうだ。その展示の一環で、いつもは遠くから見上げるしかないこれらの人物像を間近に見てもらえるようにというアイデアなのである。ううむ、見てみたい・・・来月か、残念



●ブリューゲルの代表作がならぶ部屋↓「バベルの塔」は何作か描かれているが、これはかなりサイズが大きなほう↓

実に実に細かく描きこまれていて、その中にブリューゲルの悪趣味というか、モーツァルト的な?「お下劣趣味」も垣間見える↓どの部分か?川のほとりをよっくごらんください↓


有名な「村の結婚式」↓

の右端に描かれた酔っ払いが実にリアル↓自画像と言われている↓


個人的にいちばん好きなブリューゲルの絵をあげろと言われたら、小松はこの「冬の狩人たち」を選ぶ↓
個人的に、二十数年前にオーストリアからイタリアへ向かう列車の窓から見たアルプスの雪景色がここで見たこの絵そっくりだったから↓

↑絵の子細な解説はここではしないが、細部に煙突から火が出ている家をあわてて消火する人々をおしえていただいた↓

↑あわてて屋根に上ったけれど、もってきた梯子がとどかなくてあたふたしている。近所の人が長い梯子をもって駆けつける。
そんな雰囲気まで細かく細かく描いているのか。
ブリューゲルの絵には謎解きがいっぱい。今では誰も何を表しているのか不明になってしまった表現もあるが、火事に向き合う人々の表情は時代に左右されない。

●ヴェラスケスの描いた「マルゲリータ」の肖像画↓
それぞれ、三歳、五歳、八歳、とされる↓まるで「七五三」に合わせて、オーストリアに輿入れする予定の姫の成長ぶりを知らせているのだ↓

予定通り十五歳で輿入れした彼女は六度の出産をしたが二十一歳で没した。子供たちのうち生き延びて結婚したのは娘一人だけ。その子供(孫)も早世すると、スペイン王位を継ぐべき直径ハプスブルグの血は途絶えて、フランスのルイ14世との間にスペイン継承戦争がひきおこされることになる…。
ヴェラスケスはそんなことになるとはもちろん全く知らず、三枚目・八歳のマルゲリータを描いた翌年1660年に没した。

ヴェラスケスが亡くなった後、宮廷画家の称号を得たのはヴェラスケスの娘と結婚した弟子のマソ。彼が描いたこんな絵を紹介していただいた↓

ひと目で、師匠の代表作「ラス・メニーナス」へのオマージュが感じられる。よく見ると、カンバスに向かっている義父の背中が描かれているではないか↑ カンバスの左側にかたまっている四人がヴェラスケス師匠の娘との間に生まれた四人の子供たち。
右側には再婚した妻とその間に生まれた子供たち。なるほど。

調べてみると、マルゲリータが15歳になるまでの肖像画をマソが描いているのが分かった↓下は15歳のマルゲリータ。プラド美術館に展示されているようだ↓つまり、遠くオーストリアへ嫁入ってしまう最愛の娘(フェリペ四世にとっては最初の子供でとっても可愛がっていたのだそうだ)の最後の姿を手元に留めるための肖像画だったにちがいない↓

今度、プラド美術館へ行ったらぜひ探してみよう(^.^)

●カナレットの作品は今回の旅で何度も見ることになった↓これはウィーンの「歴史的景観」の基準になった絵なのだそうだ↓

カナレットの画歴のはじめは、ヴェネチアの風景を描いて訪れる人々に売って生計をたてていた。その絵はけして誇張はしないが、かといってホンモノをそのままに描いているのでもないように見える。つまり、見る人が「こうだったにちがいない、たしかに美しい」と思い出を・記憶を美しくしてくれる絵だったのではないだろうか。

●パルメジャニーノ二十歳ごろの自画像↓

小さな作品だが、こんな絵は他に見たことがない。二十歳の若者が自分の技量を誇示するために描いた小憎らしいぐらい秀逸な自画像である。パルミジャニーノは美しいモデルも描いたが、本人もとても美男だったとされている。その美しい自分の顔と共に、美しい絵を描くことが出来る右腕を大きく描いた。これはローマ法王クレメンス七世に献上した品だとされている。
1527年にカール五世がローマを略奪したが、その時にクレメンス七世のもとからカール五世(ハプスブルグ家)へ移ったものだろうか?

***絵画、いくらとりあげていっても、きりがありません・・・
ガイドさんにお願いして、彫刻や造形でひとつ、「ぜひこれを見て」というものを紹介していただいた↓それが、
●チェッリーにの「サリエラ」↓これは何?


作者のチェッリーニはフィレンツェの人。ベッキオ橋の真ん中に今でも胸像が置かれていると言えばぴんっとくる人もおおいだろうか。
フィレンツェのシニョーリア広場のロッジャに置かれている「メドゥーサの首を持つペルセウス像」は実に超絶技巧のブロンズ彫刻である。
ここに置かれた金色の品は食卓の「サリエラ(塩入れ)」ということになっているが、いったい何でできているのだろう?
後から調べていただいて、また、美術史美術館の解説本から「一枚の金の板から形なしで打ち出された」ものであると知った。
台座は黒檀の木。そこに七宝でいろとりどりの装飾を加えている。

一枚の金の板を打ち出したということは、製法としてはむかしのヤカンと同じである。エジプトのツタンカーメンの黄金のマスクも、同様の方法でつくられたのだときいたことがある。ヤカンとちがうのはもちろん材料。そして、型がないから同じものを二つとつくれないということ。
2003年に一度盗難に遭ったそうだが、溶かされなくてほんとうによかった。
2006年に犯人が自首し、森の中に埋められているが見つかったのだそうです。

近くで見ると、おや?ゾウがいた↓

海を表す男性像と陸をあらわす女性像が足を交差している構図。もともとはフランス王フランソワ一世が注文しフランス宮廷が持っていた。
フランソワ一世の孫にあたるシャルル九世が1570年に結婚する際、父親(アンリ二世)の代役を務めたチロル大公に贈られたのだそうだ。チロルはオーストリアとイタリアにまたがる地域である。

「サリエラ」の近くにあったこの木彫、通り過ぎることができなかった↓
●「時のアレゴリー」15世紀前半におそらくMichel Erhartミカエル・エアハルトの製作したものと思われる木彫↓

成年・中年・老年の女性像が三体背中を合わせているが、すべてが一本の木材から彫りだされている。
歳月は人を待たず
かつては大きな時計の飾りになっていた彫刻かもしれない。
15世紀から16世紀前半にかけてのドイツの彫刻作品には、南ドイツのリーメンシュナイダーの作品からはじまって印象的なものが多い。
これもまたその一つとなりました。

ウィーン美術史美術館は主要なものだけでも全部見ることは旅行者には不可能。
ルーブルや大英博物館などと同じく、いわば辞書の様な場所。
辞書を全部読もうとする意味はありますまい。
興味のある部分を選んで、じっくり考えるのがふさわしい。






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音楽家たちの暮らした家々を見学して、夜はオペラ「ドン・ジョヴァンニ」

2018-01-17 14:41:43 | オーストリア
○モーツァルトが「フィガロの結婚」を作曲した家は、シュテファン大聖堂のすぐ裏手の路地にある↓

↓突き当たりのアーチのあるところがそれ↓

以前は「フィガロハウス」という名前だった。
モーツァルトはウィーンに滞在した十一年間に十三ヵ所に住んだが、ここはそのうち唯一残されている場所↓
だが、その建物全部ではなく、彼が借りて住んだのはそのうちほんの二部屋なのだが↓

三階ぜんぶが「モーツァルトハウス」とされている。
※すぐとなりの建物の中庭を見るほうが、18世紀後半の様子が感じられるかもしれない↓

「こうした中庭に面した回廊のことを『パウラッチェン』と呼びます。これは外国語のようです。」と解説された。
調べてみると、もともとはボヘミアあたりからの言葉のよう↓
※こちらの方のブログに語源の解説がありました
日本でも中庭を「パティオ」と呼ぶ方がおしゃれな感じがする。
ウィーンの人々もそう感じて「パウラッチェン」という言葉を使うようになっていたのかもしれない。
外国から入ってきた文化・言語に自分たちの言葉の新しい名前を付けるか、外来語としてそのまま使うか、いつも問われるところです。

内部はシンプルな展示室が続く↓

かつて住んだ部屋だけ、こういう装飾が復元してある↓

もちろんお土産も売っている。雨が降ってきたから傘を買いましょ↓どっちの色がいいかしらん?

↓大聖堂の後ろ手にある、モーツァルトのお棺が運び出された穴↓



***
昼食は老舗のグリーヒェンバイゼルにて↓

****
午後、町の外へむかってバスを走らせる。
なんだか面白い建物がみえてきた↓
ウィーンの歴史的町並には似つかわしくないが、この建物はなかなか面白い。
フンデルトワッサーの設計したゴミ焼却場であります↓

**
午後いちばんで今は町の中になってしまった「シューベルトの生家」へ↓

父親はここで学校の先生をしていた↓この中庭の一回右奥が教室だったのだそうだ↓

この時代の普通の生き方としては、父や兄たちのように教師になるのだろうが、音楽の才能をみとめられて音楽を志した↓
いつもいつもかけていたメガネ、本物です↓

寝るときもはずさなかったので、友人たちがメガネケースを隠してしまったのだそうな↓
シューベルトの歌は同時代にすでに皆に愛されていた↓下はシューベルトの歌のための集いなのだそうだ

「友人を大事にするひとだったようです」とガイドさんのコメント、なるほど、そうなのだろう。でなければ、いかに良い曲をつくる人であっても本人を招いてこういう集まりはおこなわれなかっただろう。
三十年そこそこの人生ではあったが、幸せな瞬間もたくさんあったにちがいない。
***
「ベートーベンの遺書の家」は、もっと郊外のホイリゲ地区にある。
新酒の時期には団体バスもたくさんやってくる酒蔵街も近い。


衰えゆく聴覚をはっきり自覚したのは、この教会の鐘が揺れているのに音が聞えないということだったという↓

そして、「遺書」と呼ばれるようになる手紙を書いたという。
↓この家にも中庭がある↓元はパン屋だったのだそうだ

ここもまた、全部がベートーベンの借りた家ではなかったが、今では全部が記念館になっている。
ベートーベンが散歩していた時の杖といつも持ち歩いていたコンパスなどはあるが、当時の住んだ雰囲気はまったくない。そういうものを再現しようとしていない↓

****
四時半にはホテルに戻る。オペラ「ドン・ジョバンニ」は19時から22時半までの長丁場。しっかり体力を回復させて臨まねば↓

★こちらに「ドン・ジョヴァンニ」観劇記、簡単に載せました




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ウィーン到着、音楽家の墓地と旧市街エリア

2018-01-16 18:42:26 | オーストリア
雨のチューリヒで乗り継いで午後7時にはウィーンの空港に到着した↓

ウィーンのシュベッヒャート空港は市内から南東に13キロほど。三十分かからず、8時過ぎにホテルに到着できた。

**
翌朝、曇ってはいるが気温は+8℃ほど、この時期のウィーンなら暖かいと言ってよい。朝いちばんで「ウィーン中央墓地」へ↓
↓二番塔門から入る↓

ここはヨーロッパでも屈指の大きさで2㎢ほどあるが、それほど古い墓地ではない。
19世紀、ウィーンの街の城壁を取り壊し町全体を再編成した際に出現した。
映画「第三の男」のエンディングで使われた並木道はこの墓地のモノだとか↓


「音楽家セクション」の見取り図↓モーツァルトを真ん中にきれいに並んでいる↓

墓地が出来るより前のモーツァルトがなぜこの墓地に?


実は音楽家たちの墓は、それ以前別々の場所に眠っていたものをわざわざここに改葬したのです。
それでなければ、こんなに並びませんよね。
※モーツァルトは実際の遺体がどれだか特定できなかったので、記念碑だけを建立。

○ベートーベンはメトロノームのカタチをしていると言われる↓


○シューベルトは崇拝するベートーベンのとなりへ 


○左は「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス(息子のほう)、右であたまを抱えているのがブラームス


○ラデツキー行進曲で有名なヨハン・シュトラウス(父のほう)の墓はこれ↓

皇帝からの覚えは父の方が良く、↓墓碑に「K u K」という称号がつけられている↓

これは「カイザー(皇帝)と王(ケーニッヒ)」の音楽家、という意味。公式の称号を賜っていたわけだ。
「ワルツ王」の息子の作品群は、当時は「軽い音楽」とみなされていたのでしょうか。
息子の髭が皇帝のそれに似ているのは、ちょっとでも親近感をもってもらいたかったから、という説も伺いました(^.^)

○無調音楽のアーノルド・シェーンベルグの墓↓ジョン・ケージの師匠と言えば分かりやすいかもしれない

彼は1951年没だから、最初からここが墓だったのだろう。

墓地の中央にそびえるカール・ボロメオ教会↓

すぐ前は政治家たちのセクション。
国連事務総長まで務めたワルトハイム氏の墓もあるそうだ。

ここはいまでも、お金さえあれば新しい墓を手に入れられる。こんなのもありました↓


***ウィーンの旧市街すぐ手前に、「ソ連軍兵士の像」がある↓

第二次大戦末期にウィーンの町を「解放」した記念碑で、これはウィーン市が勝手に取り壊したりできない↑

リンク通りへもどってくる↓正面ケルントナー通りの奥にシュテファン大聖堂の尖塔が見える↓


○国会議事堂↓

○モーツァルト像↓

○市庁舎↓

○皇帝が暗殺の危機を脱した記念に建てられたボーティーフ教会↓


****クリスマスと新年の飾りがまだ残されている↓


この手の自転車、近頃どこの年でも見かけますね↓


●シュテファン大聖堂
塔はもともと二つの予定だったが↓先までできたのは一本だけ

すぐそばには1970年代に建設許可が出されたというモダンなビルが↓今なら絶対許可されないでしょう↓




○15世紀末説教壇の彫刻が秀逸↓手袋をはめた手の表現の迫真


手すりのところに悪と善のせめぎあいを象徴する動物↓

この説教壇の作者は、長年アントン・ピルグリムとされてきたが、近年の研究でニコラス・ゲアハルトによると改められた。
ニコラス・ゲアハルトの作品、だいぶ以前にストラスブールの寒い夜に入った博物館で出会ったのを思い出す。
おもわぬところでつながった(^.^)

○フリードリヒ三世の墓↓

大聖堂の右奥に安置された巨大な石棺は、15世紀はじめにハプスブルグ家が皇帝位を世襲する元になったフリードリヒ三世のもの。
半世紀以上帝位にあり、その間にライバルはどんどん先だってしまった。
78歳で没し、息子のマクシミリアンが跡を継ぐときにはハプスブルグ家の支配は盤石となっていった。
長生きすれば良いことがある、という見本みたいな人物。

○大聖堂外壁に刻まれた「05」の文字↓この意味は?

オーストリアはドイツ語表記だと Österreich ⇒最初の文字が「oウムラウト」。
「oウムラウト」は「OE」と表記することができる。
最初の文字はゼロではなくてアルファベットの「O」オー。
次は、アルファベットの五番目の文字「E」
これは、第二次大戦中にオーストリアの独立を求める暗号だった。

もともとは描かれただけだったが、2000年以降に多くの人が触りすぎて消えそうになったので彫り込んだのだとガイドさんのお話。それを保護すべくガラスのカバーがかけられ、今では足元に解説文まで付託されておりました。

*****
昼食を、老舗レストランのグリーフェンバイゼルで食べて、午後はベートーベンの遺書の家など見学へ。
夜にはオペラ「ドン・ジョヴァンニ」観覧です。


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バワの暮らした「ナンバー・イレブン」

2018-01-03 12:45:42 | スリランカ
ジェフリー・バワが設計した「ライトハウス」ホテルから出発し、19時過ぎの直行便で帰国便にのる一日。
※「ナンバー・イレブン」への訪問記はこちらにも載せています


「ライトハウス」は地元の人にも人気。今日も結婚式が行われる↓

バスの待つエントランスで、結婚式のお客を迎える太鼓が鳴り響く↓


高速道路をつかって一路北上。首都スリ・ジャヤヴァルダナプーラ・コッテ近くの出口で降り↓

人口の湖越しにジェフリー・バワ設計の国会議事堂を見る↓

※昨年国会議事堂を訪問した時の日記をこちらに載せています

↓仏教系放送局の前をとおる↓

↓ハスの花の形をした中国援助の会議場↓


●独立記念堂がみえてきた↓

キャンディで退位させられた最後の王、彼の署名した建物と同じにつくってある
※こちらからごらんください

☆装飾にはブッダ生涯だけでなく、そこへ至る魂が経験してきたたくさんの別の生涯の話も刻んである。
ひとつひとつ知りたいけれど、時間も知識も足りない。
↓この自分の首を持つ人物の話は?↓

別に書きます

昼食は、元バワの事務所であった「ギャラリー・カフェ」メニューはいつも変わらないが、変わらなく美味しい。バワの志向したエアコンの必要ない空間が心地よい↓


ここにもライトハウスでみかけた「マルタヴァンの壺」が↓


***
今回のコロンボの観光では、バワが住んだ「ナンバー・イレブン」」の見学を入れた。
※毎年同じ町を訪れても少しずつ違った観光内容にしている。《手造の旅》に、まったく同じものはありません。

バワは、元事務所「ギャラリーカフェ」(さっき我々がランチを食べた)との間を徒歩で行き来していたようである。
大都会の一角に残る、植民地時代のおちついた住宅地区↓

この一角にある四軒長屋のひとつにバワがすみはじめたのは三十代の終わりごろ↓

イギリスで建築の勉強をして資格をとり、スリランカへ戻って二年後↓イギリスで乗っていたロールス・ロイスも持って帰ってきた↓

狭い空間なので見学は予約制。一回に二十人程度しか入れない。まずはビデオで概略説明↓

その後、英語ガイドさんが案内してくれる↓
下の写真は入り口近くから家の奥へ続く直線の廊下。これがもともとは長屋をつなぐ路地であった↓

奥に間接光がふんだんに入ってくる。五つある「光の井戸」と呼ばれる小さな吹き抜けの他にも、↓こんな天井窓があけられていたりするのだ↓この羽をひろげたフクロウは「カンダラマ」ホテルで巨大に飾られていたのと同じラキ・セナナヤケの作品ですね↓






もともとは平屋なのだが、改築して三階にテラスをつくった、そこへ上ってゆく白い階段↓まるでギリシャの修道院のようだ↓

屋上テラスは小ぢんまりとして飾り気がない↓

バーカウンターは用意されていて、ここでどのような時間が感じさせてくれる↓


見下ろすと、となりに昔ながらの平屋の長屋が見えた。これも、バワが改築を請け負ったものなのだそうだ↓


寝室やリビングは撮影禁止なので全体の雰囲気を伝えるのがむずかしいが、「カンダラマ」「ライトハウス」といったバワの代表建築に二泊ずつした我々には見学する価値がある場所である。

*****
バワの手がけた湖の上の寺院に寄ったが、はじめて訪れた時のシンプルな構造にどんどん追加されていてびっくり。湖を見下ろす巨大なビルが建設されているのにもびっくり↓

スリランカ、これからもっともっと変わってゆくことでしょう。

最後にジャヤヴァルダナセンターへ寄ってから空港へ向かった。同じようなコースで毎年訪れているスリランカだが、まだまだ新しい視点を得ることができる厚みがある。

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