旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ドレスデン② アルテマイスター絵画館と周辺

2018-01-20 17:46:14 | ドイツ

絵画館はアウグスト一世(ポーランド王としてはアウグスト二世)が建設したツヴィンがー宮殿の一角にある。「ツヴィンガー」とは「空堀」を意味するのだそうだ。かつてこの場所は空堀だった。ちょうど四角になっているのはそれで、か↓ゼンパーオペラハウス(焼失前の先代)を設計したゴットフリート・ゼンパー(つまりお父さんの方です)による↓

この四角い宮殿の一番目立つ位置に王冠の形が見える↓

ポーランド王となったことを見せつけるための装飾なのだそうだ、なるほど。

どんな強気な王様だったのだろう?
歴代ザクセン候が描かれた、「君主たちの行列」と呼ばれる長さ百メートルのマイセンタイル壁↓ここに描かれている↓




馬を後ろ足で立たせていちばん威勢がよいのが彼↓

馬の足元を見ると、プロテスタントのシンボルである白いバラを踏みつけているのだそうだ
どれどれ↓

ルターを庇護したプロテスタント諸侯のリーダーだったはずのザクセン候がなぜ?
彼は伝統的にカトリックでなければならないとされるポーランド王に立候補するために、カトリックに改宗してしまったのだった。
当時のザクセンは公爵の国で、王国よりは下。なのでここに記された名前はポーランド王としてのアウグスト二世なのであります。

今よりもずっと宗教と政治が密接だった時代に、おもいきったことをします。

**アルテマイスター絵画館には数多の名品があるけれど、有名作品をちょこっと紹介。
いちばん有名なのは
●ラファエロの「システィーナの聖母」だろうか↓

一見よくある聖母子像に見えますが・・・一番下のところに描かれた二人の天使だけが、いろんなモチーフに使われて大人気になってしまった↓

実際に目にしておもったのは、後ろの聖母がふわふわした雲の上に乗っている表現があるからこそ、前景の二人の天使が際立っているということ。
人気が出たの、分かりますね(^.^)
●ジョルジョーネとティチアーノの共作したヴィーナス↓

ジョルジョーネは後に巨匠と呼ばれることになるティチアーノと同じ時期にヴェネチアで画家になった。十歳ほど年長でベッリーニ工房での兄弟子との説もある。長生きして巨匠となるティチアーノと比肩される名手だったが三十代前半で没した。このヴィーナスは1510年頃、ジョルジョーネが未完で遺したものをティチアーノが完成させたとされているのだ。
秀でた兄弟子からの影響は大きかったのだろうなぁ、後にティチアーノが描く「ウルビーノのヴィーナス(フィレンツェのウフィッツィ美術館所蔵)1538年」の原型のようではないかしらん。

☆余談☆
ジョルジョーネの数少ない作品からは、ティチアーノにはないメランコリックと表現したい憂鬱さが感じられる。それが彼の個性であり魅力になっている。
個人的に、ジョルジョーネ作品にうたれたのは「カステルフランコの聖母」に出会った日。ヴェネチアから日帰りでカステルフランコまで行ったのにそこにはコピーが飾られていた(それでも行っただけの価値はあったのだが)。
ちょっとがっかりしてヴェネチアへもどってアカデミア美術館に入ったら、最後の暗い部屋にびっくりするほど鮮やかな「カステルフランコの聖母」のホンモノが待っていたのだった。わざわざ行かなくても滞在していたヴェネチアにあったのか。どこの案内にもちっともそんなことは載せられていなかったのに?
※理由はあるのです。この日の日記ももう見られなくなっているようなので、復刻させたいと思っております

●フェルメール二点のうち、今日は一点だけが展示してあった。フェルメールらしい構図とはちがう、若い頃のもののようだ↓


●カナレット1720-1780の筆になるドレスデンの風景↓
※ヴェネチアの有名なカナレットの甥(母が有名なカナレットの妹だった)で、27歳でアウグスト強王に招かれた

今回の旅で訪れた三つの都市(ヴィーン、ドレスデン、ベルリン)の美術館すべてで、カナレットの作品を見た。
写真の無かった時代、風景を描く絵はどうしても誇張した美しさで描かれがちである。
カナレットは「嘘」にはならない程度に美しくその町を描いて、その町を知らない人にも・よく知った人にも、好評を博していた。
数百年後の我々にもそれは伝わってくる。

ザクセン候のコレクションのうち彫刻は別の美術館に所蔵されているのだそうな、いつか見てみたい(いつ?)。
***
美術館を出ると夕景↓




バスで走り出してすぐに巨大なモスクがそびえていた↓

※訂正!2020年再訪時、これは旧たばこ工場の建物でモスクに似せて建築された1908年の建築と判明

**二時間半ほど走ってベルリンのホテルに到着↓「ベルリン」とは「小さな熊」という意味です↓
ロビーにこんな装飾が↓




夕食はホテルのダイニング「マレーネ」にて↓

マレーネ・デートリヒはベルリン生まれ。第二次大戦前にアメリカへ渡りハリウッドで活躍していた。ヒトラーはマレーネにドイツにもどってくれるように要請したが、ナチスを嫌った彼女はアメリカ市民権をとり、アメリカ軍兵士を慰問して「リリー・マルレーン」を歌った。
戦後、ナチスから解放されたが分断されてしまったベルリンにはもどらず、パリに住み、1992年にパリで没した。墓はベルリンにあるのだそうだ。
長く長く分断されていたベルリンが1989年に一つになるのを見られて、ほんとうに喜んでいたという。





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ドレスデン~[エルベ川の真珠]

2018-01-20 13:18:02 | ドイツ

ドレスデンはそのキャッチフレーズ通り、とても美しい街だ↓



***


※世界遺産を取り消されたドレスデンについてちょっと書きました

プラハの朝、昨夜の雨はきれいにあがっていた。ヒルトンの窓から川向うに、朝陽に赤く染まる旧市街広場ティーン教会の塔↓

プラハから北西へ、ドイツの国境を目指す↓

標高が少し上がり、ハイウェイの下の谷に雲がたまっている↓

トイレ休憩をとった直後、車の流れがとつぜん止まった。あきらかに前方でなにかあった模様。やきもきしてもしかたない。
が、だんだん待たされていると、周囲の車から降りて様子を見に行く人も出てくる↓

結局、ちょうど二時間その場で停車。つい二百メートル程先での事故だった↓「あと一分早ければぬけられていたのにねぇ」と言ってみてもしかたありませんよね(^.^)

ドレスデンの町がみえてきた↓

昼食はアルテマイスター美術館付属のカフェにて。お腹へっておいしく食べられます↓

・チーズがたっぷりはいったクリームスープ

・ほどよく焼けたぱさぱさでないチキン↓

・クレメブリュレ↓

ドレスデンに数少ない日本人のライセンスガイドさん、お待たせいたしました。
短い時間ですが、楽しみに見学させていただきます↓
レストランを出たところに立っている銅像は音楽家ウェーバーだった↓

ナポレオン戦争後の1817年、ザクセン国の首都ドレスデンの宮廷音楽長となり、ドイツ語でのオペラをイタリア語とならぶものにしていった功労者。あのワーグナーは二十七歳年下でやはりドレスデンの宮廷音楽長となった経歴を持つ。ウェーバーをとても尊敬していて、ロンドンで亡くなった時に遺骨をウェーバー栄光の地ドレスデンまで戻す労をとった。

さっきバスを降りた広場⇒冒頭の写真の場所

ゼンパーオペラハウスの前にあたる↓

1841年ゴッドフリート・ゼンパーによって完成した最初のものは1869年に焼けてしまい、現在見られるのは息子のマンフレッド・ゼンパーがデザインしなおしたもの。火事以前のものがこれ↓

息子がデザインしたものの方がちょっとゴージャス(^.^)
☆再建されたものも、第二次大戦ではもちろん爆撃された。
内部に爆弾が落ち完全に壊れてしまったが、外側の壁はオリジナルで残ったのそうだ。

冒頭の写真で右側に写っている教会は、なんと王様とその家族が礼拝するためだけに建設されたのだという↓逆側からみたところ↓

北ドイツのザクセンはルター以降プロテスタント勢力の中心国だった。なのにアウグスト二世王はポーランドの王冠を手に入れるためにカトリックに改宗してしまっていた。だから、自分用のカトリック教会が必要になった、というわけ。
カトリックに改宗した王様が王宮から直接教会へ行くことのできる渡り廊下がある↓

きっとおもしろくないプロテスタントの民衆も多かったにちがいない。
権力欲というのは宗教をも超えるのか。

☆余談☆
かつてフランス王アンリ四世もフランス王位を手に入れるためにユグノーを捨ててカトリックに改宗した話を思い出した。
フランス王代々の戴冠が行われていたランスはこの「にわかカトリック」の王様を認めず、
アンリ四世は例外的にシャルトル大聖堂での戴冠をすることになった

エルベ川沿いの散歩道はかつての城壁の上である↓

16世紀はじめに王宮がマイセンからドレスデンに移動。それで高さ六メートルの壁をめぐらしたのであった。
エルベ川が見渡せる↓




旧市街の道をあるいて、フラウエン教会へ向かう↓


威容を誇るこれらの建物も、第二次大戦末期に大被害を受けたあとに修復されたものである。
だが、真っ黒になっているのは、材料のエルベ砂岩が年月を経ると自然にそのようになっていくとのこと。

この教会、小松がはじめて東ドイツ側を旅した1990年には、まったくの瓦礫の山であったのを覚えている↓

上の写真で真っ黒な門の部分だけがあって、あとは本当の瓦礫の山だった。
第二次大戦が終わって四十年以上が経っているのにこんな姿を街のど真ん中に曝しているのにおどろいた。
東ベルリンにある「夏目漱石の家」にも弾丸のあとがたくさん残っていた。
社会主義の約半世紀がどういう時代だったのか、これらを見るだけでよく伝わってきた。

フラウエン教会の再建プロジェクトは1994年にはじまった。ドイツ領だった時代の現ポーランドに生まれて戦後アメリカへ渡ったギュンター・フローベルという人物が財団を設立したのだった。彼は1999年にノーベル生理学・医学賞を受けると、賞金のほとんどをこの教会の再建に寄付したそうである。
彼だけではない、多くの一般の人々の「一灯」があつまって、2009年に爆撃前の姿をとりもどした。
かつてのドームの一部がこんな風に展示してある↓

↑これは、ドームの上部部分である。
これだけの厚みがある石だったのか。
1945年の終戦間近。爆撃に遭っても石自体は焼けなかったが、内部が猛火に包まれた。
猛火がおさまった翌日、殻だけとなっていた大聖堂は崩れ落ちたそうである。

再建は、できるだけ元の石材を再利用した↓


教会内部↓

↓一角に、その時の熱でぐにゃぐにゃに曲がってしまった十字架が展示してある↓


マルティン・ルターの立像↓

ザクセン選帝侯フリードリヒ三世(通称フリードリヒ賢候)は、宗教裁判で有罪となったルターを匿って、その身の安全を保障した。
ルターが「畳の上で死ねた」のはザクセン国のバックアップがあったからである。
そうでなければ、ボヘミアのヤン・フスの様に殺されていたのではないだろうか。
今年はルターの宗教改革のスタートから五百年の年とされている。
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ベルリン「戦勝記念塔」

2018-01-20 07:23:15 | ドイツ
ベルリンを占領したフランス軍はこの塔を倒すことを求めたが、他の連合国によって認められず、幸い今日でもこうしてみることができる↓

高さ47メートル。頂上には8.3メートルのヴィクトリア(勝利の女神)が、栄光の冠を差し出している↓

1873年9月2日に落成式が行われた。ドイツという統一国家がはじめて建設したモニュメントになる。
それまで二十以上の小国が分立していたドイツ民族をまとめるために(ベルリンを首都としていた)プロイセンは、干渉する三国に戦争で打ち勝たなければならなかった。すなわち、1864年対デンマーク、1866年対オーストリア、1870-71年対フランス。

この塔の基部にはそれぞれの戦勝を記念するパネルがはめ込まれている↓材料は敵の大砲を溶かしたブロンズ。
特に隣の大国・フランスに対する戦勝の意味は大きかった↓
パリを占領し凱旋門を更新するプロイセン軍と、ベルリンに凱旋した様子が描かれている↓

なんだかローマにトラヤヌス帝が建てたダキア戦勝記念塔を思い出させる。

敗れたフランスはナポレオン三世が捕虜になり退位。パリは一時「世界最初の社会主義政権」が占拠し、大混乱におちいった。
ドイツ(プロイセン)にとっては戦勝記念でも、フランスにとってこの塔は憎悪の対象だった筈。

第二次大戦末期、陥落寸前のベルリンではこのモニュメントも攻防の場所となった。
ブロンズにはその時の傷跡もたくさん残されている。
注意したいのは、最初このモニュメントはドイツ議会の前にあったということ↓下は1900年ごろの写真↓あ、たしかに↓

現在の位置に移動させたのはヒトラーである。

第二次大戦でベルリンを占領したフランス軍は、にっくき「戦勝記念塔」の上にフランス国旗をひるがえらせた↓


ブロンズレリーフははぎとられ、パリに持ち去られた↓ここに戻されたのは1984年以降、ミッテラン政権の時代。つい最近のことだ↓
下の写真で首がなくなったりしているのは、フランス軍がどのような扱いをしたかのあらわれ↓


***
塔は螺旋階段で登れるそうだが、今日は足元までにしておこう。
地下道を通って・・・

急な幟階段を見上げると、ベルリンの天使が見下ろしていた↓


この記念碑の周囲には、プロイセンからドイツ帝国にかけての軍人・政治家たちの巨像がならぶ↓

↑ビスマルク

↓モルトケ


このあたりをまわるには100番と200番のバスが便利↓

















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