旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

カイロの美しきイスラム地区~アクマルモスク、ハマム

2018-12-29 14:00:00 | エジプト

10世紀のカイロに建設されたムイッズィ通りでは職人ごとに住む地区が決められていた。

今もその流れは引き継がれている。中心部のエリアは金属加工業↓

路上実演中

↓手作りのモノは裏返して見るとわかる↓

↓これはモスクのドームの上につけるモノ。なんでもあるんですな。

↓水タバコのセットも


水道のなかった当時の大事な水場↓

↓すぐ目の前のスルタン・カラウンのマドラサ(学校)入口は↓アッコンにあった教会の入口をそのまま持ってきてしまったのだそうだ↓
↓そう言われてみれば確かに教会↓




●1125年に建設されたアル・アクマル・モスク↓

↓入口いちばん上には寄進した支配者の言葉が刻まれている↓

「慈悲深き神の名においてこれを建築したのは…」と

モスク内部へ↓

↓小さいけれど静かな空間

↓メッカの方向を示す

↓この仕切り版みたいなものは何?

ガイドさんに訊ねてもらうと、壁際に座って礼拝に参加するお年寄りの前に礼拝のスペースを確保するために工夫されたものなのだそうだ


●ハマム


小さな部屋がたくさんある蒸し風呂




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カイロの美しきイスラム地区~カラウンの廟、フセインモスク

2018-12-29 12:55:00 | エジプト
イスラムの預言者ムハンマドの娘ファティマを母に持つ聖者フセインの首が埋葬されているとされるモスクは祭りの日だった。

彼はシーア派の人々にとって特に重要。地元の人々は女性の服装でそれがシーア派だと分かるのだそうだ。
ムハンマドの孫のHusayn ibn Aliの時代といえばまだ七世紀。その人物の首がどうしてカイロにあるのだろう?

●Husayn ibn Aliが勝てない戦で殉教した後、その首は戦没地近くに葬られて巡礼地となっていた。
支配者がウマイヤ朝=シーア派からアッバース朝=スンニ派に代わると、ウマイヤ朝=シーア派の聖者であるHusayn ibn Aliへの巡礼を止めさせようと遺体はアスカランへと移送された。
12世紀になるとアスカランも十字軍の侵略に曝されて、首はこのカイロに避難することになり、現在に至る。

↓現在見えているモスクは19世紀の建設された新しいモノ↓左のトルコ式に高いミナレットもその時のもの

だが、もともと1154年にカイロに首が持ち込まれた時に建設されたモスクの小さなミナレットは右側に見えている↓

今日はとても観光グループが入っていく雰囲気ではありませぬ。
ハンハリーリ市場のレストランへ向かおう↓

いっきにカオスの路地へ

イスラム地区だけどクリスマス↓

オクラのタジン、おいしうございました↓

**
昼食後、さらに中世からのムイッズィ通りを歩く
●スルタン・カラウンの複合建築群があらわれる↓

礼拝するモスクだけでなく、病院やイスラムの教義を勉強するマドラサがあるのだ↓

中庭に面して四つのイワーン(壁アーチ)があるマドラサ部分↓

柱頭にはローマの建築からとってきたと思しきモノも↓

メッカの方向にあるミンバル(説教台)↓

メッカの方向を示すキブラに残るモザイク画↓ザクロの様な実がなっている植物が描かれているようだ。
「生命の木」かしらん?

↓こちらはイスラム的な幾何学模様↓

↓水場もちゃんと

この複合建築はマムルーク朝のスルタン・カラウンが1284からつくらせた。自身の墓もその一角にある↓

この一角がもっとも静謐な13世紀からの雰囲気を伝えているように感じた↓使われている立派な赤い柱↑↓

見上げる大きな暗い空間に浮かぶ円柱形のランプ

↑あ!これと同じものを「イスラム博物館」で見たっけ
※こちらに書きました

出入り口を支えるねじれた形の柱はビザンチンやロマネスクの教会でよく使われていたカタチ↓


カラウンの眠る場所↓イスラムの埋葬は遺体を直接土に埋めるからこの棺は形式的なカタチにすぎないとしても


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カイロ考古学博物館で再発掘せよ

2018-12-29 10:10:10 | エジプト
1902年から使い続けられているカイロ考古学博物館

前庭に置かれた創立者のフランス人マリエットの墓↓

彼がはじめる前には、発掘物を集めて研究しようとする場所はなかったのだから、その功績は明らかにある。
だが、とにかくここに持って来ればよいという感じで、ほったらかしになっている発掘物が三階にぎっしりなのだそうだ。
★2007年、1903年にハワード・カーターが発見したハトシェプスト女王の名前の書かれた木箱がCTスキャンされた。
墓に入っていた奥歯が、身元不明でFat Ladyと呼ばれていたミイラの抜けた奥歯跡と一致。
ハトシェプスト女王本人だと判明した。
別料金で入るミイラ室の中に、その木箱と本人のミイラがならべてある。
こんなふうに、考古学博物館自体が再発掘する必要がある場所になっている。
**
博物館の一階と二階も「もの置きのように」ぎっしりと展示されている。

外国の博物館ならばメインの呼び物になりそうなモノがそこかしこに「放置」されている印象

↓入口のセキュリティ 丸い吹き抜けのホールは当時なら最先端だったのかも


二十年も前から新しい博物館の計画があり、ギザの大ピラミッドから見える場所にようやくその姿が見えてきた↓
↓2019年1月にギザの大ピラミッドから見えた建築中のGEM(グレート・エジプト・ミュージアム)↓


***すでに収蔵物の移送がはじまっているのだが
展示させるべきものはいくらでもある。今回小松がはじめて目にしたのは、ツタンカーメン王の義理の父母ユヤとトゥヤの棺とすばらしい保存状態のミイラ↓

ここは未盗掘ではなかったが、ミイラとその棺など大きなものは残されていた↓
生前の雰囲気まで感じさせるミイラ↓三千年前とはおどろき


丁寧に作られたということがわかる

ミイラがそれを包んだ包帯を解かれて発見されるのは、墓泥棒が包帯の間に入れていた「お守り」を狙っていたから。
今日の考古学者はミイラの包帯をけっして解かない。こうして顔が見られるのはいわば「墓泥棒のおかげ」なのだ。
****
↓表面を削り取られた木棺が多いのは

使われていた金を剥がしたから
*****
定番の展示物もまだまだこちらの博物館にある↓
↓映画「クレオパトラ」でエリザベス・テーラーがモデルにした像↓

↓通称「村長の像」

↓カフラ王

↓ハワード・カーターが密かに国外へ持ち出そうとして見つかったというこの像も↓


新博物館GEMは、2020年にオープンすると発表されている。今度こそ、予定通りに開館するかしらん。
その後の旧博物館はどうなるかしらん。










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カイロに現存する最古のモスク イブン・トゥールン

2018-12-28 15:15:15 | エジプト
カオスのような古いカイロの一角にあって、圧倒的な造形美で迫ってくるイブン・トゥールン・モスク


AD870年ごろから建設がスタートし879年に完成したとされる。エジプトに残る最古のモスク。日本では平安初期。

アッバース朝に仕える軍人だったイブン・トゥールンが、バグダッドから独立してカイロを首都にした。
そして、拡張した新市街の丘の上に建設されたのだった。
現代では周囲が街に埋め尽くされているが、なお、一千年以上前の雰囲気を留めている

周囲は二十一の門が開けられていた↓

ひとつめの入り口をはいる。
ワンこは入れてもらえません※ニャンこはOK

内庭との間に高い壁に囲まれた回廊がある↓

まるで要塞のような造り↓

実際に、十二世紀に義父帝を暗殺しようとしたとして追われた皇太子ラジーンがここの塔に逃げ込んだ。
紙をくるっと巻いたようなミナレットがその塔↓

迫る追っ手に震えていたラジーンが塔の上にいたのかしらん

命が助かったラジーンは、感謝を込めてこのモスクを修復した

↓メッカの方向のミヒラブには美しい幾何学模様がほどこされている↓

なくなってしまっているのは?はぎ取られてしまったのだろう

↓一枚が「イスラム美術館」で展示されていたが…↓

これだけでは理解できない。やはりモスクで見なくては↓

最も大事なキブラには黄金のモザイク



塔に上ってみ晴らす景色↓

↑上の写真で見えるドームの部分には観光客は入れない。モスク付属のティケイヤ(修道院)だったのかもしれない。

カイロらしいモスクというと、まずはここではないだろうか。




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カイロのイスラム美術博物館

2018-12-28 10:10:32 | エジプト
カイロはアラブ・イスラムの大都市。古代エジプトだけでなくイスラムの歴史・美術を感じていただきたい。

↑入ってすぐに吊るされている照明
※こちらについて書きました


入場料+カメラ券↓変動相場制に移行してからポンドの価値はどんどん下落。入場料もどんどんあがっております。


時代ごとに区分された部屋がならんでいてわかりやすい↓


**
◎特別展示
スエズ運河開通150周年に合わせた展示がされていた↓

1956年に「スエズ運河国有化宣言」をするナセル↓

この政治的な賭けが成功したからこそ現代のエジプトが存在するのだと言ってよい。
**
8世紀の羊皮紙に書かれたコーラン↓

イスラム美術では文字が大事な要素になっている
↓このランプにはアミール(総督)の名前が書かれている↓

人物表現が禁止のイスラム美術だとおもっていたら、こんな皿が目についた↓

堂々と人物が描かれている。12世紀はじめファーティマ朝時代のものだそうな。

ふと思い出したのは、同時代の小アジア地域を支配していたセルジュク・トルコの表現。
中央トルコのコンヤで見たものも同じようにちょっと稚屈なロマネスク的なものだった。

これらの陶器、ラスター彩と言って独特の金色に似た輝きを放っている。

解説を読んでいてぎょっとした。
この皿には宰相ガブンの切られた腕がのせられた、というのだ。
★ガブンの主君のハーキムは敬虔なイスラム教徒だったが故に極端な性格で、庶民の食べものだったモロヘイヤやワインの栽培を禁止。
女性が外を歩くのを止めるために、女性用の履物をつくることまで禁止させてしまった。
ガブンが異議を申し出ると、腕を切り落とすという処罰を下した。
その腕が、ガブンが集めていたこれらの皿に乗せて差し出されたというのである。
ガブンはさらに舌まで切り落とされ、間もなく死んだとされている。

***
↓この皿はモンゴルの影響が色濃い↓


これら陶器の皿がどれも割れたものを修復してあるのは理由がある。
この博物館の目の前にはエジプト内務省があり、2013年の第二革命の際に爆弾テロが起きた。
↓今も厳重な警戒

爆発の威力はすさまじく、前の博物館内にあったこれらの陶器もみんな割れてしまったというのだ。

****
●噴水までもってきている↓


●金貨にはオスマントルコのスルタンのトゥーラ(=花押のようなもの)が刻まれている↓


女性の結婚衣装のコーナーにあった
●超高いぽっくり↓


着ているものを守る
●魔法のガウン↓

全面に細かく神の名前が書かれている↓

オスマントルコ時代、スレイマンの軍隊でこれを着ていた兵士がたくさん殺されたのでそれ以来効力は信じられなくなったのだそうな。

●医学書↓


●墓石まで↓



イスラムの美術を歴史的に俯瞰して見られる場所というのはあまりない。



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