旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

カイロの美しきイスラム地区~ハーキムモスクとフトゥーフ門

2018-12-29 17:10:00 | エジプト
敬虔で向学心のあるスルタン・ハーキムが1012年に完成させたとされるモスク

ムイッズィ通りを歩いてくるとこんな風に見える↓

入口前では子供たちがボールを蹴っている

よけながら入口を入る

すると
この空間が現れる

中央の赤い石が印象的だが、2010年に見た時と色が違う気がした↓
↓2010年の時の写真がこれ。

↓これが今回。光のせいかしらん?

★スルタン・ハーキムは経験で知識欲ある人物だったが、だから良き統治者であったわけではない。
今回「イスラム美術博物館」を見学した時、彼のエピソードを読んでぎょっとした。
※こちらに書きました


毎日使い続けられている場所なのできれいになっているが、唯一この塔は11世紀を留めているようにみえる↓

この塔はファーティマ朝カイロの北側の城壁の上に位置している↓

物見の塔の役割もはたしていたのだろう↓城壁の外側から見たところ↓

↓円筒に守られたこの城門が11世紀カイロの北の正門フトゥーフ門↓1087年完成

サラディン時代から存在する。ルイ九世が第七回十字軍でやってきた時にもこれを見ただろうか。

***
モスクの入口で番をしている彼ら、我々に同行してくれていたツーリスト・ポリスに椅子を勧めて座らせた

貧しくとも助け合って生きているカイロの庶民の姿は東京と比べてちょっとうらやましく見える






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カイロの美しきイスラム地区~アクマルモスク、ハマム

2018-12-29 14:00:00 | エジプト

10世紀のカイロに建設されたムイッズィ通りでは職人ごとに住む地区が決められていた。

今もその流れは引き継がれている。中心部のエリアは金属加工業↓

路上実演中

↓手作りのモノは裏返して見るとわかる↓

↓これはモスクのドームの上につけるモノ。なんでもあるんですな。

↓水タバコのセットも


水道のなかった当時の大事な水場↓

↓すぐ目の前のスルタン・カラウンのマドラサ(学校)入口は↓アッコンにあった教会の入口をそのまま持ってきてしまったのだそうだ↓
↓そう言われてみれば確かに教会↓




●1125年に建設されたアル・アクマル・モスク↓

↓入口いちばん上には寄進した支配者の言葉が刻まれている↓

「慈悲深き神の名においてこれを建築したのは…」と

モスク内部へ↓

↓小さいけれど静かな空間

↓メッカの方向を示す

↓この仕切り版みたいなものは何?

ガイドさんに訊ねてもらうと、壁際に座って礼拝に参加するお年寄りの前に礼拝のスペースを確保するために工夫されたものなのだそうだ


●ハマム


小さな部屋がたくさんある蒸し風呂




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カイロの美しきイスラム地区~カラウンの廟、フセインモスク

2018-12-29 12:55:00 | エジプト
イスラムの預言者ムハンマドの娘ファティマを母に持つ聖者フセインの首が埋葬されているとされるモスクは祭りの日だった。

彼はシーア派の人々にとって特に重要。地元の人々は女性の服装でそれがシーア派だと分かるのだそうだ。
ムハンマドの孫のHusayn ibn Aliの時代といえばまだ七世紀。その人物の首がどうしてカイロにあるのだろう?

●Husayn ibn Aliが勝てない戦で殉教した後、その首は戦没地近くに葬られて巡礼地となっていた。
支配者がウマイヤ朝=シーア派からアッバース朝=スンニ派に代わると、ウマイヤ朝=シーア派の聖者であるHusayn ibn Aliへの巡礼を止めさせようと遺体はアスカランへと移送された。
12世紀になるとアスカランも十字軍の侵略に曝されて、首はこのカイロに避難することになり、現在に至る。

↓現在見えているモスクは19世紀の建設された新しいモノ↓左のトルコ式に高いミナレットもその時のもの

だが、もともと1154年にカイロに首が持ち込まれた時に建設されたモスクの小さなミナレットは右側に見えている↓

今日はとても観光グループが入っていく雰囲気ではありませぬ。
ハンハリーリ市場のレストランへ向かおう↓

いっきにカオスの路地へ

イスラム地区だけどクリスマス↓

オクラのタジン、おいしうございました↓

**
昼食後、さらに中世からのムイッズィ通りを歩く
●スルタン・カラウンの複合建築群があらわれる↓

礼拝するモスクだけでなく、病院やイスラムの教義を勉強するマドラサがあるのだ↓

中庭に面して四つのイワーン(壁アーチ)があるマドラサ部分↓

柱頭にはローマの建築からとってきたと思しきモノも↓

メッカの方向にあるミンバル(説教台)↓

メッカの方向を示すキブラに残るモザイク画↓ザクロの様な実がなっている植物が描かれているようだ。
「生命の木」かしらん?

↓こちらはイスラム的な幾何学模様↓

↓水場もちゃんと

この複合建築はマムルーク朝のスルタン・カラウンが1284からつくらせた。自身の墓もその一角にある↓

この一角がもっとも静謐な13世紀からの雰囲気を伝えているように感じた↓使われている立派な赤い柱↑↓

見上げる大きな暗い空間に浮かぶ円柱形のランプ

↑あ!これと同じものを「イスラム博物館」で見たっけ
※こちらに書きました

出入り口を支えるねじれた形の柱はビザンチンやロマネスクの教会でよく使われていたカタチ↓


カラウンの眠る場所↓イスラムの埋葬は遺体を直接土に埋めるからこの棺は形式的なカタチにすぎないとしても


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カイロ考古学博物館で再発掘せよ

2018-12-29 10:10:10 | エジプト
1902年から使い続けられているカイロ考古学博物館

前庭に置かれた創立者のフランス人マリエットの墓↓

彼がはじめる前には、発掘物を集めて研究しようとする場所はなかったのだから、その功績は明らかにある。
だが、とにかくここに持って来ればよいという感じで、ほったらかしになっている発掘物が三階にぎっしりなのだそうだ。
★2007年、1903年にハワード・カーターが発見したハトシェプスト女王の名前の書かれた木箱がCTスキャンされた。
墓に入っていた奥歯が、身元不明でFat Ladyと呼ばれていたミイラの抜けた奥歯跡と一致。
ハトシェプスト女王本人だと判明した。
別料金で入るミイラ室の中に、その木箱と本人のミイラがならべてある。
こんなふうに、考古学博物館自体が再発掘する必要がある場所になっている。
**
博物館の一階と二階も「もの置きのように」ぎっしりと展示されている。

外国の博物館ならばメインの呼び物になりそうなモノがそこかしこに「放置」されている印象

↓入口のセキュリティ 丸い吹き抜けのホールは当時なら最先端だったのかも


二十年も前から新しい博物館の計画があり、ギザの大ピラミッドから見える場所にようやくその姿が見えてきた↓
↓2019年1月にギザの大ピラミッドから見えた建築中のGEM(グレート・エジプト・ミュージアム)↓


***すでに収蔵物の移送がはじまっているのだが
展示させるべきものはいくらでもある。今回小松がはじめて目にしたのは、ツタンカーメン王の義理の父母ユヤとトゥヤの棺とすばらしい保存状態のミイラ↓

ここは未盗掘ではなかったが、ミイラとその棺など大きなものは残されていた↓
生前の雰囲気まで感じさせるミイラ↓三千年前とはおどろき


丁寧に作られたということがわかる

ミイラがそれを包んだ包帯を解かれて発見されるのは、墓泥棒が包帯の間に入れていた「お守り」を狙っていたから。
今日の考古学者はミイラの包帯をけっして解かない。こうして顔が見られるのはいわば「墓泥棒のおかげ」なのだ。
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↓表面を削り取られた木棺が多いのは

使われていた金を剥がしたから
*****
定番の展示物もまだまだこちらの博物館にある↓
↓映画「クレオパトラ」でエリザベス・テーラーがモデルにした像↓

↓通称「村長の像」

↓カフラ王

↓ハワード・カーターが密かに国外へ持ち出そうとして見つかったというこの像も↓


新博物館GEMは、2020年にオープンすると発表されている。今度こそ、予定通りに開館するかしらん。
その後の旧博物館はどうなるかしらん。










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