これはなに?↓
「これは浴槽でこんな風にして入ったんだよ」とガイドのシュクリさん
↓小松も入ってみました
「せ、狭い…」
入ってみて分かったのは、古代カルタゴ人にとってどれだけ水が大事だったかということ。
カルタゴはローマの様な巨大水道は持たなかった。
雨水と湧水を活用するやりかたで、しかも海辺のこの立地で、どのぐらいの量の水が確保できていたのだろうか。
それでも発掘された家のほとんどすべてに、小さくはあってもこんな浴槽があった。
↓浴室の窓から海なんて見えなかっただろうけれど
↓ある家の見取り図↓2番の黒丸が井戸(溜めた水を汲みあげる)その右上4番が浴槽
↑8番がキッチンと推察されている
↓どの家も同じような水回りだったのがわかる
水がとても貴重であっても、中世ヨーロッパのように「風呂に入らないでよい」とは思わなかったのか。
古代カルタゴ人、えらい。
↓これは貴重な飲み水を溜めた場所と推察されている
↓だから円形の窪みも(どこかのサイトが言っていたような)「公衆浴場」などでは決してない↓
陶器を焼いた窯だったのは明らか↓
この町は人口二千人ぐらいで、漁師と(主に陶器の)職人と商人の街だった。
★発掘調査によりこの町の最も古い部分は紀元前六世紀ごろにさかのぼり
戦争による二度の破壊をうけ、その後は誰も住まずに埋もれたと考えられている。
☆一度目の破壊は紀元前310年のギリシャとの紛争時
シチリアのシラクーサからやってきたアガクレトスによって
☆二度目の破壊は紀元前256年のローマとの紛争=いわゆる第一次ポエニ戦争
ローマの執政官マルクス・アティリウス・レグルスによって
後日譚:このレグルスは翌紀元前255年にチュニスの戦闘で敗れ、カルタゴの捕虜となる。
保釈されてローマ元老院に講和の使者に出されたが、カルタゴの命令とは逆に徹底抗戦の演説をした。約束を破ったのだからただではすまない。カルタゴの牢にもどることはないと引きとめるローマ本国をふりきってカルタゴに戻ったレグルスは、やはり拷問の末に殺されたとされる。※この殺され方が読んだ資料で全部異なっていた
このケルクアンの遺跡はローマに破壊された後に再建されなかった。
だからだろうか、神殿だったと思われる場所にはギリシャ以前の神「タニト」のシンボルがモザイクで残されている
ここは1960年代にフランス人の釣り人が偶然発見するまで、破壊されたままのカルタゴの都市が残っていためずらしい場所である。
古代での街の名前はTamerzratだったと推察されているが、現在の遺跡は近くの地名からケルクアンになっている。
↓細い道から広い道へ出るところにあった「車止め?」
「これは浴槽でこんな風にして入ったんだよ」とガイドのシュクリさん
↓小松も入ってみました
「せ、狭い…」
入ってみて分かったのは、古代カルタゴ人にとってどれだけ水が大事だったかということ。
カルタゴはローマの様な巨大水道は持たなかった。
雨水と湧水を活用するやりかたで、しかも海辺のこの立地で、どのぐらいの量の水が確保できていたのだろうか。
それでも発掘された家のほとんどすべてに、小さくはあってもこんな浴槽があった。
↓浴室の窓から海なんて見えなかっただろうけれど
↓ある家の見取り図↓2番の黒丸が井戸(溜めた水を汲みあげる)その右上4番が浴槽
↑8番がキッチンと推察されている
↓どの家も同じような水回りだったのがわかる
水がとても貴重であっても、中世ヨーロッパのように「風呂に入らないでよい」とは思わなかったのか。
古代カルタゴ人、えらい。
↓これは貴重な飲み水を溜めた場所と推察されている
↓だから円形の窪みも(どこかのサイトが言っていたような)「公衆浴場」などでは決してない↓
陶器を焼いた窯だったのは明らか↓
この町は人口二千人ぐらいで、漁師と(主に陶器の)職人と商人の街だった。
★発掘調査によりこの町の最も古い部分は紀元前六世紀ごろにさかのぼり
戦争による二度の破壊をうけ、その後は誰も住まずに埋もれたと考えられている。
☆一度目の破壊は紀元前310年のギリシャとの紛争時
シチリアのシラクーサからやってきたアガクレトスによって
☆二度目の破壊は紀元前256年のローマとの紛争=いわゆる第一次ポエニ戦争
ローマの執政官マルクス・アティリウス・レグルスによって
後日譚:このレグルスは翌紀元前255年にチュニスの戦闘で敗れ、カルタゴの捕虜となる。
保釈されてローマ元老院に講和の使者に出されたが、カルタゴの命令とは逆に徹底抗戦の演説をした。約束を破ったのだからただではすまない。カルタゴの牢にもどることはないと引きとめるローマ本国をふりきってカルタゴに戻ったレグルスは、やはり拷問の末に殺されたとされる。※この殺され方が読んだ資料で全部異なっていた
このケルクアンの遺跡はローマに破壊された後に再建されなかった。
だからだろうか、神殿だったと思われる場所にはギリシャ以前の神「タニト」のシンボルがモザイクで残されている
ここは1960年代にフランス人の釣り人が偶然発見するまで、破壊されたままのカルタゴの都市が残っていためずらしい場所である。
古代での街の名前はTamerzratだったと推察されているが、現在の遺跡は近くの地名からケルクアンになっている。
↓細い道から広い道へ出るところにあった「車止め?」