旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

養殖池を抜けると塩田にたどりついた

2020-02-17 11:37:31 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 三日目
台湾南西海岸では清朝の時代から製塩がおこなわれていたが、今では実質ここだけなのだそうだ。

手のかかるこういった塩田は値段が高くなりすぎ、台湾市場に出回っているのはオーストラリアからの輸入だと塩田の人が言っていた。

台南から車で北上すること四十分ほど、嘉儀に入る手前。
このエリアを走ると左右ずうっと養殖場が続く。
↓選挙用のポスターもこんな

「漁民の収入を増大させますよ~、地元に利益をもってきますよ~」という姿勢が伝わってくる。
日本の昔からの「どぶ板選挙」スタイルがここでもそのままなのでしょうね。

「ここで養殖されているのはサバヒーという魚。英語ではMilk fishと言います。」
サバヒーという名前のおもしろい由来がウィキに載っていたのでそのまま引用させていただきます↓
※ウィキペディアより引用
鄭成功が食べて「(これは)なんという魚か(啥咪魚:sia-mi hi:シャミヒ)?」と泉州方言の中国語で質問したのを地元の人が「サバヒー?」と聞き間違えたことが名前の由来となった

暖かい海を好む魚で日本ではあまり出回っていないそうな。

さて、塩田

近づいて見ると、比較的大きな塩の結晶になっているのがわかる

海水をこの結晶にするまで二週間から三週間、四つの違ったタイプの塩田を使って行われている↓

↓展望台から見ると、左の写真映えするエリアではなく右の広い方が最初に海水を蒸発させる場所だとわかる↓

↓写真で奥の方に見える取水口から海水を取り込む。この時は3%ほどの塩分を「大蒸発池」に六日から八日入れておくことで12%まで濃くする。それを「小蒸発池」に移し五日から七日で濃度25%まで濃縮。ここまでのプロセスで海水に交じっているゴミや鉄分も除くことができる。

さらに小さな区画に区切った「結晶池」で製品化してゆく。
★本物のトーファ(豆腐花)を食べる
塩の結晶が出来る過程でのこされる水が「にがり」
台南名物のトーファはこれがあるから名物になったのかもしれない。
塩田付属のお店で豆乳に入れてつくってくれた↓

↑「にがり」豆乳に対して1パーセントでよいのだそうだ
↓この炊飯器みたいなので15分から20分で完成

↓これ、いままで食べたトーファでいちばんおいしかった↓市販の多くのトーファは凝固させるために石膏をつかっているそうだから、味がちがうのは当然だろう↓

ひとり一椀、ぺろりといただきました(^.^)

さらに養殖池が続く中を北上します

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台南~安平古堡秘話

2020-02-17 11:31:15 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 三日目
オランダの商館長ヌイツを捕え人質にして長崎に連れてゆくとは、濱田彌兵衞というのはかなり胆のすわった人物だったのだろう。
今は「安平古堡」と刻まれた石碑になっているが↓かつては濱田彌兵衛への顕彰碑だった↓※日本統治時代の大正13年に設置

大正時代に贈られた官位と共に刻まれている「贈従五位濱田彌兵衛武勇之趾」

館内の解説板では、濱田の行動について一行だけ言及してあった↓

オランダは1624年に膨湖島そして台南(当時は「大員」と表記されていた台南と周辺地域)を占領し、西欧流に10%の交易税を徴収しはじめた。オランダのやってくる以前から交易所を開いていた日本の商人たちはそれを拒否。濱田はせっかく持っていった高価な品を税としてとりあげられ、命がけの反撃にでた。
↓ヌイツが捕えられるところを描いた江戸時代の絵※ウィキの写真より

この事件は完全解決まで四年かかり、ヌイツは1636年まで長崎に留め置かれた。
解放されたきっかけは、後任の商館長フランソワ・カロンが江戸にきて将軍家光に拝謁した際に解放を願い出て許可されたとされている。
その際にオランダから贈られた葵の紋入り回転燈籠が日光東照宮にある↓
↓2010年に訪れた時に自分で撮影した写真を見つけた↓こんな話は全く知らずに撮っておりました。

↓燈籠の葵の紋が上下逆さになっているだがこれは意図的ないじわるかしらん?

説明板には1643年に贈られたとあるが、それでは年号が合わない…

カロンは七回も江戸に行っているし、贈られた年と奉納された年が同じともかぎらない。
…と考えていると、台湾のガイドさんから別の燈籠の写真が送られてきた
↓2015年に台湾からのグループを連れて訪問した時に撮影したそうだ

↓これは1636年と解説されている↓こちらの方がフランソワ・カロンが贈った灯籠だと推察される

日光東照宮には他にもオランダがもたらしたと思える燭台がある↓

↑こちらも2010年に小松が撮影したもの

**
オランダのゼーランディア要塞は1662年に鄭成功によって陥落し、鄭成功の故郷の街にちなんで「安平」と名付けられた。
オランダから鄭成功時代のレンガの壁が残されている↓オランダ時代三十八年、鄭成功時代も二十三年でしかなかった。

そこにはヨーロッパの家屋によく見られるウォールアンカーの跡が見られる↓

↓実際にここにはまっていたのだろう実物も展示されている

鄭政権を攻め滅ぼした清は引き続き水軍の基地として使用した。
その時代のものがこれ↓


★安平古堡の部屋の奥に壁いっぱいに飾られた巨大な絵が展示されていて、オランダ支配時代のもう一つの秘話を知った↓

↑1661年、4月4日、もうひとつのオランダ人の砦だったプロビンキア(現「赤崁楼」)が陥落。
※鄭成功は二万五千の兵で3月23日から二つの砦を包囲していた
囚えたキリスト教牧師のアントニウス・ハムロックをゼーランディア城に籠城するオランダ人に降伏を呼びかける使者にたてることにした。
ハムロックの三人の息子と妻は鄭成功に人質として捕えられていたが、
二人の娘はゼーランディア城の方にたてこもっていたからである。
注:プロテスタントの牧師は結婚できる
↑画かれたシーンはこう解説されている
「ゼーランディア城に入ったハムロックは降伏をよびかける代わりに徹底抗戦して援軍を待つことを勧めた。それは鄭成功のもとにもどれば確実に殺されることを意味している。ゼーランディア城にいる二人の娘は父にどうかもどらないように懇願した」
なるほど。と、いったんは納得して絵を見ていたが、帰国してから調べているとアムステルダム国立美術館が元絵と思われるものを所蔵しているのが分かった↓

二枚を見比べると、下の方が歴史的な事実をしっかりふまえているように見える。
だとすると、安平古堡にあったものは誰かが画きなおしたコピーだということになるが、人物を変えてしまっている。
不思議である。

さらに調べていくと、オランダ東インド会社の記録ではゼーランディア城の徹底抗戦を主張したのは最後の総督となるフレデリック・コイェットで、ハムロックはそのために刑死したことになっていた。
1776年の版画がウィキの頁にあった↓

↑黒い服を着ているのが牧師のハムロック
↑娘が跪いてお願いしているのがコイェット総督
同じ処刑される結果になるのならば、ハムロック牧師が徹底抗戦を呼びかけたことにした方が「オランダ人の勇気」を喧伝できる。
歴史は人々が「こうあったらより感動できるよね」という方向に悪意なく改竄されていくものなのだろう。

それは、この絵が1810年に(ヤン・ウィリアム・ピエネマンというオランダ人画家によって)画かれたと知ると、より納得できる。
1810年は、オランダという国がナポレオンによって消滅させられており、世界中でオランダ国旗がひるがえっていたのは出島だけだった時代にあたる。
「オランダ人の勇気」を画いて同胞を勇気づけたかったにちがいない。

次にアムステルダム国立美術館に行ったら、この絵のことを訊ねてみるとしよう


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台南~成功大学、泰成水果店、赤崁楼、度小月

2020-02-16 18:02:32 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 二日目

春節の名残がそこここにある

**
烏山頭ダムから台南の街へはいって、成功大学(鄭成功にちなんで1956年に名付けられた)の中庭には入る。鄭成功についてはこのブログ内でもたくさん書いております。右上の検索空欄に「鄭成功」と入れて、右側を「このブログ内」にして右の検索マーク(虫眼鏡)をクリックしてください。

ここに、昭和天皇が皇太子時代の大正十二年(1923)に植えたガジュマルの巨樹がある↓

日本統治時代に軍の敷地から高等工業学校に変り、現在の大学に至るまでをずっと見守ってきた木。
これはとても幸いな事なのだ。

すぐ近くに「二番目に大きなガジュマル」があって、それは2015年の8月に台風で大きなダメージをうけたのだから↓

↓構内には清朝時代の城門のひとつが移設されている↓ゆっくり見たかったけれど時間が足りません

**
フルーツ天国の台湾、地元人気店にも行ってみよう。
入れるかしらん?と心配したけれど、今日の午後からぐぐっと気温が下がって寒いぐらいになったせいか、空いていた。

ずらりと並んだ選び抜かれたフルーツ↓

これは何?

「釈迦頭」というのだそうで、すごく甘い。
英語で通称シュガー・アップルというのだそうな。

食べてみると、どこかで味わったことがある甘さ。
・・・そうだ!柿、ディーツ(なつめやし)、タマリンドと同系統の甘さにちがいない。
↓この店のマストはこのフルーツシャーベット(^.^)

↓少し凍らせた台湾マンゴーの砂糖漬

***
鄭成功の廟にも寄る。

※これについてはこちらに書きました

****
赤崁楼では入口で体温チェックここはもともとオランダが建設した要塞のひとつだった↓
↓復元模型がこれ

↓現在のスタイルは鄭成功がオランダを追い出して以降の中華スタイル。もちろんこれも復元だが。

ここにある九個の石碑がおもしろい↓

※この亀と石碑の話はこちらに書きました
↓ここには他にも数えきれない石碑がある↓

多くは清国時代のものだが、日本時代に置かれたものがこれ↓

あれ?中華風?実は裏面に書かれている↓


写真でうまく入らなかったのだが、「昭和十九年」と記されている。

羽鳥又男は当時の台湾市長、戦禍の激しいさなかに文化を保護することに尽力していた人だ。
※この石碑についてこちらに書きました

↓壁は三層になっている↓いちばん下の部分がオランダ時代、その上(身長より少しうえぐらい)に清時代、いちばん上に日本が修復した部分↓


清時代には科挙試験の学問所にもなっていたので、学問の神様として「魁星」も祀られている↓

*****
夕食はいつもの「度小月」
↓ここでも入口で検温
↓ここのタンツー麺は台北の同系列店とも違う

エビ巻と、今日はカラスミとニンニク葱も
↓豚足も

↓デザートは「愛玉子(おうぎょうち)」

「愛玉子」はゼリーの部分を指す。
台湾固有の植物で山の中に自生するそうだ。
その果実が川につかってゼリー状のものが出ているのを発見したのがはじまりときいた。
これ、街角で売っておりました。
また、別に書きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

烏山頭ダムの「殉工碑」

2020-02-16 16:15:43 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 二日目
椰子、ビンロウ、バナナ、パイナップル、魚の養殖、様々な農産物が収穫できる嘉南平原は、そこに供給する水があってはじめてこの風景になり得た
烏山頭ダムと共に付設された灌漑用水は14000㎞以上にもなる。

1920から十年をかけて金沢出身の八田與一が完成させた

※昨年訪れた時のブログに経緯をもう少し書いていますのでごらんください
記念館から急な階段を登って堰堤にいく途中に、建設途上で亡くなった人たちの「殉工碑(=慰霊碑)」があるときいて訪れた↓

八田氏自身が書いたという献辞↓完成した1930年とは昭和五年↓

女性の名前がたくさんあって不思議に思った。
よく読んでいくと、そこには現場で亡くなった人々と共に、いっしょに暮していてマラリアなどの病で亡くなった家族の名前も刻まれていたのである↓

難工事で亡くなった人々には、日本本土からの移住者も台湾にもともと住んでいた人々もあった。
「慰霊碑には日本人の名前だけでよい」という意見を退け、全員を亡くなった順に記した。

日本領土となってから三十五年を経て安定的な統治が繁栄の成果をあげはじめていた時期。
八田與一は「すでに同じ日本人である」という意識を持っていたのだろう。
十五年後の敗戦など誰にも予期することはできない。

「分け隔てなく」記したはずの名前を見ていて疑問に思ったことがある↓
↓「組合員」とそれ以外を明確に区別して表記している↓

民族は差別なく表記できた八田與一だが、組合についてはそうはいかなかった?
その事情が分かる方があればぜひ教えていただきたいです。

↓ダムが見える位置にダム完成の翌年に置かれた、リラックスした八田の像
↓よくあるいかめしい銅像を本人が好まず、この姿の方がよいとしただそうだ。

↑後ろには夫妻の墓がある

ダムの堰堤から降りたあたりに八田與一一家十人が住んだ家が復元されている↓
↓こちらは正面玄関を入って左からすぐに入れる洋室の応接間↓

ここ以外はすべて和室
↓裏口すぐに風呂場があるのは↓現場から泥だらけで帰宅することが多かったのだろうと想像させる

この家が復元された時、八田の出身地金沢の北國新聞社が家に置く同時代の家具の寄付を呼びかけた。
すると、それに応じてたくさんの家具があつまり、コンテナ二つ分が台湾に送られてきた↓

「その時『置き方が分からないので手伝ってください』と連絡がありました」とガイドさん。

今はもうなくなっているが従業員宿舎も隣接して存在し、四百人以上もが暮らしていたのだそうだ。
家族を連れて、生活の全部をここですごしていたのは日本人も台湾人もかわらない。
★北國新聞が主導して製作した「パッテンライ!! (八田來)」という映画がある
※予告編をこちらから見られます※音出ます

主題歌を台湾ルーツの一青窈が手掛けている。
中国語版、youtubeでも見られるようです。
※烏山頭ダムの概略をしっていれば理解できる内容です












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹田駅の「池上文庫」、お寺食堂でランチ

2020-02-16 13:46:30 | 台湾
《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回 二日目
竹田駅は2013年に現在の高架になっているが↓

↓日本時代の駅舎もそのままのこされている↓

かつての駅員さん宿舎には井戸と↓

↓そこからひきこまれた水をためる風呂↓

焚口がみあたらなかったのだけれど??
**
日本統治時代に近くの病院に勤務していた軍医が池上一郎氏。

彼が生まれた1911年、台湾はすでに日本になっていた。
竹田へやってきたのは1943。
戦禍が激しくなる時期ではあるが、日本の統治成果がしっかり定着していた。
二年ほどの滞在だったが、日本人と地元の人々に区別なく献身的に医療を提供して感謝された。
敗戦後、日本に戻ってからも台湾からの留学生を支援し続け、その縁で池田氏が「第二の故郷」竹田に蔵書群を寄付することになった。

オープンした2000年1月16日の誕生日には九十歳で存命だったが、数か月後に亡くなられている。

こういう場所が維持され続けるには地元の人々の力が欠かせない。
日本語が達者なわけではない年代の人々が管理をしてくださっている。
訪れる日本人が寄せ書きをする日本国旗↓

促されて我々も参加

志にと、寄付をしたメンバーに奥からTシャツを出してきてくださったちゃんと二片制の領収書をくださった。

***
今回、南部の案内をお願いしたガイドさんはまさにこの近くの出身で、子供の頃にお父さんとよく来ていた小さなレストランを紹介してくれた
それがここ↓え?お寺

なんと、現役のお寺をつかっている。
お昼時、近所の人がとぎれずにやってくる↓

少し待つとテーブルが空いた。大人数団体では入れません。

「お餅の皮でつくった団子はぜったい口にあいますよ」(^.^)と、ガイドさん↓

菊菜の風味がさっぱりしてよくあう(^.^)団子の中はこんな↓

この麺は昨夜食べた客家の板条麺の種類だ↓米で出来ている

↓こちらの麺は胡麻味のペーストがこってりしているので…

さっきの「餅団子のスープをかけるとちょうどよいですよ」とガイドさん。
ああ、ぴったり合います。さすが、子供のころから来ている人のアドバイス(^.^)

デザートにはさっき竹田駅近くで買ったこぶりな台湾バナナを


バナナがそんなに好きでない小松でもおいしかった。
現役のお寺なので、向かって左手の虎の口から出ましょう(^.^)


午後は烏山東ダムを経由して台南へ向かおう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする