《手造の旅》台湾五日~日本とのかかわりに注目して旅する 第二回二日目
アヘン戦争、アロー号事件。
イギリスは台湾島では1858年に当時「打狗(現地先住民が「ダーカウ」と呼んでいた発音に漢字をあてた表記)」に商館を開き、領事をおいた。
目の前が海のその場所に復元された商館↓
人形が扱っているのはウーロン茶の木箱ですな
目の前の島との間の狭い海を大きなタンカーが抜けてゆく
↑写真で右奥に見えているのは日本支配時代につくられた灯台
**
2020年2月16日朝八時半、きのう夕方到着した時と同じぐらい暖かい高雄。
日本統治時代にはいって1908年の年計画で埋め立てられたハマセン(まさに臨港線路があったことでそう呼ばれ続けているエリア)地区を少し歩く。駅前には銀行や商社、日本式の宿が並んでいた。
今も一部が残り、ここ二十年ほどでこれらを保存する運動がもりあがってきている。
↓日本時代に高雄という名前をカタカナで図案化した紋章↓
イギリス人は漢字が読めなかったから「打狗(犬を打つ」でも気にしなかったが、日本人は同じ漢字を使う民族としてあまり好きではなかった↓
それで1923年に、日本語で同じ音となる「高雄」に変名したのだ。
日本風の旅館の窓に戸袋が残っている↓
過去を再発見していくと、真ん中の人物だけを切り取った不思議な写真が見つかった↓
↑そこに誰が居たのか、なぜ切り取られたのか、いまだにわからないので、手がかりを求めてこんな風に街角にはりだされている。
ハマセン地区から、かつての臨港線鉄道にそって新しいトラムが走り出した↓
スペインが手がけたという最新式
港を右に見て南へ進むと新しい高雄が見えてくる↓その象徴がこの85階建てのビルだろう↓
漢字の「高」を形にしている↑
「展覧館前」で下車し、今度は一般鉄道に乗り換える↓現代的なデザインの駅
地下にあるトイレは入口にあるこんな表示でどこが空いているのかわかる
イージーカード(台湾のSUICAみたいなもの)で乗車
二十分少し乗る間に、川を越えて屏東市へ入った。
「九曲堂」という駅に到着↓ここはパイナップル畑と工場で栄えた場所
駅前にもパイナップル農民の姿
この駅の近くに、鉄道技師だった飯田豊二の記念碑がある。
台湾を縦断する北は基隆港から南は高雄(当時はまだ打狗)まで四百キロの鉄道が開通したのは1908年。
だが、その南の川を越えた屏東への鉄橋は1913年に完成した。
それを手がけた伊藤豊二という人物の記念碑。
完成の前に四十歳という若さで亡くなっている。
その鉄橋2008年の洪水で流され、川の途中で切れている↓
1992年には開通していた北側を通る現在の鉄橋より撮影↑
台湾島の鉄道敷設は清朝末期に北部ではじまってはいたが、ごく一部だった。
日本時代には全島で産業を育てるために鉄道網がはりめぐらされていく。
木材、サトウキビ、パイナップル…輸送手段がなければ安定的に発展させることはできないから。
**九曲堂駅近くには今もパイナップル工場だった建物が残る
★台湾のパイナップル産業に日本がどのようにかかわったかについてこちらに書きました
9時半のオープンと同時に入場
この時間ならば、人気のパイナップルケーキがあるはず・・・あった!
毎日ここで焼き上げてパッケージに入れている。ここでしか手に入らないという逸品。
世の中のパイナップルケーキの餡は冬瓜を入れ佐藤も加えてねっとり感を出している。
ここのはパイナップルの量が多くて実の繊維が感じられ、よりパイナップルらしい味わいだ。
下見の時には夕方でもう売り切れていたので、今日は買えてよかった(^.^)
パイナップル工場は最盛期に乱立し、原材料費が高騰したので政府が会社の統合を指示↓「合同パイン」という官制談合のような会社に統一されていった↓
当時のラベルがずらりと飾られている。
再び電車に乗って「竹田駅」に向かう
アヘン戦争、アロー号事件。
イギリスは台湾島では1858年に当時「打狗(現地先住民が「ダーカウ」と呼んでいた発音に漢字をあてた表記)」に商館を開き、領事をおいた。
目の前が海のその場所に復元された商館↓
人形が扱っているのはウーロン茶の木箱ですな
目の前の島との間の狭い海を大きなタンカーが抜けてゆく
↑写真で右奥に見えているのは日本支配時代につくられた灯台
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2020年2月16日朝八時半、きのう夕方到着した時と同じぐらい暖かい高雄。
日本統治時代にはいって1908年の年計画で埋め立てられたハマセン(まさに臨港線路があったことでそう呼ばれ続けているエリア)地区を少し歩く。駅前には銀行や商社、日本式の宿が並んでいた。
今も一部が残り、ここ二十年ほどでこれらを保存する運動がもりあがってきている。
↓日本時代に高雄という名前をカタカナで図案化した紋章↓
イギリス人は漢字が読めなかったから「打狗(犬を打つ」でも気にしなかったが、日本人は同じ漢字を使う民族としてあまり好きではなかった↓
それで1923年に、日本語で同じ音となる「高雄」に変名したのだ。
日本風の旅館の窓に戸袋が残っている↓
過去を再発見していくと、真ん中の人物だけを切り取った不思議な写真が見つかった↓
↑そこに誰が居たのか、なぜ切り取られたのか、いまだにわからないので、手がかりを求めてこんな風に街角にはりだされている。
ハマセン地区から、かつての臨港線鉄道にそって新しいトラムが走り出した↓
スペインが手がけたという最新式
港を右に見て南へ進むと新しい高雄が見えてくる↓その象徴がこの85階建てのビルだろう↓
漢字の「高」を形にしている↑
「展覧館前」で下車し、今度は一般鉄道に乗り換える↓現代的なデザインの駅
地下にあるトイレは入口にあるこんな表示でどこが空いているのかわかる
イージーカード(台湾のSUICAみたいなもの)で乗車
二十分少し乗る間に、川を越えて屏東市へ入った。
「九曲堂」という駅に到着↓ここはパイナップル畑と工場で栄えた場所
駅前にもパイナップル農民の姿
この駅の近くに、鉄道技師だった飯田豊二の記念碑がある。
台湾を縦断する北は基隆港から南は高雄(当時はまだ打狗)まで四百キロの鉄道が開通したのは1908年。
だが、その南の川を越えた屏東への鉄橋は1913年に完成した。
それを手がけた伊藤豊二という人物の記念碑。
完成の前に四十歳という若さで亡くなっている。
その鉄橋2008年の洪水で流され、川の途中で切れている↓
1992年には開通していた北側を通る現在の鉄橋より撮影↑
台湾島の鉄道敷設は清朝末期に北部ではじまってはいたが、ごく一部だった。
日本時代には全島で産業を育てるために鉄道網がはりめぐらされていく。
木材、サトウキビ、パイナップル…輸送手段がなければ安定的に発展させることはできないから。
**九曲堂駅近くには今もパイナップル工場だった建物が残る
★台湾のパイナップル産業に日本がどのようにかかわったかについてこちらに書きました
9時半のオープンと同時に入場
この時間ならば、人気のパイナップルケーキがあるはず・・・あった!
毎日ここで焼き上げてパッケージに入れている。ここでしか手に入らないという逸品。
世の中のパイナップルケーキの餡は冬瓜を入れ佐藤も加えてねっとり感を出している。
ここのはパイナップルの量が多くて実の繊維が感じられ、よりパイナップルらしい味わいだ。
下見の時には夕方でもう売り切れていたので、今日は買えてよかった(^.^)
パイナップル工場は最盛期に乱立し、原材料費が高騰したので政府が会社の統合を指示↓「合同パイン」という官制談合のような会社に統一されていった↓
当時のラベルがずらりと飾られている。
再び電車に乗って「竹田駅」に向かう