屋久島南端、朝焼けのモッチョム岳。1708年に密入国したシドッチ神父も同じ山を見上げていたかしらん。
巡回教会の屋久島カトリック教会=シドッチを記念した教会で、「密行~最後の伴天連シドッティ」の著者・古居智子さんにお話していただき、朴神父と島民の皆さんに迎えていただいた。
**
宿泊した岬に建つJRホテル屋久島から、朝の散歩に出た。
蜘蛛の巣が張った小道をくだっていくと、波の轟が真下に迫る崖に出られる。
釣り人しか来ないような場所だが、屋久島の南端を体感できる。
昭和四十年代の灯台がそのまま残っている。
三十分ほどの朝散歩
JRホテルにもどり朝食
***
09:30にホテルを出発。
十分ほどで教会に到着した。
「一週間ほど前までヒマワリが盛りだったんですよ」
迎えてくれた方々が残念そうに言ったが、天気は今日の方がずっと暖かく晴れている。
シドッチが見上げたにちがいない山々が青空にくっきりそそりたっている。
1988年にこの教会を建設したのはシドッチの足跡を求めてここに住んだコンタリーニ神父。
彼にはじめて会った日のことを、古居さんは「密行」の中「上陸」の章冒頭でこう描写している↓
↑耳岳は、そう思ってみる人には確かに聖母子のように見える。
キリスト教に身を捧げてきたシドッチ(=シドッティ)にはきっと、コンタリーニ神父が感じたように聖母子が見えただろう。シドッチ自身は何も書き残していなくても、何の根拠もなくても、時を超える感情はある。
巡回教会故いつもは閉まっているが内部はきれいに整頓されている。
三百年前にやってきたシドッチの生涯をわかりやすくお話してくださった。
赤穂浪士討ち入りの五年ほど後、盤石の鎖国・禁教の時代にあえて日本を目指してここに上陸、最後は江戸小石川の切支丹屋敷で獄死した。2014年、偶然に遺骨が発見された※AFPのページにリンクします。
屋久島のガイドブックを開いても、シドッチはおろかこの教会についてさえ言及していない。
それでも、屋久島を訪れるなら知っておいてほしいと思って予習していただき、今日の日をむかえた。
屋久島は山歩きだけが魅力の島ではない。
朴神父は種子島と合わせて三つの教会を担当しておられる。
「日本語はまだまだです」と言いながら、気持ちの入った日本語であいさつしてくださり、本場のキムパまで用意してくださっていた(^^)
がっつりリンゴ?パイ
食を介すると話もはずむ、
「パパイヤ~(^^)」と朴神父が奥から持ってきてくださった。
お手伝いしてくださっている地元の四人は、
お二人はキリスト教徒だが別のお二人は信者ではないそうだ。
古居智子さんも「私は信者ではありませんが、コンタリーニさんとお話がしたくで何度も訪ねてきました」と言った。
この場所が、今日訪れた我々を含めたたくさんの人を集める理由が分かった気がした。
人と人とは結局、宗教で結びつくわけではない。
信仰する神がちがっても、人を想う心は誰にとっても大切なもの。
三百年前にシドッチが携えていた情熱は
コンタリーニ神父をひきよせ
古居さんをよびよせ、
今日は我々もやってきた。
小松は三度目だが、これまで訊けなかった質問をした。
「コンタリーニさんはどこに葬られているのですか?」
ここで亡くなったときいていたが、お墓らしいものは見当たらない。
「じつは、ここに居られるのです」
我々の集う部屋のとなり、小さな道具室?の上の戸だなを開けると、
仏教用の?きらきらした織の骨壺?が鎮座していた。
「ほんとうは『上陸記念碑』に納めようとしていたのですが
埋葬の法律がどうしてもダメだというのでここにあるのです。
でも、いつも見守ってくださっている気がします(^^)」
故郷イタリアから遠く離れた異国の離島で死ぬことも
彼にとって「客死」などではなかっただろう。
お会いしたい人だったと、本気で手を合わせた。
※コンタリーニ神父に似せて描かれた侍姿のシドッチの絵を、2017年に訪れた時のブログに載せております
出発する前に全員で写真を撮った↓
↑コンタリーニ神父の遺骨を入れるはずだった「上陸記念碑」の前で↑
古居さんはここに「シドッチ記念館」を建設したいと本気で動き出しておられる。
小松も微力ながらできるだけのお手伝いをしたいと思っている。
それは「信仰」というのではなく、三百年前に人生をかけてここに上陸したシドッチとコンタリーニ神父の情熱と、今日迎えてくださった方々への共感である。
巡回教会の屋久島カトリック教会=シドッチを記念した教会で、「密行~最後の伴天連シドッティ」の著者・古居智子さんにお話していただき、朴神父と島民の皆さんに迎えていただいた。
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宿泊した岬に建つJRホテル屋久島から、朝の散歩に出た。
蜘蛛の巣が張った小道をくだっていくと、波の轟が真下に迫る崖に出られる。
釣り人しか来ないような場所だが、屋久島の南端を体感できる。
昭和四十年代の灯台がそのまま残っている。
三十分ほどの朝散歩
JRホテルにもどり朝食
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09:30にホテルを出発。
十分ほどで教会に到着した。
「一週間ほど前までヒマワリが盛りだったんですよ」
迎えてくれた方々が残念そうに言ったが、天気は今日の方がずっと暖かく晴れている。
シドッチが見上げたにちがいない山々が青空にくっきりそそりたっている。
1988年にこの教会を建設したのはシドッチの足跡を求めてここに住んだコンタリーニ神父。
彼にはじめて会った日のことを、古居さんは「密行」の中「上陸」の章冒頭でこう描写している↓
↑耳岳は、そう思ってみる人には確かに聖母子のように見える。
キリスト教に身を捧げてきたシドッチ(=シドッティ)にはきっと、コンタリーニ神父が感じたように聖母子が見えただろう。シドッチ自身は何も書き残していなくても、何の根拠もなくても、時を超える感情はある。
巡回教会故いつもは閉まっているが内部はきれいに整頓されている。
三百年前にやってきたシドッチの生涯をわかりやすくお話してくださった。
赤穂浪士討ち入りの五年ほど後、盤石の鎖国・禁教の時代にあえて日本を目指してここに上陸、最後は江戸小石川の切支丹屋敷で獄死した。2014年、偶然に遺骨が発見された※AFPのページにリンクします。
屋久島のガイドブックを開いても、シドッチはおろかこの教会についてさえ言及していない。
それでも、屋久島を訪れるなら知っておいてほしいと思って予習していただき、今日の日をむかえた。
屋久島は山歩きだけが魅力の島ではない。
朴神父は種子島と合わせて三つの教会を担当しておられる。
「日本語はまだまだです」と言いながら、気持ちの入った日本語であいさつしてくださり、本場のキムパまで用意してくださっていた(^^)
がっつりリンゴ?パイ
食を介すると話もはずむ、
「パパイヤ~(^^)」と朴神父が奥から持ってきてくださった。
お手伝いしてくださっている地元の四人は、
お二人はキリスト教徒だが別のお二人は信者ではないそうだ。
古居智子さんも「私は信者ではありませんが、コンタリーニさんとお話がしたくで何度も訪ねてきました」と言った。
この場所が、今日訪れた我々を含めたたくさんの人を集める理由が分かった気がした。
人と人とは結局、宗教で結びつくわけではない。
信仰する神がちがっても、人を想う心は誰にとっても大切なもの。
三百年前にシドッチが携えていた情熱は
コンタリーニ神父をひきよせ
古居さんをよびよせ、
今日は我々もやってきた。
小松は三度目だが、これまで訊けなかった質問をした。
「コンタリーニさんはどこに葬られているのですか?」
ここで亡くなったときいていたが、お墓らしいものは見当たらない。
「じつは、ここに居られるのです」
我々の集う部屋のとなり、小さな道具室?の上の戸だなを開けると、
仏教用の?きらきらした織の骨壺?が鎮座していた。
「ほんとうは『上陸記念碑』に納めようとしていたのですが
埋葬の法律がどうしてもダメだというのでここにあるのです。
でも、いつも見守ってくださっている気がします(^^)」
故郷イタリアから遠く離れた異国の離島で死ぬことも
彼にとって「客死」などではなかっただろう。
お会いしたい人だったと、本気で手を合わせた。
※コンタリーニ神父に似せて描かれた侍姿のシドッチの絵を、2017年に訪れた時のブログに載せております
出発する前に全員で写真を撮った↓
↑コンタリーニ神父の遺骨を入れるはずだった「上陸記念碑」の前で↑
古居さんはここに「シドッチ記念館」を建設したいと本気で動き出しておられる。
小松も微力ながらできるだけのお手伝いをしたいと思っている。
それは「信仰」というのではなく、三百年前に人生をかけてここに上陸したシドッチとコンタリーニ神父の情熱と、今日迎えてくださった方々への共感である。