旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》屋久島~シドッチ記念教会

2021-12-11 10:20:10 | 国内
屋久島南端、朝焼けのモッチョム岳。1708年に密入国したシドッチ神父も同じ山を見上げていたかしらん。

巡回教会の屋久島カトリック教会=シドッチを記念した教会で、「密行~最後の伴天連シドッティ」の著者・古居智子さんにお話していただき、朴神父と島民の皆さんに迎えていただいた。
**
宿泊した岬に建つJRホテル屋久島から、朝の散歩に出た。

蜘蛛の巣が張った小道をくだっていくと、波の轟が真下に迫る崖に出られる。
釣り人しか来ないような場所だが、屋久島の南端を体感できる。

昭和四十年代の灯台がそのまま残っている。

三十分ほどの朝散歩


JRホテルにもどり朝食
***
09:30にホテルを出発。

十分ほどで教会に到着した。

「一週間ほど前までヒマワリが盛りだったんですよ」
迎えてくれた方々が残念そうに言ったが、天気は今日の方がずっと暖かく晴れている。
シドッチが見上げたにちがいない山々が青空にくっきりそそりたっている。

1988年にこの教会を建設したのはシドッチの足跡を求めてここに住んだコンタリーニ神父。
彼にはじめて会った日のことを、古居さんは「密行」の中「上陸」の章冒頭でこう描写している↓

↑耳岳は、そう思ってみる人には確かに聖母子のように見える。

キリスト教に身を捧げてきたシドッチ(=シドッティ)にはきっと、コンタリーニ神父が感じたように聖母子が見えただろう。シドッチ自身は何も書き残していなくても、何の根拠もなくても、時を超える感情はある。

巡回教会故いつもは閉まっているが内部はきれいに整頓されている。

三百年前にやってきたシドッチの生涯をわかりやすくお話してくださった。
赤穂浪士討ち入りの五年ほど後、盤石の鎖国・禁教の時代にあえて日本を目指してここに上陸、最後は江戸小石川の切支丹屋敷で獄死した。2014年、偶然に遺骨が発見された※AFPのページにリンクします。
屋久島のガイドブックを開いても、シドッチはおろかこの教会についてさえ言及していない。

それでも、屋久島を訪れるなら知っておいてほしいと思って予習していただき、今日の日をむかえた。

屋久島は山歩きだけが魅力の島ではない。
朴神父は種子島と合わせて三つの教会を担当しておられる。
「日本語はまだまだです」と言いながら、気持ちの入った日本語であいさつしてくださり、本場のキムパまで用意してくださっていた(^^)
がっつりリンゴ?パイ
食を介すると話もはずむ、
「パパイヤ~(^^)」と朴神父が奥から持ってきてくださった。

お手伝いしてくださっている地元の四人は、
お二人はキリスト教徒だが別のお二人は信者ではないそうだ。
古居智子さんも「私は信者ではありませんが、コンタリーニさんとお話がしたくで何度も訪ねてきました」と言った。
この場所が、今日訪れた我々を含めたたくさんの人を集める理由が分かった気がした。

人と人とは結局、宗教で結びつくわけではない。
信仰する神がちがっても、人を想う心は誰にとっても大切なもの。
三百年前にシドッチが携えていた情熱は
コンタリーニ神父をひきよせ
古居さんをよびよせ、
今日は我々もやってきた。

小松は三度目だが、これまで訊けなかった質問をした。
「コンタリーニさんはどこに葬られているのですか?」
ここで亡くなったときいていたが、お墓らしいものは見当たらない。

「じつは、ここに居られるのです」
我々の集う部屋のとなり、小さな道具室?の上の戸だなを開けると、
仏教用の?きらきらした織の骨壺?が鎮座していた。

「ほんとうは『上陸記念碑』に納めようとしていたのですが
埋葬の法律がどうしてもダメだというのでここにあるのです。
でも、いつも見守ってくださっている気がします(^^)」

故郷イタリアから遠く離れた異国の離島で死ぬことも
彼にとって「客死」などではなかっただろう。
お会いしたい人だったと、本気で手を合わせた。
※コンタリーニ神父に似せて描かれた侍姿のシドッチの絵を、2017年に訪れた時のブログに載せております

出発する前に全員で写真を撮った↓

↑コンタリーニ神父の遺骨を入れるはずだった「上陸記念碑」の前で↑

古居さんはここに「シドッチ記念館」を建設したいと本気で動き出しておられる。
小松も微力ながらできるだけのお手伝いをしたいと思っている。
それは「信仰」というのではなく、三百年前に人生をかけてここに上陸したシドッチとコンタリーニ神父の情熱と、今日迎えてくださった方々への共感である。

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《手造の旅》屋久島~永田浜から硫黄島を遠望し西部林道、中間ガジュマル⇒JRホテル

2021-12-10 15:15:28 | 国内
(薩摩)硫黄島がこんな近くに見えるなんて。平家物語で俊寛が流された島とされる。

屋久島最北端一湊集落を出て島の周回道路唯一のトンネルを抜けると

ウミガメが日本一あがってくる吉田集落のいなか浜

これまで何度か訪れていたが「雨の島」屋久島から、(薩摩)硫黄島がこんなに近く見えたのははじめて

永田集落の川。雨量日本一の島なので百四十本もの川がある。
***
屋久島灯台は西部林道に入るあたりでちらりと見える↓

明治三十年(1897)から百二十年以上現役。
※屋久島経済新聞の解説ページにリンクします
日清戦争で獲得した台湾島への航路を整備するために建てられた灯台のひとつ。

ガードレールの向こうにひょっこり鹿ちゃん

ヤクシカは小ぶりでも成獣

ヤクザルもたくさん。

本州のサルよりも毛が長くて蓑を着ているよう。雨が多い島だからこんなふうになっていったのですね。

林の中にもいっぱい(^^)

西部林道は世界遺産に指定されたエリア内を貫通している。
あれほど自然保護・現状維持にうるさい世界遺産内に自動車用道路がつくれたのか?

島を一周する道路は昭和四十年代前半(1960年代後半)に建設された。
この当時は屋久杉伐採の全盛期。
ユネスコ世界遺産なんて影もカタチもなかったのである。

昭和三十九年1964に一部が国立公園に指定されていた。
が、まだまだ日本社会は経済優先・林業優先の時代だった。

今は、違う。
つまり、これ以上の道路開発ができないので道が拡げられない。
大型バスは通れない。
今日はレンタカーでなくプロのドライバーさんで安心(^^)

↑口永良部島がちらりと見える↑あそこは全島が国立公園。
今回日程を具体化する時に「口永良部島一泊」も考えたのだが、十二月には船が欠航することが多いと、屋久島の方何人にも止められた。いつか行ける日がくるかしらん。
****

大川の滝(おおこのたき)は日本の滝百選にも選ばれている

バスを止めて坂を下りてゆくと

八十八メートルの断崖を流れ落ちてくる滝。今日は青空と雲と黄葉の山も。

いちばん雨が少ない十二月だから見られた青空だけれど、「いつもは二本の水流なんです」と翌日まつばんだ交通のバスガイド早崎さんが見せてくれた写真↓

さらに、六月あたりのいちばんすごい時には↓

命の危険を感じるレベルですね、これは↑
*****

屋久島七福神めぐりの一か所がある中間集落



ガジュマルへの道を歩いていると↓南国らしい↓

パパイヤの木があると教えていただいた。

「指でたたくと白い液がでますよ」と長井さん
※「目がテン!」のホームページでパパイヤ解説にとびます

こんな高級果物まで無人販売(^^)
ポンカンの美味しい季節(^^)






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JRホテル屋久島へチェックイン

八角形?で真ん中が吹き抜けになっている

部屋はゆったりしていて、

海側でなくてもモッチョム岳の雄姿が拝めるのです(^^)

四年ぶりの「尾の間懐石」

進化しておりました(^^)

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《手造の旅》屋久島~一湊里めぐり

2021-12-10 12:28:39 | 国内
屋久島最北端の一湊(いっそう)集落の方々が手作りのお昼ごはんと踊りで歓迎してくださった↓公民館の幕は世界で一つしかない逸品↓

一湊はトビウオ漁と鯖漁で栄えた集落、かつて活躍した漁船の大漁旗をパッチワークした寺田さん↑すばらしいアイデアです(^^) 鯖漁の音頭を、急遽みなさんで踊ってくださった↓
※動画をこちらに載せました

心づくしのお昼ごはんが心に染みます↑左下の紙の下に「青ホタ=アオダイ」のお刺身があった!どけてから写真を撮ればよかった…

↑左上の「永田集落でつくっている豆腐」をつけるのは鯖を煎じたつけ汁、写真で見ると醤油と同じになってしまうけれど、鯖の香りが醤油とはちがう←これは七月下見の時に寺田さん宅で出していただいた「鯖煎じ汁」。商品で売り出してもいるけれど、ひと手間くわえた手作りをするところが地元のこだわり(^^)
七月下見で畑に案内していただき・食べたパッションフルーツは「これ、旅の本番でも食べたいですね」とリクエストしたけれど、さすがに十二月はシーズンではないので(お盆の右中に黄色く見える)ゼリーとして登場(^^)十二月に収穫されはじめるポンカンも入っております。
鯖が自慢なのは認識していたが、今回あおさの味噌汁にシイタケとソーメンというのが新鮮だった。
**
この日の朝↓


鹿児島空港発08:45の屋久島行きは「条件付きフライト」だった

雲が切れて、屋久島最北端一湊集落にある小山二つが印象的な矢筈半島が見えた↑
※今年七月に半島を歩いたブログにリンクします

高度が低くなり↑海老の養殖場のいけすがはっきり見える。

無事に到着!よかった~(^^)

ターンしないテーブル越しに預けた荷物を受け取る。
***

まずは、観光文化センターで島の概要を知る↑

↑屋久島関連のゆるキャラってこんなにあるんだ↑
****
二十分ほどで冒頭の大漁旗パッチワークの幕がある一湊の公民館到着。

「本業は魚屋です」と左の中島さんと、右・斉藤さん

手作りマップ↑

一湊集落のメインストリートになっている道「ガジュマル通り」は、かつて小川がながれていた↑
なるほど↑その当時の雰囲気が感じられる
アメリカ軍の空襲で火事になった時にはこの小川が類焼を止めた。
埋めたてられたのは昭和四十三年(1968) 

↑通りの小さな町恵比寿はその後にここに移転し、中を覗くと昭和五十三年から屋久杉の恵比寿様が↓

↑鎮座している。そのすぐ右手にある小さな石塔は↓

埋め立ての時に見つかった「水神様」↑

この場所は村祭りの中心↑竹のアーチは何?

↑十五夜綱引きの綱をこのアーチも使って村人総出でつくるのだそうだ。
※屋久島では9月15日の夜にそれぞれの集落で大綱引きが行われる

↑上の写真でマイクに向かって歌っているのは、本日ガイドをしてくれている中島さんだった。歌が上手いのをあとから知りました(^^)
*****
「なっちゃん食堂」の前を通りかかると…

にぎやかすぎたのか、なっちゃん?登場

島のガイドをお願いした長井三郎さんと久闊をあたためていただけてよかった(^^)


こういうお店にはえてしておいしいお宝が売られて…

おりました! もちもちで「ういろう」みたいだけれどもっと粘りが強い。
紫イモのお菓子は小松が2016年12月にはじめて訪れた時に好きになった※その時のブログに写真を載せています
他の色のは、小豆、米、よもぎ(秀逸でした)

↑下右に写っている「たんかんボーロ」、もっと買ってくればよかった~
※平海製菓(ひらみせいか)は御年八十三歳の寺田平海さんと同い年のユミさんが手作りしている製品を売っている※「やくしまじかん」のページにリンクします。冒頭のニュース映像で平海さんが「よもぎかん」や「たんかんボーロ」をつくるところがでてきます
*****

一湊川が村を東西に分けている。

屋久島の村は必ず川の左岸(海に向かって左手)にひらけ、広がるにつれて対岸にも広がっていくのだと長井さんが教えてくださった。

↑川の向こう側(右岸)に見える民宿↑今の建物は昭和四年からだそうだが、江戸末期にも宿屋で西郷さんが来島(島流しの途中だけれど)した折に宿泊した場所。

木造建築が多い中で古い石づくりの建物がめについた↑
これは鯖節を殺菌するための倉庫だったそうな。
工場自体は火災が多かったので、昭和になって川向う(右岸)にまとめて移転させたそうだが、この建物だけは立派だったので?残った。
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さいごに七月の下見で興味深かった樟脳工房⇒「樟脳」はクスノキからつくられる

※七月のヒマワリ咲く一湊下見のブログをごらんください
プラスチックのなかった19世紀後半から普及する二十世紀前半にかけて、セルロイドは重要な工業製品。
写真フィルムも、アニメの「セル画」も、セルロイドが使われていた。

↑こんなやつです、といってもプラスチックとぱっと見わけはつきませんが

クスノキチップを高温蒸気蒸留して、取り出した液体のアルコールと水の間に浮いているのが樟脳。
※上のリンクの中に写真を載せています。

↑クスノキチップはこんな角材を機械で粉砕してつくる↑

↑これはそのクスノキチップを蒸留したカス↑
養豚場の下に敷くのにつかうのだそうな。

↑樟脳の結晶ではなく、アルコールは↑こんなアロマに使える、でもけっこう強い匂い
↑アルコールでなく、水の部分でもじゅうぶん。あ、オードトアレってこういうふうにできるのか。

↑これは木目がきれいなので俎板にして売っていた↑

工房の外には買い付けたクスノキの巨木片がごろごろ転がっていた。
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鹿児島に前泊

2021-12-09 05:30:10 | 国内
《手造の旅》屋久島のために鹿児島前泊するため、とするにはもったいないような青空。

空港からまずは鹿児島中央駅前に到着。

幕末に薩摩藩が密留学させた若者たちの群像。

案内板を読んでいると、街歩きガイドさんが十三歳で渡英団に選ばれた長澤鼎(この偽名で生きることになる)のことを教えてくれた。
※JTBのコラムにリンクします
**
駅前はクリスマス市の準備がすすんでいた。

乗り降り自由の「シティビューバス」で城山へ行く途中、大正から昭和にかけて建てられた公民館が見えた。
東京の日比谷公会堂より二年早い。同時代の雰囲気が感じられる。

城山の展望台からは、まさに絵に描いたような桜島が近い。

ふたたびバスにのって三分ほどで「西郷洞窟」へ。

西南戦争最後の五日間、絶体絶命の西郷隆盛がここに籠城した。

1985‐6年、小松がみっちり国内添乗をやっていた時期、何度もここを訪れた。
バスガイドさんが西郷さんの最期を情感豊かに語ってくれたのを、三十数年経た今も忘れない。
洞窟を出た西郷は被弾し歩けなくなった。なおも逃がそうとする別府晋介にむけて「晋どん、晋どん、もうここらへんでよか」と言い、介錯をうけて果てた。

最期まで従ったのは三百人ほどと伝わる。
彼らが寝た洞窟も近くにあるだろうとおもったら、すぐ上のお土産屋さんの横に手掘りの跡も生々しい穴があった。ここを管理しているのは横のお土産屋さんのようだが、無料で見学できる。巨大な西郷さんもお土産屋さんがつくったもの。郷土愛が感じられる。

桜島のこぶりなみかんも食べてみた。
***

錦江湾沿いの仙厳園を訪れる。

薩摩藩が鉄を精製していた反射炉の跡↑
このエリアは藩主の別邸・迎賓館の役割と共に工業実験場でもあった。

御殿を見学すると、当時のロシア皇帝に贈った巨大な薩摩焼↑

↑ニコライ二世の紋章が入っている↑これは複製品で贈ったモノはエルミタージュ美術館にあるとのこと。
現地で展示されていたのか、覚えていないなぁ…

↑この部屋がつくられたのは電気がすでに通ってから。

↑天井の模様は最後の島津家主二十九代当主忠義が背が高かったので、天井をより高く見せる工夫だった、と、御殿のガイドさん。当時の薩摩人は他のエリアの日本人より背が高かったそうな。沖縄の影響で肉を食べる習慣があったのが理由とのこと。そうなんでしょうか。

↑二十九代忠義の写真がテーブルの上にある

ロイヤルコペンハーゲンの食器と薩摩切子のグラス、記録によるとほんとうにそんな食器をつかっていたのだそうだ。

****
空港すぐ近くのホテルで夕食。

黒牛のすき焼きにステーキとしました。




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犬島~精錬所美術館、家プロジェクト

2021-12-08 10:56:15 | 国内
百年前の日本重工業繁栄の残滓が見えてきた

今は「犬島精錬所美術館」として再生されているが、百年前どんな場所だったのかを知らずには理解できない。

1909年から、第一次世界大戦後の1919年までの十年間、倉敷にあった帯江(おびえ)鉱山からの鉱石を運びこんでここで精錬していた。
足尾銅山での公害事件が知れ渡っていた時代、離島に移転して批判をかわそうとしたのだろう。
直島も、豊島も、かつてはそういった場所だったことを忘れてはならない。

建物は鉱石を製錬した時にでる滓(かす)=鉱滓を固めてレンガにした「カラミ煉瓦」でつくられている↑

これはしかし、美術館として整備していくことで安全に保存することができたのだ↑

美術館↑建物への入口(ここから先・内部は撮影禁止)三分一博志(さんぶいちひろし)氏の設計した建物↑

自然の力を利用した換気と水質浄化が行われるエコシステムは説明してもらってはじめて理解できた。
※こちらベネッセのページに解説されています
※建物内部の柳幸典作品の一部も見ることができます

内部の柳幸典作品は三島由紀夫の「鉄と太陽」をモチーフにしている。

大学時代に三島作品を愛読していた小松は妙な既視感に捕えられた。
「作品」には、なんと三島由紀夫がかつて暮した「平岡(三島の本名)邸」がばらばらのパーツになって使われていた。
解体されるタイミングで福武総一郎が買い取って保存していたのだそうだ。
別の作品では、割腹直前に自衛隊員に向かって行った「檄」の言葉が使われていた。
是非でなく、考えさせる場を出現させている。
**

↑港の近く、ちょっとした高台の上に小さな祠が見えた↑これは?

↑逆側は神社の入口だった↑石工が祈っていた場所なのだそうだ。
周囲四キロもない犬島は現在人口四十人ほど。
だが、石材の島としての歴史は江戸時代以前から。
大阪城の築城、現代には大阪港のために、大量の石が切り出され、最盛期の人口は五六千人にもなっていた。
※こちらのページに年表があります

↑山はどんどん削られ、地下まで掘り下げられ、今は池になっている↑解説されてはじめて理解できる場所↑
**
島に到着してすぐのランチは

↑港ですぐに見えてくる、チケットセンターにもなっている建物で

蛸飯をいただきました(^^)
***
犬島の家プロジェクト「F邸」名和晃平「Biota (Fauna/Flora)」


※こちらベネッセのページの解説にリンクします

遺跡をみているような敷石が描く絵が印象的

石職人の家跡~「太古の声を聴くように、昨日の声を聴く」(淺井裕介)
すぐとなりにはフツーに村の人が住んでいる。


「あの煙突の家のおばあちゃんがよくお話してくれるんですよ」とガイドさん、

あ、煙突といっしょに描かれている(^^)

一般的な美術館の作品とはちがう。
ここに立ち、場所が秘めている物語に思いを致す自分たちが参加して成立する「作品」。

そういう意味では↑こういう掲示板も「作品」ではないかしらん。


ベアトリス・ミリャーゼス 「Yellow Flower Dream」↑
この作品のすぐ横に↓

↑昔からこの石の台があるのだが、これが何に使われていたのかは分からないそうだ。


↑荒神明香 「コンタクトレンズ」


↑「これは『建物』ではありません」とガイドさん。
建築基準法が認めないので、止むなく屋根に穴を開けて「建物」ではないことにしたのだそうな。
人が近づいて安全な構造物でなくてはならないから、古民家やそこそこ大きな「作品」には建築基準の申請も必要だったりする。
※これらの作品の紹介には、アーティストだけでなく建築家も紹介されている


オラファー・エリアソン 「Self-loop」


港から

直島へもどる。

宇野行きのフェリーに乗るころ陽が暮れた。

今日は岡山から大阪・高槻の母宅に泊まる。

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