熊本熊的日常

日常生活についての雑記

吉兆の思い出

2008年05月03日 | Weblog
私は吉兆という料亭には縁が無い。ただ、以前の勤務先の社長が、ことあるごとに吉兆で食事をしてきたことを自慢げに話をしていたので、吉兆というのはそこで食事をすることが自慢になるような店なのだということは認識していた。

吉兆グループのひとつ、船場吉兆が食品偽装表示問題を機に経営難に陥り、民事再生手続き中であるようだが、その船場吉兆で客の食い残しを使い回していたという問題が新たに発覚した。尤も、食い残しの使い回しは違法行為ではないそうなので、おそらくどこの店でも似たようなことはしているのかもしれない。

この事件の報道で気になるのは「高級料亭」という言葉である。「高級」というのは日常会話のなかでしばしば使われる形容詞だが、その意味するところは何であろうか。

飼い犬は、自分が飼われている家族のなかで自分の位置を推し量るのだそうだ。必ずしも自分に餌を与えてくれる人や、かわいがってくれる人に懐くというわけではないらしい。相手が人間であるとか、一緒に飼われている別の犬とか猫あるとか、種の違いを超えて、その家のなかで誰が物事の決定権者なのかというのを見極めて、家族に序列をつけ、そのなかで自分がどこに位置するのかを決めるという。たいしたものである。

おそらく、人間も犬と同様に社会を形成する生き物なので、対人関係において自分の序列というものを意識するものなのだろう。序列というのは、結局のところ「力」の強弱が基準になるのだろう。その「力」の判断基準として、自分を取り巻く人やモノに付されている記号が大きな役割を果たすことになる。トランプの遊びで、4とか5のような札よりも絵札やエースのほうに高い点数を与えるようなものである。本来なら、何が4で何が絵札なのか、自分で考えるべきだと思うのだが、現実は既に世間で通用している評価とか値段の多寡で無造作に上中下とか松竹梅と決めてしまうことが多いように思う。だからブランドというものが存在し得るのだろう。ひとりひとりがいちいちその価値を吟味していたら、他人に自慢したくなるようなブランドというものが存在するわけがない。ある価値を賞賛する声があり、その声の主を見て取り敢えず反応する有象無象があり、そうして出来上がった評判に盲従する無知蒙昧があってブランドというものが出来上がるのである。人は漠然とその存在を感じながら実体をつかみかねる対象に憧れを抱くのである。

残念ながら私は犬と会話をしたことがないので、彼等が何を基準に自分の序列を判断しているのかわからないが、単に餌を与えてくれるというだけで、その人を自分の上位には位置づけないというところを見ると、自分で観察して判断を下しているようだ。ろくに考えることもしないで、世間の評価に振り回されるような人間に比べたら、犬のほうが知性があると言えるのではないか。