短歌という様々な約束事のある形式のなかで、言葉が紡ぎ出す世界は無限に広いと言えるが、その約束事や言葉そのものを理解できないと、ただの文字列でしかない。歌の作者と読者の間に約束事や言葉の意味が共有されていないと、歌は意味を成さない。
歌に限ったことではない。言葉の意味というのは、それを発する人によって微妙に違いがある。同じ言語で会話をしていても、会話をしているという実感が湧かない相手がいる。経験から言えば、そういう人とは関係を構築することはできない。リテラシーという言葉があるが、これがある程度共有できてないないと、同じ言葉を話していても通じ合うことはない。仕事や地縁血縁でどうしてもそういう人を相手にしなければならないときは、細心の注意を払って対応するしかない。
同じ話を何度も繰り返す人がいる。平均的には高齢者に多いように感じられるが若くてもそういう人はいる。たまたま最近まで身近にそのような人がいたので、その人の話を聞きながら、何故そのようなことになるのだろうと考えた。おそらく、人は自分の興味関心の広さに合わせて言語能力を発達させるのだろう。あるいは言語能力に応じて興味関心の広さが決まるのかもしれない。このような人を相手にするときも細心の注意が必要だ。ストライクゾーンが極端に小さいピッチングゲームを想像すればよい。一番楽なのはゲームをしないこと。どうしてもゲームをしなければならず、しかも自分のコントロールに自信が無ければ、余計な期待をせずにさっさとゲームを終えるのがよい。
このブログにしても、当然、特定の読者を想定して書いている部分もある。純粋に書くことだけを楽しみにしているのなら、自分の日記帳にでも書けばよいのだから。ただ、ネット上に公開するものなので、それなりの配慮はしているつもりである。その自分が想定している読者に何が伝わり何が伝わらないのか、残念ながらわからないのだが、継続は力也とも言うのでこうして書いている。