熊本熊的日常

日常生活についての雑記

幸福な生活

2008年05月14日 | Weblog
人は、己をつづまやかにし、奢りを退けて、財を持たず、世を貪らんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり。

これは「徒然草」第18段の書き出しである。自分の貧乏を正当化するつもりはないが、今日、通勤途上に地下鉄の中で読んでいて、たまたまこの部分が自分の琴線に触れた。

兼好はこのようなことを書いているが、自身は遁世者ではあってもそれなりに財には恵まれていたはずである。だからこそ、このような随筆を遺すことができたのである。今は元手なしに何事かをするのを「紙と鉛筆さえあれば」などと言うが、兼好の時代は紙は貴重品であったはずだ。それ以上に、そこに書かれている内容や表現は、兼好の教養の深さを窺わせるものである。教養を身に付けるには金がかかるものである。

しかし、人の心の平和というものは、足るを知るということに尽きるのではないかと思う。平和は安定と言い換えてもよいかもしれない。あるいは、心の平和とか安定を「幸福」と表現することもできるのではないか。自分自身の生活にとって何が本当に必要なのかということを吟味すれは、少なくとも物理的なモノは多くを必要としない。モノが少なければ移動が容易になるので、住む場所への執着がなくなる。住む場所への執着が無ければ、生活に要する費用の自由度が上がる。生活費の束縛が緩めば、金のために嫌な仕事を引き受けなければならないというようなこともしなくて済む。尤も、現実はなかなかそのように上手くはいかない。

環境変化の淘汰を経て自然界に存在するものは、動物であれ、植物であれ、過不足が無い状態なのだという話を聞いたことがある。これをミニマリズムと呼ぶこともあるらしい。また、動植物の器官には角がないという。これは成長によってのみ形成されていることを示しているのだそうだ。必要があれば欠如している機能や器官を発達させ、過剰であれば退化させる、ということだろう。そうしてできあがった自然を見て、美しいと感じ、なんとはなしにほっとした感情が湧き上がるのは私だけではないと思う。「美しい」とか「いみじ」とか「賢い」とか表現は様々だが、幸福な生活を送りたいものである。