昨日、日本のアマゾンから本が届いた。そのなかに上野千鶴子の「おひとりさまの老後」というのがある。そこにある夫婦というものについての記述が面白い。どのように面白いのか、とうことについては別の機会に書くかもしれないが、これから書くのは本の内容のことではない。
この本の第1章のなかにあった記述である。
「…あんなに憎しみあっていたのに、と思われるカップルでさえ、夫を亡くして悲嘆にくれている妻がいるのが夫婦の不思議というもの。」
夫婦仲が悪いのに別れないという夫婦は珍しくないだろう。何が別離を阻むのかといえば、表向きにはひとりで生活する自信がないとか、相手が離婚を認めないといったことだろうが、本当の理由は思考の習慣ではないだろうか。夫婦という単位を自分自身と一体化させて考えるという習慣である。
以前、渋谷郵便局で面白い場面に遭遇した。ある中年婦人が局員に強烈な剣幕で怒りをぶつけている。どうやら身分証明書を持っていないがために預金の引き出しを断られたようである。自分の金なのに何故出せないのか、という疑問は尤もなことだし、所定の手続きができなければ無闇に現金を渡すことはできない、というのも尤もなことである。問題は、あなたは本当にあなたなのか、という証明だ。そこでその婦人の台詞が面白い。「アタシの亭主は会社のエライヒトなんだからね!亭主に言いつけたらアンタタチなんかクビだよ。クビ!」本人は凄い剣幕だが、傍目にはただの喜劇だ。
この婦人にとってご亭主は自分の存在証明の一部なのである。「会社のエライヒト」の妻、それが「アタシ」なのである。この婦人は、身分証明を求められたことで、日頃から無意識のうちに危機感を覚えていた自我の脆弱性に気づいてしまい、その崩壊を必至に食い止めるべく、自己防衛本能に基づいて癇癪を起こしたのかもしれない。弱い犬ほどよく吠える、という。
身近な人々を観察すれば、いかに自分の外見を気にする人が多いことか。身に付けるもののブランド、近親者や知己の社会的地位、子供が通う学校、休みの旅行先や宿泊先。有名料亭で会食するのが自慢の種という人の話も以前に書いた。多くの場合、他人にとってはどうでもよいことばかりなのだが、どれも本人にとっては重要な記号だ。
記号としての配偶者ということなら、夫婦仲など良くても悪くてもどうでもよい。夫婦である、という事実だけが重要だ。そのような人々にとって、夫婦とは、つまり、自分自身なのである。離婚などできるはずがない。
単なる記号としての配偶者ということではなく、自分の人生を豊かにする関係として夫婦を捉えるなら、より一層、お互いに相手に対する配慮が求められるだろう。結婚は相手さえいれば誰でもできるが、そこに豊かな関係を構築するとなると、誰にでもできることではない。
釣った魚に餌はやらない、という言葉があるが、夫婦という関係になったとたん、相手に対する配慮を怠る傾向があるような気がする。一緒に暮らす相手は、人格と人権を生まれながらに備えている存在である、という至極当然のことを公然と無視できるのが夫婦である、という大いなる誤解があるような気がするのである。夫婦という人間関係は、決して特別なものではなく、友人関係とか仕事上の人間関係と同じように、人と人との関係の在りようの一形態にすぎない。つまり、当然、そこには相手の人格や人権に対する敬意が払われなければならないと思うのである。もっと平易な言い方をすれば、自分が不愉快であると感じるような行為を相手に対しておこなってはいけない、という、子供に対する躾のような基本的な考え方が、どのような人間関係においても貫徹されるべき、ということだ。
言うは易く行うは難し。簡単なようで、なかなかできることではない。人の行動原理が自己保存であり、誰にでもエゴがある以上、相手を思い遣る気持ちを持ち続けるというのは思いの外難しいものだ。相手を思っているつもりが、単なる自己陶酔に浸っているだけだったり、親切心というコテコテのエゴの押し売りになっていたりというのはよくあることである。思い遣る相手がいない人には理解できないだろうが、人と人とは親しくなればなるほど距離の調整が難しくなるのである。その究極が夫婦だ、と、私は思う。
この本の第1章のなかにあった記述である。
「…あんなに憎しみあっていたのに、と思われるカップルでさえ、夫を亡くして悲嘆にくれている妻がいるのが夫婦の不思議というもの。」
夫婦仲が悪いのに別れないという夫婦は珍しくないだろう。何が別離を阻むのかといえば、表向きにはひとりで生活する自信がないとか、相手が離婚を認めないといったことだろうが、本当の理由は思考の習慣ではないだろうか。夫婦という単位を自分自身と一体化させて考えるという習慣である。
以前、渋谷郵便局で面白い場面に遭遇した。ある中年婦人が局員に強烈な剣幕で怒りをぶつけている。どうやら身分証明書を持っていないがために預金の引き出しを断られたようである。自分の金なのに何故出せないのか、という疑問は尤もなことだし、所定の手続きができなければ無闇に現金を渡すことはできない、というのも尤もなことである。問題は、あなたは本当にあなたなのか、という証明だ。そこでその婦人の台詞が面白い。「アタシの亭主は会社のエライヒトなんだからね!亭主に言いつけたらアンタタチなんかクビだよ。クビ!」本人は凄い剣幕だが、傍目にはただの喜劇だ。
この婦人にとってご亭主は自分の存在証明の一部なのである。「会社のエライヒト」の妻、それが「アタシ」なのである。この婦人は、身分証明を求められたことで、日頃から無意識のうちに危機感を覚えていた自我の脆弱性に気づいてしまい、その崩壊を必至に食い止めるべく、自己防衛本能に基づいて癇癪を起こしたのかもしれない。弱い犬ほどよく吠える、という。
身近な人々を観察すれば、いかに自分の外見を気にする人が多いことか。身に付けるもののブランド、近親者や知己の社会的地位、子供が通う学校、休みの旅行先や宿泊先。有名料亭で会食するのが自慢の種という人の話も以前に書いた。多くの場合、他人にとってはどうでもよいことばかりなのだが、どれも本人にとっては重要な記号だ。
記号としての配偶者ということなら、夫婦仲など良くても悪くてもどうでもよい。夫婦である、という事実だけが重要だ。そのような人々にとって、夫婦とは、つまり、自分自身なのである。離婚などできるはずがない。
単なる記号としての配偶者ということではなく、自分の人生を豊かにする関係として夫婦を捉えるなら、より一層、お互いに相手に対する配慮が求められるだろう。結婚は相手さえいれば誰でもできるが、そこに豊かな関係を構築するとなると、誰にでもできることではない。
釣った魚に餌はやらない、という言葉があるが、夫婦という関係になったとたん、相手に対する配慮を怠る傾向があるような気がする。一緒に暮らす相手は、人格と人権を生まれながらに備えている存在である、という至極当然のことを公然と無視できるのが夫婦である、という大いなる誤解があるような気がするのである。夫婦という人間関係は、決して特別なものではなく、友人関係とか仕事上の人間関係と同じように、人と人との関係の在りようの一形態にすぎない。つまり、当然、そこには相手の人格や人権に対する敬意が払われなければならないと思うのである。もっと平易な言い方をすれば、自分が不愉快であると感じるような行為を相手に対しておこなってはいけない、という、子供に対する躾のような基本的な考え方が、どのような人間関係においても貫徹されるべき、ということだ。
言うは易く行うは難し。簡単なようで、なかなかできることではない。人の行動原理が自己保存であり、誰にでもエゴがある以上、相手を思い遣る気持ちを持ち続けるというのは思いの外難しいものだ。相手を思っているつもりが、単なる自己陶酔に浸っているだけだったり、親切心というコテコテのエゴの押し売りになっていたりというのはよくあることである。思い遣る相手がいない人には理解できないだろうが、人と人とは親しくなればなるほど距離の調整が難しくなるのである。その究極が夫婦だ、と、私は思う。