行動というものは、つねに判断の停止と批判の中絶とによって、はじめて可能になる。私たちはよく「現実を認識しなければならない」とか「現実を凝視せよ」とか、そういうことばを無考えに濫用する。行動は、その「現実の認識」のうえに打ちたてられねばならぬと考え、また、じじつ、自分たちはそうしてきたと思いこんでいる。したがって、その認識が、一つの仮説にすぎぬことを私たちはとかく忘れがちである。(福田恆存「人間・この劇的なるもの」新潮文庫 139頁)
今日も仲間でやっているブログのほうに映画評が投稿されていた。今日のお題は「椿三十郎」。私は、現在公開中のものは勿論観ていないが、黒澤明監督作品のほうは以前DVDで観た。そこに私が観たのは、集団としての意思決定がいかに脆弱な合意の上に成り立っているかということだった。「椿三十郎」は、不正をはたらく藩の権力者を告発しようとする青年侍たちを、腕の立つ浪人が助ける、という物語だ。この青年たちの意思決定に、彼等がどこからか聞きかじってきたあやふやな情報や浪人の言葉が影響を与え、集団としての意志が二転三転する様子が描かれている。
次席家老の汚職を糾弾する、という明確な行動目的があるような場合でさえ、その目的の達成に多くの困難が生じる。わずか9人の意志の統一を図るのも容易ではない。どこの誰ともわからない部外者の言葉が、9人の議論に波紋を起こす。9人は、たまたま密議の場に居合わせた浪人を、たまたま命を救ってもらったというだけで、信頼するようになるのだが、その判断の根拠は薄弱だ。行動を起こすには、その障害となるような情報を切り捨てなければならないのである。
冒頭の引用にあるように、我々の行動を支えている認識は、多分に思い込みであったり、期待であったりする。「現実」というものが自分の外部に確たる存在として在ることを、無意識のうちに想定しているが、現実が自分と自分を取り巻く世界との関係のなかにあるかぎり、世の中に確かなものなどというのは、そもそも存在しないのである。だから、いかに小さなことであれ、行動を起こせば、その結果としての変化を検証し、そこに生まれた新たな現実を改めて認識するという地道な作業を繰り返す必要があるはずだ。しかし、個人においてすら、自分の行動の合理性を検証するなどという面倒なことはしないだろうし、まして集団ともなれば、ひとたび決定したことを覆すというのは容易なことではない。我々は、個人においても集団においても、自分たちが自覚している以上に物事を考えていないということだろう。日々の意思決定の大半は無意識のなかで行われているのではないか。それが「現実」というものだろう。
今日も仲間でやっているブログのほうに映画評が投稿されていた。今日のお題は「椿三十郎」。私は、現在公開中のものは勿論観ていないが、黒澤明監督作品のほうは以前DVDで観た。そこに私が観たのは、集団としての意思決定がいかに脆弱な合意の上に成り立っているかということだった。「椿三十郎」は、不正をはたらく藩の権力者を告発しようとする青年侍たちを、腕の立つ浪人が助ける、という物語だ。この青年たちの意思決定に、彼等がどこからか聞きかじってきたあやふやな情報や浪人の言葉が影響を与え、集団としての意志が二転三転する様子が描かれている。
次席家老の汚職を糾弾する、という明確な行動目的があるような場合でさえ、その目的の達成に多くの困難が生じる。わずか9人の意志の統一を図るのも容易ではない。どこの誰ともわからない部外者の言葉が、9人の議論に波紋を起こす。9人は、たまたま密議の場に居合わせた浪人を、たまたま命を救ってもらったというだけで、信頼するようになるのだが、その判断の根拠は薄弱だ。行動を起こすには、その障害となるような情報を切り捨てなければならないのである。
冒頭の引用にあるように、我々の行動を支えている認識は、多分に思い込みであったり、期待であったりする。「現実」というものが自分の外部に確たる存在として在ることを、無意識のうちに想定しているが、現実が自分と自分を取り巻く世界との関係のなかにあるかぎり、世の中に確かなものなどというのは、そもそも存在しないのである。だから、いかに小さなことであれ、行動を起こせば、その結果としての変化を検証し、そこに生まれた新たな現実を改めて認識するという地道な作業を繰り返す必要があるはずだ。しかし、個人においてすら、自分の行動の合理性を検証するなどという面倒なことはしないだろうし、まして集団ともなれば、ひとたび決定したことを覆すというのは容易なことではない。我々は、個人においても集団においても、自分たちが自覚している以上に物事を考えていないということだろう。日々の意思決定の大半は無意識のなかで行われているのではないか。それが「現実」というものだろう。