子供と一緒に過ごした。今月は週末にスクーリングの予定があるので、普段は毎月下旬に子供と会うのを月初に変更してもらったのである。山手線の駅ホームで待ち合わせて、渋谷経由で桜新町に出る。長谷川町子美術館を覗いた後、而今禾を訪れ、布を買う。サザエさん通りにあるLa Saluteというイタリア料理屋で昼食をいただき、店の前からタクシーで静嘉堂文庫へ。美術館や庭園、美術館周辺を散策してから二子玉川駅へ出て、子供を家の最寄り駅まで送ってから、巣鴨に戻る。強めの雨が降り始めていたが、ハニービーンズに寄ってコーヒー豆を買い、店主夫妻と雑談をしているうちに雨は一旦あがる。雨が上がっている間に住処にたどり着き、荷物を置いた後、昭和歌謡ショーで塩ラーメンを食べ、外に出ると細かい雨が降っていた。
今年の黄金週間は、旅行に出かける人が例年よりも少ないというような報道がある。海外への出国者数は昨年の半分で、国内でも沖縄はやはりそれくらいだそうだ。五月の連休の旅行を予約するのは2月とか3月なので、その時期に震災があった関係で、多くの人が予約をキャンセルしたり、旅行の計画そのものを見送ったということなのだろう。一方で、被災地へボランティアに出かける人は多く、受け入れ側が苦慮するほどの状況にあるとか、各地での反原発イベントは盛況であるというようなことだそうだ。連休だからといって、何が何でも遠方まで行楽に出かけないといけないというわけではないので、観光業界の人々にとっては課題が多いが、人の社会としてはこれが健康的な姿なのかもしれない。
思ったよりも早く桜新町に着いてしまったので、時間つぶしのつもりで長谷川町子美術館に入った。「サザエさん」の原画などを展示するだけのところかと思っていたら、普通の個人美術館だった。もちろん「サザエさん」関連の展示はあるが、長谷川毬子・町子が蒐集した美術品を中心とした展示になっている。今日は「幻影の世界」という企画展の最中で、松尾敏男のミニ企画があった。このブログを書くのに少し検索してみたら、長谷川町子姉妹の人生は「サザエさん」のようなほのぼのとした世界とはおよそ遠いものだったようだ。考えてみれば、ほのぼのとした世界にどっぷり浸っていれば、「ほのぼの」は見えてこない。長谷川姉妹にしても、晩年になってから毬子・町子と洋子との間で絶縁状態になり、町子が亡くなった際には毬子が近親者に緘口令を敷いて洋子には知らせなかったほどの状態だったのだそうだ。町子の最後の作品である「サザエさん旅あるき」には、その20年ほど前に刊行された「サザエさんうちあけ話」には記載されていた洋子のことが一切触れられていないらしい。先日、ある姉妹の様子を見て、私も軽々しく「家族というのは良いものだなと思う」と書いたが、「家族」という関係が良いのではなく、良い関係の「家族」もそうでない「家族」もあるということを改めて思う。「家族」は人が生涯の間に取り結ぶ数多の関係のひとつでしかないのである。そこに強い幻想を抱いてしまうのは、結果としては不幸なことになるかもしれない。
長谷川町子美術館を出て、而今禾に至る街並については4月24日付「我儘」で触れているので書かないが、何時見ても街路樹とは思えないほどにまで成長した桜並木に感心させられる。而今禾では、陳列されている陶磁器を一通り拝見した後、木工で製作中のマガジンラックに使う布を選ぶ。さんざん迷った末に野良着に使われるような藍色の木綿布に決めた。これと明日の朝に食べる用のパンを一緒に買った。
私の子供もずいぶん大きくなって、普通に話が通じるようになっている。「大きい」というのは身体のことだけではなく精神的なことのほうも含めてのことだ。先日、鎌倉で小学生に間違えられて本人はむっとしていたが、間違えたほうを責めるのは酷だ。おそらく、今この瞬間において、私が一番気軽に接することのできる相手はこの子のほかにいないと思う。それで、なるべく自分の関係性のなかにこの子を巻き込んでいこうと、自分が好きな場所へこうして連れまわしているのである。といっても、人に紹介するようになったのは昨年後半からだ。陶芸教室でご一緒させていただいている方が開いたギャラリー、自分の個展を開いたギャラリー・カフェ、今日もギャラリーだ。今までのところ、全部ギャラリーだが、これは偶然。別にギャラリーの人を紹介しようと思ってそうしているわけではない。
ギャラリーでパンというのは妙だと思われるだろうが、而今禾の本店は三重の関宿(亀山市)でカフェを併設した道具屋らしい。オーナー夫妻がそこで農業も営んでいて、地元のオーガニック食品業者とのネットワークを構成しているのだそうだ。今は期間限定で、関宿の店と縁のある食品・食材を深沢の店舗で販売している。パンは「にこぱん」という三重県多気町にあるベーカリーのものだ。先日、「田舎パン」というのを買って食べてみたら、いままでに食べたことのない個性的な美味しさだったので、今日も「黒糖パン」というのを買ってみた。
昼食はサザエさん通りにあるイタリア料理屋La Saluteでセットになっているものを頂く。昼時ということもあり、店内はほぼ満席。私たちが入ったあと2組の客があって、それで本当に満席になった。私たちは2人だったので入口近くのカウンターの席にして、厨房の様子を楽しんだ。料理人なのだから当たり前なのだが、動きに無駄が無くて、流れるような動作が美しい。5口あるコンロがフル稼働で、その隣にある麺茹機も忙しそうだ。場所柄、遠方からわざわざ足を運ぶような地域ではないので、客の殆どが地元の人のようだ。休日の昼を親しい者どうしで美味しい食事をしながら過ごすというのは、ありふれた風景のようだが、これほど豊かな風景もないだろう。食事を共にするというのは、食事の内容は勿論大事だが、それ以上に食卓を囲む人々の間の会話が大切であろう。いくら旨いものを食べながらでも、気詰まりな食卓なら、その楽しみは半減どころではない。食事を共にするのが楽しい相手がどれだけいるかということも生活の質を左右する大きな要素である。私の場合はまだこの点が弱い。もっと積極的にいろいろな場に出向いて、縁を開拓しないといけないと思っている。
静嘉堂文庫を訪れるのは久しぶりだ。今は「日本陶磁器名品展」が開催されている。私たちが入館したときは、たまたま他に客がいなかった。小さな美術館だが緑深いなかに立地していて、ちょっとした時間を過ごすのにちょうどよい。こういう小規模で良質な個人美術館が散りばめられているのは、東京のひとつの特徴かもしれない。それぞれの運営にはご苦労があるのだろうが、日常生活のなかにこうしたものを組み込むことで、社会心理的な意義があるのではないかと思う。実証は困難だが、身近にあるものと人との関係というのは自覚している以上に大きいのではないだろうか。それは個人とものとの関係、地域の人間関係とランドスケープとの関係、職場とフロアプランの関係、国土と機能拠点の立地の関係、など物理的なものと心理的なものとが関連しているというようなことがあるのではないかと思うのである。
子供を住居の最寄り駅まで送った後、住処へ戻る途中でハニービーンズに立ち寄った。強い雨が降り出していたが、店の店主夫婦と雑談をしているうちに雨があがった。今日はニカラグアの豆を買った。
今年の黄金週間は、旅行に出かける人が例年よりも少ないというような報道がある。海外への出国者数は昨年の半分で、国内でも沖縄はやはりそれくらいだそうだ。五月の連休の旅行を予約するのは2月とか3月なので、その時期に震災があった関係で、多くの人が予約をキャンセルしたり、旅行の計画そのものを見送ったということなのだろう。一方で、被災地へボランティアに出かける人は多く、受け入れ側が苦慮するほどの状況にあるとか、各地での反原発イベントは盛況であるというようなことだそうだ。連休だからといって、何が何でも遠方まで行楽に出かけないといけないというわけではないので、観光業界の人々にとっては課題が多いが、人の社会としてはこれが健康的な姿なのかもしれない。
思ったよりも早く桜新町に着いてしまったので、時間つぶしのつもりで長谷川町子美術館に入った。「サザエさん」の原画などを展示するだけのところかと思っていたら、普通の個人美術館だった。もちろん「サザエさん」関連の展示はあるが、長谷川毬子・町子が蒐集した美術品を中心とした展示になっている。今日は「幻影の世界」という企画展の最中で、松尾敏男のミニ企画があった。このブログを書くのに少し検索してみたら、長谷川町子姉妹の人生は「サザエさん」のようなほのぼのとした世界とはおよそ遠いものだったようだ。考えてみれば、ほのぼのとした世界にどっぷり浸っていれば、「ほのぼの」は見えてこない。長谷川姉妹にしても、晩年になってから毬子・町子と洋子との間で絶縁状態になり、町子が亡くなった際には毬子が近親者に緘口令を敷いて洋子には知らせなかったほどの状態だったのだそうだ。町子の最後の作品である「サザエさん旅あるき」には、その20年ほど前に刊行された「サザエさんうちあけ話」には記載されていた洋子のことが一切触れられていないらしい。先日、ある姉妹の様子を見て、私も軽々しく「家族というのは良いものだなと思う」と書いたが、「家族」という関係が良いのではなく、良い関係の「家族」もそうでない「家族」もあるということを改めて思う。「家族」は人が生涯の間に取り結ぶ数多の関係のひとつでしかないのである。そこに強い幻想を抱いてしまうのは、結果としては不幸なことになるかもしれない。
長谷川町子美術館を出て、而今禾に至る街並については4月24日付「我儘」で触れているので書かないが、何時見ても街路樹とは思えないほどにまで成長した桜並木に感心させられる。而今禾では、陳列されている陶磁器を一通り拝見した後、木工で製作中のマガジンラックに使う布を選ぶ。さんざん迷った末に野良着に使われるような藍色の木綿布に決めた。これと明日の朝に食べる用のパンを一緒に買った。
私の子供もずいぶん大きくなって、普通に話が通じるようになっている。「大きい」というのは身体のことだけではなく精神的なことのほうも含めてのことだ。先日、鎌倉で小学生に間違えられて本人はむっとしていたが、間違えたほうを責めるのは酷だ。おそらく、今この瞬間において、私が一番気軽に接することのできる相手はこの子のほかにいないと思う。それで、なるべく自分の関係性のなかにこの子を巻き込んでいこうと、自分が好きな場所へこうして連れまわしているのである。といっても、人に紹介するようになったのは昨年後半からだ。陶芸教室でご一緒させていただいている方が開いたギャラリー、自分の個展を開いたギャラリー・カフェ、今日もギャラリーだ。今までのところ、全部ギャラリーだが、これは偶然。別にギャラリーの人を紹介しようと思ってそうしているわけではない。
ギャラリーでパンというのは妙だと思われるだろうが、而今禾の本店は三重の関宿(亀山市)でカフェを併設した道具屋らしい。オーナー夫妻がそこで農業も営んでいて、地元のオーガニック食品業者とのネットワークを構成しているのだそうだ。今は期間限定で、関宿の店と縁のある食品・食材を深沢の店舗で販売している。パンは「にこぱん」という三重県多気町にあるベーカリーのものだ。先日、「田舎パン」というのを買って食べてみたら、いままでに食べたことのない個性的な美味しさだったので、今日も「黒糖パン」というのを買ってみた。
昼食はサザエさん通りにあるイタリア料理屋La Saluteでセットになっているものを頂く。昼時ということもあり、店内はほぼ満席。私たちが入ったあと2組の客があって、それで本当に満席になった。私たちは2人だったので入口近くのカウンターの席にして、厨房の様子を楽しんだ。料理人なのだから当たり前なのだが、動きに無駄が無くて、流れるような動作が美しい。5口あるコンロがフル稼働で、その隣にある麺茹機も忙しそうだ。場所柄、遠方からわざわざ足を運ぶような地域ではないので、客の殆どが地元の人のようだ。休日の昼を親しい者どうしで美味しい食事をしながら過ごすというのは、ありふれた風景のようだが、これほど豊かな風景もないだろう。食事を共にするというのは、食事の内容は勿論大事だが、それ以上に食卓を囲む人々の間の会話が大切であろう。いくら旨いものを食べながらでも、気詰まりな食卓なら、その楽しみは半減どころではない。食事を共にするのが楽しい相手がどれだけいるかということも生活の質を左右する大きな要素である。私の場合はまだこの点が弱い。もっと積極的にいろいろな場に出向いて、縁を開拓しないといけないと思っている。
静嘉堂文庫を訪れるのは久しぶりだ。今は「日本陶磁器名品展」が開催されている。私たちが入館したときは、たまたま他に客がいなかった。小さな美術館だが緑深いなかに立地していて、ちょっとした時間を過ごすのにちょうどよい。こういう小規模で良質な個人美術館が散りばめられているのは、東京のひとつの特徴かもしれない。それぞれの運営にはご苦労があるのだろうが、日常生活のなかにこうしたものを組み込むことで、社会心理的な意義があるのではないかと思う。実証は困難だが、身近にあるものと人との関係というのは自覚している以上に大きいのではないだろうか。それは個人とものとの関係、地域の人間関係とランドスケープとの関係、職場とフロアプランの関係、国土と機能拠点の立地の関係、など物理的なものと心理的なものとが関連しているというようなことがあるのではないかと思うのである。
子供を住居の最寄り駅まで送った後、住処へ戻る途中でハニービーンズに立ち寄った。強い雨が降り出していたが、店の店主夫婦と雑談をしているうちに雨があがった。今日はニカラグアの豆を買った。