江戸東京博物館で開催中の「五百羅漢展」を観てきた。幕末に生きた狩野一信の手になる五百羅漢図が芝増上寺に所蔵されており、今回はそれが公開されている。
私は狩野一信という人を知らなかった。本人も知らなかったらしい。「狩野一信」というのは明治に入ってから研究者がそう呼ぶようになった名前で、生前は逸見一信あるいは雅号の顕幽斎一信と名乗っていた可能性が高いのだそうだ。生年についてもはっきりとしたことはわからないのだそうだが、とりあえず今回の展覧会のチラシ類などでは1816年生まれで1863年に没しているということになっている。生まれたのは江戸、本所林町で骨董商を営んでいた家だという。姓は不明で豊次郎と呼ばれていたということになっている。少年時代に町絵師のところに弟子入りし、その後、四条派、土佐派、などの門下で学び、最終的に狩野素川に入門したそうだ。勿論、本人が何を思って生きていたかは知る由も無いが、今から見れば激動の時代、だったと勝手に想像している。幕末である。黒船の来航もあれば、天保の飢饉、安政の大地震とその翌年の大洪水、安政の大獄、開国、など政治、経済、外交、自然災害などありとあらゆる分野で大事件が頻発した時代だ。そういう時代を絵描きとして生きた人なのである。狩野派といえば江戸時代の日本の画壇の本流だが、一信は素川一門の画塾で学んだという程度で、基本的には独学の人であったらしい。
つまり「狩野」という姓から現代の我々が受ける印象とはかけ離れた生活を送っていたらしいのである。生活は看板や提灯の絵を描いて糊口をしのいではいたものの、かなりの貧乏で、たまたま生活していたところの顔役が慈悲深い人で、その人が見るに見かねて衣食を援助していたので、なんとか生きていられたというようなことだったらしい。その顔役の口利きで、浅草寺の観音堂に大絵馬を奉納したのが1847年。これが評判になり、そこから絵師としてのキャリアが始まったのだそうだ。人の縁というのは大事だ。1849年2月の大火で増上寺の子院のいくつかが焼失した。翌年、そのひとつ源興院が再建される際に仏堂の壁画として一信が十六羅漢図を描いた。それが源興院の住職に認められ、彼がパトロンとなって、今回展示の五百羅漢図が描かれることになったのだそうだ。
五百羅漢図もさることながら、これを描いた狩野一信という人の物語が面白い。生まれたのが1816年として、1847年に大絵馬を浅草寺に奉納した時点で31歳だ。31で他人の援助なしに生活ができないほど困窮していた人が、それから10年足らずの間に、これほどの大作を構想するほどの絵師になるのである。勿論、才能もあっただろうが、人生を大きく転換する人との出会いがあればこそだろう。
一信は1854年に五百羅漢図の十分の一下図の制作にとりかかり、1863年9月22日に亡くなった時点で96幅までが完成していたという。完成していた、というのは必ずしも本人が描いたということにはならないだろう。弟子に一純というのがおり、アシスタントとして、五百羅漢図制作の早い段階から関与していたらしい。一信の死因はよくわからないようだが、今で言うところのうつ病であったらしく、五百羅漢図100幅の途中から様子がおかしくなっているのは、そういう予備知識がある所為も多分にあるにしても、素人目にそれとわかる。
71幅から明らかに絵のなかの人物が小さくなっている。人物が小さいということは、構図そのものが変化しているということでもある。十分の一下図は一信が作成したにしても、人物の大きさが顕著に変化すれば全体の印象もそれまでとは違ったものになるのは当然だ。描き手の中心が師匠から弟子に代わったことの表れというのは、技量の違いもあるだろうが、それ以上に心の違いによるものではないだろうか。もっと言うなら迷いの有無だ。物事を自分で考え、それを実行する当事者には迷いが無い。迷いが無いから筆致に迫力がある。当事者ではない者が指示や手本に従って描くものは、そこに己の信じるものが無いから、己の外にあるものを求めて浮遊しているかのような頼りなさが出てしまう。
自分の外にある「正解」をつかむことにどれほど秀でていても、それは結局他人の褌でしかないから、自分の身の丈には合わない。身の丈に合わないものを身につけていれば、それがどれほど上等のものであろうと傍目には滑稽にしか映らない。震災とそれに続く原発事故を経験した直後だから、余計にそう思うのだろうが、自分の生活している場が、これほど滑稽に満ちたものだとは気がつかなかった。気がつかずに生きてきた自分が何よりも滑稽だ。
ついつい話が横道に逸れてしまうが、75幅に描かれている出産直後の女性は53幅の首吊り死体とよく似ている。女性の表現が乏しいというのは、女性をあまり知らない所為もあるのかもしれない。今となっては確かなことはわからないが、残された史料等によれば、一信という人は、他人と折り合いをつけることが得意なほうではなかったらしい。出産する女性と首を括る女性を同じようにすることで、輪廻の断片を表現しようとしたのかとも考えた。しかし、解説を読むと、75幅の新生児はお釈迦様らしく、ということは、その女性は摩耶夫人ということになる。いくら創作とはいえ、摩耶夫人を首吊りにするわけにはいくまい。53幅と75幅の女性は全く別人として描かれていなければならないはずということだ。一信がどちらにも同じくらい関与していれば、あるいは、75幅の女性は違ったように描かれていたかもしれない。75幅は、やはり一信ではない人が、一信の作品を手本に筆を振るったと見ることができるのではないだろうか。安易に師匠の作品を手本として真似ると、こういう妙なことになる。そこに自分が無いから、全体として筋を通すということができないのである。
ところで、女性を描いた絵画では、アングルに勝る画家はいない、と今のところ私は信じている。清長も歌麿も好きだが、女性の肌の質感のようなものは、西洋画にはかなわないように思う。アングルの作品のなかでも、とりわけ「リヴィエール嬢(Mademoiselle Caroline Rivière)」が好きだ。ルーブルにはアングルの作品だけを集めた部屋があるが、この作品はそこではなく、大作の並んでいるDenonの1階で観た。初めて目にしたとき、しばらく離れられなかった。すぐ近くにはモナリザがあって、そこには人だかりができているのだが、それよりはこちらのほうがはるかに強く印象に残っている。この作品は1806年にサロンに出展されたときには酷評されたそうだが、名作というものは生まれたときにはそれとはわからないものだ。端から賞賛されるようなものにろくなものは無い。誰もが認めるというのは、要するに既成概念に則っただけの、創造性の貧しいものということだろう。
それで五百羅漢図だが、71幅あたりから、絵の密度とでも表現したらよいのだろうか、なんとなく間が抜けてくるのである。81幅から90幅までは背景が黒一色に塗りこめられるのだが、画面が暗くなるのに、印象は軽くなる。91幅をすぎると、もうどうしょうもない。この100幅を最後まで仕上げていたら、一信の評価は違ったものになっていたのだろう。しかし、満願成就というのは稀なことで、いつもなにかしらが欠けてしまい、あと一息、あと一歩という感じが残ってしまうのも人生の現実というものだ。
私は狩野一信という人を知らなかった。本人も知らなかったらしい。「狩野一信」というのは明治に入ってから研究者がそう呼ぶようになった名前で、生前は逸見一信あるいは雅号の顕幽斎一信と名乗っていた可能性が高いのだそうだ。生年についてもはっきりとしたことはわからないのだそうだが、とりあえず今回の展覧会のチラシ類などでは1816年生まれで1863年に没しているということになっている。生まれたのは江戸、本所林町で骨董商を営んでいた家だという。姓は不明で豊次郎と呼ばれていたということになっている。少年時代に町絵師のところに弟子入りし、その後、四条派、土佐派、などの門下で学び、最終的に狩野素川に入門したそうだ。勿論、本人が何を思って生きていたかは知る由も無いが、今から見れば激動の時代、だったと勝手に想像している。幕末である。黒船の来航もあれば、天保の飢饉、安政の大地震とその翌年の大洪水、安政の大獄、開国、など政治、経済、外交、自然災害などありとあらゆる分野で大事件が頻発した時代だ。そういう時代を絵描きとして生きた人なのである。狩野派といえば江戸時代の日本の画壇の本流だが、一信は素川一門の画塾で学んだという程度で、基本的には独学の人であったらしい。
つまり「狩野」という姓から現代の我々が受ける印象とはかけ離れた生活を送っていたらしいのである。生活は看板や提灯の絵を描いて糊口をしのいではいたものの、かなりの貧乏で、たまたま生活していたところの顔役が慈悲深い人で、その人が見るに見かねて衣食を援助していたので、なんとか生きていられたというようなことだったらしい。その顔役の口利きで、浅草寺の観音堂に大絵馬を奉納したのが1847年。これが評判になり、そこから絵師としてのキャリアが始まったのだそうだ。人の縁というのは大事だ。1849年2月の大火で増上寺の子院のいくつかが焼失した。翌年、そのひとつ源興院が再建される際に仏堂の壁画として一信が十六羅漢図を描いた。それが源興院の住職に認められ、彼がパトロンとなって、今回展示の五百羅漢図が描かれることになったのだそうだ。
五百羅漢図もさることながら、これを描いた狩野一信という人の物語が面白い。生まれたのが1816年として、1847年に大絵馬を浅草寺に奉納した時点で31歳だ。31で他人の援助なしに生活ができないほど困窮していた人が、それから10年足らずの間に、これほどの大作を構想するほどの絵師になるのである。勿論、才能もあっただろうが、人生を大きく転換する人との出会いがあればこそだろう。
一信は1854年に五百羅漢図の十分の一下図の制作にとりかかり、1863年9月22日に亡くなった時点で96幅までが完成していたという。完成していた、というのは必ずしも本人が描いたということにはならないだろう。弟子に一純というのがおり、アシスタントとして、五百羅漢図制作の早い段階から関与していたらしい。一信の死因はよくわからないようだが、今で言うところのうつ病であったらしく、五百羅漢図100幅の途中から様子がおかしくなっているのは、そういう予備知識がある所為も多分にあるにしても、素人目にそれとわかる。
71幅から明らかに絵のなかの人物が小さくなっている。人物が小さいということは、構図そのものが変化しているということでもある。十分の一下図は一信が作成したにしても、人物の大きさが顕著に変化すれば全体の印象もそれまでとは違ったものになるのは当然だ。描き手の中心が師匠から弟子に代わったことの表れというのは、技量の違いもあるだろうが、それ以上に心の違いによるものではないだろうか。もっと言うなら迷いの有無だ。物事を自分で考え、それを実行する当事者には迷いが無い。迷いが無いから筆致に迫力がある。当事者ではない者が指示や手本に従って描くものは、そこに己の信じるものが無いから、己の外にあるものを求めて浮遊しているかのような頼りなさが出てしまう。
自分の外にある「正解」をつかむことにどれほど秀でていても、それは結局他人の褌でしかないから、自分の身の丈には合わない。身の丈に合わないものを身につけていれば、それがどれほど上等のものであろうと傍目には滑稽にしか映らない。震災とそれに続く原発事故を経験した直後だから、余計にそう思うのだろうが、自分の生活している場が、これほど滑稽に満ちたものだとは気がつかなかった。気がつかずに生きてきた自分が何よりも滑稽だ。
ついつい話が横道に逸れてしまうが、75幅に描かれている出産直後の女性は53幅の首吊り死体とよく似ている。女性の表現が乏しいというのは、女性をあまり知らない所為もあるのかもしれない。今となっては確かなことはわからないが、残された史料等によれば、一信という人は、他人と折り合いをつけることが得意なほうではなかったらしい。出産する女性と首を括る女性を同じようにすることで、輪廻の断片を表現しようとしたのかとも考えた。しかし、解説を読むと、75幅の新生児はお釈迦様らしく、ということは、その女性は摩耶夫人ということになる。いくら創作とはいえ、摩耶夫人を首吊りにするわけにはいくまい。53幅と75幅の女性は全く別人として描かれていなければならないはずということだ。一信がどちらにも同じくらい関与していれば、あるいは、75幅の女性は違ったように描かれていたかもしれない。75幅は、やはり一信ではない人が、一信の作品を手本に筆を振るったと見ることができるのではないだろうか。安易に師匠の作品を手本として真似ると、こういう妙なことになる。そこに自分が無いから、全体として筋を通すということができないのである。
ところで、女性を描いた絵画では、アングルに勝る画家はいない、と今のところ私は信じている。清長も歌麿も好きだが、女性の肌の質感のようなものは、西洋画にはかなわないように思う。アングルの作品のなかでも、とりわけ「リヴィエール嬢(Mademoiselle Caroline Rivière)」が好きだ。ルーブルにはアングルの作品だけを集めた部屋があるが、この作品はそこではなく、大作の並んでいるDenonの1階で観た。初めて目にしたとき、しばらく離れられなかった。すぐ近くにはモナリザがあって、そこには人だかりができているのだが、それよりはこちらのほうがはるかに強く印象に残っている。この作品は1806年にサロンに出展されたときには酷評されたそうだが、名作というものは生まれたときにはそれとはわからないものだ。端から賞賛されるようなものにろくなものは無い。誰もが認めるというのは、要するに既成概念に則っただけの、創造性の貧しいものということだろう。
それで五百羅漢図だが、71幅あたりから、絵の密度とでも表現したらよいのだろうか、なんとなく間が抜けてくるのである。81幅から90幅までは背景が黒一色に塗りこめられるのだが、画面が暗くなるのに、印象は軽くなる。91幅をすぎると、もうどうしょうもない。この100幅を最後まで仕上げていたら、一信の評価は違ったものになっていたのだろう。しかし、満願成就というのは稀なことで、いつもなにかしらが欠けてしまい、あと一息、あと一歩という感じが残ってしまうのも人生の現実というものだ。