熊本熊的日常

日常生活についての雑記

千両みかん

2011年05月02日 | Weblog
商売というものの本質が語られている噺だと思う。商売というのは人の本性の表現でもある。売る側も買う側もだ。そして商売というのは、ともすればいくら儲けたとか損したということに目を奪われがちだが、貨幣というものが本来は価値を表現する手段であるはずなのに、その手段が自己目的化してしまうという我々の生活のなかでよくある不思議をも雄弁に語っている。さらに言えば、物事の光と影、本質と幻影あるいは幻想が渾然一体となっている現実が活写されていると言ってもよいかもしれない。

先日、「小三治」というドキュメンタリー映画の話を書いたが、あれを観て小三治の噺をもっと聴いてみたいと思い、DVDボックスを注文してしまった。それが今日届いた。10枚組で24席収められている。さすがにまだ全部は聴いていないが、今日は「花見の仇討」、「もう半分」、「宿屋の富」、「厩火事」、「千両みかん」を聴いた。芸のことは皆目わからないので、好きか嫌いかという話しか書けないが、このなかで一番好きなのは「千両みかん」だ。

古典落語は噺の成立から長い時間を経ているので、同じ噺でも演者によって、口演によって、演出や物語の細部が異なっている。以前、どこかで聴いたものでは、事情を聞いたみかん問屋の主が、そういうことなら差し上げましょう、と申し出るというものだった。それを、みかんを求めるほうの番頭が執拗に「当家も商人ですからただというのは困ります」と言うものだから、みかん問屋のほうが「では、千両」となった。小三治のほうは、最初から千両ということになっている。私は、無料でという遣り取りを入れるよりも、端から千両のほうが筋が通って聴きやすいように思う。番頭は「千両」という金額に腰を抜かさんばかりに驚いてみせるが、みかん問屋の主人も、みかんを求めているほうの大店の主人も「千両でも安いくらいだ」と、「千両」ということに引っかかりを持たないのも良いと思う。商売というものに対する姿勢や思考における、経営者という立場と従業員というそれとの違いが端的に表現されており、それは同時に価値と価格の違いを雄弁に語る部分でもある。また、価値と価格の違いがまるで理解できていない番頭の姿を浮き彫りにすることで、サゲへの伏線にもなっている。

世の中が噺のなかの大店やみかん問屋の主人のような人ばかりなら、我々の政治も経済もう少しましになるのだろうが、現実は番頭のような人ばかりなので、どうしてもおかしなことになってしまう。

ちなみに、みかんというものが現在のような単なる農作物になったのは明治以降のことで、それ以前は投機の対象でもあったそうだ。これは、噺を聴く上での予備知識として持っておいたほうがよいかもしれない。