久しぶりに朝の通勤通学時間帯に鉄道を利用した。
思い起こせば高校生の頃の通学が一番大変だったような気がする。当時、バスで西川口へ行き、京浜東北線で赤羽に出て赤羽線(現在の埼京線)に乗り換える。池袋からは山手線で新大久保まで通うのである。当時の赤羽線は首都圏屈指の混雑路線だった。池袋の山手線ホームでは入場規制が実施され、階段の下でしばらく待つのは当たり前だった。しかも現在のように車両に空調があるわけではなく、赤羽線に至っては埼京線に代わるまでとうとう空調付きの列車は無かったのではないだろうか。あれほどの混雑をもう長いこと経験していない。それでも、利用客が勝手知ったる人たちばかりという所為もあり、秩序が確立していた。それは単に習慣化されていたから混乱が無かっただけなのかもしれないし、平均的な人間の精神とか忍耐力が今とは違っていたのかもしれない。
今はその秩序が少し怪しくなっている。気になるのは乗降の順序だ。降りる人の流れが終わって乗る人が動き出す、というリズムのようなものが乱れている。降りる人の動きが妙に緩慢だ。確かに多くの人が停車前に降りる心積もりでいて、ドアが開くと足早に出口へ向かうのだが、そうした流れから外れて奥のほうから人を掻き分けて出てくる奴が必ずいる。そういう輩はたいてい携帯機器を手にしている。降車の流れが不規則になるから、乗るほうも乱れることにならざるを得ない。
携帯電話の普及と高機能化で、我々はいつでもどこでも電話やメールをしたり、ネットに繋がったりできるようになった。そのことで我々の行動の生産性は飛躍的に向上したはずである。その気になれば、寸暇を惜しんで仕事や勉強ができるのだろうし、なによりも外出先で必要な行動を起こすことができるので物事が以前にも増して迅速に進む、はずである。ところが、バブル崩壊の1990年前後をピークにした景気悪化は一向に落ち着く様子はない。個人の情報化の効果は一体どこに現れているのだろうか。結局のところ、携帯機器は「猫に小判」「豚に真珠」の類のものでしかなかったということだろうか。そもそも我々の生活に四六時中意思疎通を図ったり情報を遣り取りする需要が無かったということなのだろうか。あるいは、道具の進歩によって使い手の知能が退化したということだろうか。
そう思って眺める所為なのだろうか、手に持った携帯端末を指で摩っている人の横顔はどか間が抜けていると感じられることが多い。携帯電話をスマホに代えて生活はどのように良くなるものなのだろうか。仕事の効率が増えて所得が倍増するのか。コミュニケーションが活発になって人間関係が豊かになるのか。そうだとしたら、まことにけっこうなことである。
思い起こせば高校生の頃の通学が一番大変だったような気がする。当時、バスで西川口へ行き、京浜東北線で赤羽に出て赤羽線(現在の埼京線)に乗り換える。池袋からは山手線で新大久保まで通うのである。当時の赤羽線は首都圏屈指の混雑路線だった。池袋の山手線ホームでは入場規制が実施され、階段の下でしばらく待つのは当たり前だった。しかも現在のように車両に空調があるわけではなく、赤羽線に至っては埼京線に代わるまでとうとう空調付きの列車は無かったのではないだろうか。あれほどの混雑をもう長いこと経験していない。それでも、利用客が勝手知ったる人たちばかりという所為もあり、秩序が確立していた。それは単に習慣化されていたから混乱が無かっただけなのかもしれないし、平均的な人間の精神とか忍耐力が今とは違っていたのかもしれない。
今はその秩序が少し怪しくなっている。気になるのは乗降の順序だ。降りる人の流れが終わって乗る人が動き出す、というリズムのようなものが乱れている。降りる人の動きが妙に緩慢だ。確かに多くの人が停車前に降りる心積もりでいて、ドアが開くと足早に出口へ向かうのだが、そうした流れから外れて奥のほうから人を掻き分けて出てくる奴が必ずいる。そういう輩はたいてい携帯機器を手にしている。降車の流れが不規則になるから、乗るほうも乱れることにならざるを得ない。
携帯電話の普及と高機能化で、我々はいつでもどこでも電話やメールをしたり、ネットに繋がったりできるようになった。そのことで我々の行動の生産性は飛躍的に向上したはずである。その気になれば、寸暇を惜しんで仕事や勉強ができるのだろうし、なによりも外出先で必要な行動を起こすことができるので物事が以前にも増して迅速に進む、はずである。ところが、バブル崩壊の1990年前後をピークにした景気悪化は一向に落ち着く様子はない。個人の情報化の効果は一体どこに現れているのだろうか。結局のところ、携帯機器は「猫に小判」「豚に真珠」の類のものでしかなかったということだろうか。そもそも我々の生活に四六時中意思疎通を図ったり情報を遣り取りする需要が無かったということなのだろうか。あるいは、道具の進歩によって使い手の知能が退化したということだろうか。
そう思って眺める所為なのだろうか、手に持った携帯端末を指で摩っている人の横顔はどか間が抜けていると感じられることが多い。携帯電話をスマホに代えて生活はどのように良くなるものなのだろうか。仕事の効率が増えて所得が倍増するのか。コミュニケーションが活発になって人間関係が豊かになるのか。そうだとしたら、まことにけっこうなことである。