熊本熊的日常

日常生活についての雑記

書棚が語る

2011年05月30日 | Weblog
金に縁が無いのだが、稀に銀行に出向かなければならないことがあり、今日は午後の早い時間に住処を出た。早い時間に出かけないといけないのは、単に銀行の窓口が午後3時という信じられないような早い時間に閉まってしまうからというだけのことで、要件自体は待ち時間を含めても15分程度しかかからない。そんなわけで、銀行での用と出勤時間との間に中途半端な空白の時間が生じてしまった。幸い、勤務先が入居しているビルには、入居企業向けのラウンジのようなものがあるので、そこに置いてある雑誌を読んで暇を潰した。

「芸術新潮」では5月号から内田樹が「実践的すまいづくり論」という連載を始めている。最新号である6月号ではその2回目「間取りを決める」という内容だ。自分がこの先、家を建てるようなことになるとも思えないのだが、生活空間をどのように捉えるかということにはかねてから素朴に関心がある。それは住宅というレベルに限らず、部屋であろうが、地域であろうが、国であろうが、生態系であろうが、面白いと思うのである。内田の記事で琴線に触れたのが、「書棚が語るもの」という章だった。なかでも次の一節に膝を打つ思いがした。

「本棚は「その人が何を読んだか」ではなく、「どんな世界につながりたいと欲しているか」を教えてくれます。その意味で、本棚は社会に向けられた窓なんですね。」
(「芸術新潮」2011年6月号 108頁 「内田樹 実践的すまいづくり論 ②間取りを決める」)

改めて自分の本棚を眺めてみると、自分がつながりたいと欲している世界がはっきりと見える。一言で言えば、浮世離れしている。それはとても健康なことに思える。なぜなら、日々の暮らしが余裕に乏しい世俗の極みのようなものなのだから、生活空間のなかにそうしたものとは対極の世界への窓が開かれていることで、自分のなかの均衡が維持されているはずなのである。物理的な制約で手持ちの本を全て現在の住処の小さな本棚に納めることはできないので、古いものは実家で借りているトランクルームに移してあるのだが、それらも一緒に並べることができるとすれば、自分がつながりたいと欲した世界が年齢を重ねることでどのように変化しているのか、逆に何が変化せずに続いているのか、というようなことがわかって面白いだろうと思う。

もし、これから自分が好き勝手に構想した住まいで暮らすことができるとしたら、壁一面に書棚を作りつけた部屋をひとつ作りたい。寅さんのようにカバンひとつで動くことのできる生活にも憧れるのだが、空間というものへの興味も尽きない。