熊本熊的日常

日常生活についての雑記

東京駅

2011年05月09日 | Weblog
今、東京駅は工事中だ。丸の内の赤レンガ駅舎の工事がいつから始まったのか、記憶が定かでないが、かなり長いこと工事をしているような気がする。以前、この駅舎には東京ステーションギャラリーというのがあって、工事で営業を停止する前の最後の企画展は建築家の前川國男を取り上げたものだったような記憶がある。駅舎が白い覆いで囲われているので中を歩いていると気が付かないのだが、先日、信号待ちで少し距離を置いて眺めていたら、既にドームが完成していた。東京駅は赤レンガ駅舎だけでなく、丸ごと工事中なのだが、赤レンガ駅舎は完成当初の姿に復元するらしい。

東京駅の開業式は1914年12月18日。青島包囲軍凱旋式も同時に開催された。この年、第一次世界大戦が勃発し、日本は日英同盟を口実に8月23日、ドイツに対し宣戦布告を行った。宣戦布告に先立ち、日本はドイツに対し膠州湾租借地を日本側へ引き渡すよう求めた。受け容れられるはずがないことを承知の上でのことだ。10月31日、日本軍は膠州湾租借地のドイツ軍本拠地である青島に総攻撃をかける。約一週間後に青島は陥落した。その凱旋を東京駅の開業に合わせたのである。東京駅の工事は何年も前からのことで、青島攻略は開業直前のことだ。最初から予定して一緒にできることではない。

今でこそ東京駅の丸の内側は日本を代表するオフィス街だが、東京駅開業当時はただの野原だったという。何もなかったからこそ、そこに大規模な建築ができたのである。開業当時の東京駅には丸の内側にしか出入り口がなかった。八重洲側へ出るには、一旦丸の内側に出て、ガードを潜っていかなければならなかった。駅舎を正面から見ると中央に皇室専用口があり、それを挟んで3階建のドームが並び、片方が入り口専用、片方が出口専用だったそうだ。こうした構造について開業当初から批判があったようだが、これは敢えてこうした造りになっているのだという。

赤レンガ駅舎を背にして立てば、正面は皇居である。東京駅に降り立った人は否応なく皇居を拝むことになる。東京駅を発つ者は意識するとしないとにかかわらず天皇の懐から恰もその手足であるが如くに出立する恰好になる。人の流れとして、駅舎から無造作に人が出入りするというのは景色としてまずいのである。到着客はひとつの流れとして駅前、皇居前に来なくてはならず、出発客はおなじように駅へ吸い込まれていかないと恰好がつかないということになる。当時、国民は啓蒙君主たる天皇の赤子であり、皇居の前では秩序ある動線を成さないわけにはいかなかったのである。事実、遠方へ送られる兵員は皇居前で隊列を整え、東京駅から戦地へと赴いたのである。つまり、東京駅は皇居と外との間の門のようなものとして計画されている。天皇即ち国家という時代の皇居の門といえば、日本と外国との間の門でもある。

東京駅開業に先立つ1913年6月10日に東京からパリまでの鉄道切符が発売になった。鉄道および連絡線を最低8回乗り換え、16日程度を要したそうだ。当時、船でフランスを目指すと50日を要したので、鉄道がいかに速いか明白だ。この鉄道の一等料金は417円25銭。公務員の初任給を基準に現在の価値に換算すると100万円ほどになるのだそうだ。この切符の日本側の起点は発売当初は新橋駅だが、東京駅開業後はもちろん東京駅になる。手元に東京からベルリンまでの切符の写真があるのだが、16枚綴り32ページ。表紙は日本語、次のページはロシア語、その次が英語とロシア語の併記、というような具合だ。日本と大陸の間は連絡船を使うことになるが、日露戦争前からあったのは敦賀=ウラジオストク航路。1905年に下関=釜山航路と大阪=大連航路が開業している。ちなみにJTBの創立は1912年3月。東京駅開業の翌月1915年1月から外国人に対する鉄道院委託乗車券の販売を開始している。東京駅は単なる鉄道駅ではなく、日本の玄関でもあったのである。

その後、日本と欧州を結ぶ鉄道路線は第一次世界大戦、ロシア革命、日本のシベリア出兵などにより一旦は途絶する。しかし、1925年に日ソ間に国交が結ばれると日欧鉄道路線の復活機運が高まり、1927年8月から再び日欧間が一枚の切符で結ばれる。ちなみに、現在、東海道新幹線に使われている「ひかり」と「のぞみ」は、当時、釜山から朝鮮半島を縦断して南満州鉄道に乗り入れて長春(新京)まで結んでいた急行列車の名称でもある。この日本と欧州を結ぶ路線は1941年6月23日に停止され、以後、復活することはなかった。

鉄道の技術は東京駅開業当時に比べれて大きな進歩を遂げたことは改めて語るまでもない。速度は勿論のこと、安全に関しても、先日の震災で営業運転中の新幹線車両が1両たりとも脱線事故を起こしていないのがなによりの証左だ。しかし、駅の位置づけは、その国の国際社会や世界経済のなかでの位置とも絡んでくる。現在工事中の東京駅丸の内側煉瓦駅舎は、来年、創業当時の姿を再現して完成する。物理的には開業当時と同じ外観かもしれないが、その存在が意味するところは、果たして開業当時と比べてどうなのだろうか。

「週刊朝日」の1942年10月11日号に鉄道開設70周年を記念して「鉄道の将来を語る」という座談会の記事がある。そのなかで技術院の技師である下山定則氏が当時計画中であった所謂「弾丸列車計画」、東京=下関を広軌鉄道で結ぶ計画について興味深い発言をしている。

「東京、下関の高速列車ですが、それを私がさつきいつた将来の大きな構想から考へると、満州から支那、さらに南の大陸を全部繋いだ鉄道網といひますか、さういうものができてくるときには、トンネル技術も相当進むでせうし、さうなれば、上海から長崎の海底鉄道もできるだらう、さう考へると、東京、下関間の広軌の意義がハッキリして来るその時には、さらにトンネル技術も大いに進歩して、インドのヒマラヤ山脈もトンネルで突き抜ける。パミル高原なんかもバッと上ってゆく。さうして東京から真っ直にベルリンにゆく。或ひは昭南島にゆく。さうなつて初めて東京・下関間の新幹線がモノをいふわけです。」

日本列島を縦断する幹線鉄道は、それだけで完結するのではなく世界の鉄道網の一部として機能するというのである。下山氏の「私がさつきいつた将来の大きな構想」とは大東亜圏での鉄道の位置づけについてである。氏は飛行機、船、自動車と鉄道を比較しながら、鉄道の役割を長距離大量輸送と述べている。氏が語っているそれぞれの輸送機関の進歩は、ほぼ当たっている。科学技術についての的確な洞察を踏まえ、日本の鉄道網を一国内で完結するのではなく、欧州までも視野に入れながら語る、その発想の大きさに興味を覚えた。

ほぼ100年前、東京駅はそういう大きな視野のなかで計画され建設されたのである。当時に比べれば、外国に出かけるのは格段に手軽になった。しかし、手軽に外国に出かけることができる、だからといって、世界規模で物事を発想することができる、わけではないのが悲しいところだ。交通や通信の発達で行動範囲が大きくなった一方で、我々の発想は矮小になっているというようなことはないだろうか。来年完成する東京駅の赤レンガ駅舎は一体何を語りかけてくるだろうか。