熊本熊的日常

日常生活についての雑記

積み上げるということ

2011年05月31日 | Weblog
陶芸で、作業の進捗の結果、40分ほど時間が余ってしまった。以前なら、そういう時は帰ってしまったのだが、今は1分でも惜しいという気持ちが強く、久しぶりに碗を挽いてみた。もう何ヶ月も皿ばかり挽いていたので、作り方を忘れてしまったかと心配していたのだが、それは杞憂だった。一個挽きの皿では毎回難儀をしているのだが、久しぶりに挽いた碗は、なんとなく思い通りに手元の土が動くような心持で形ができあがった。考えながら難儀をするという体験、つまり経験を積み上げることで自分のなかに何事かが蓄積されていくということの表れが、今日の碗、あるいはそれを作っている自分なのかもしれない。

住処に戻ると珍しく手紙が届いていた。差出人は知り合ってから30年ほどになる友人だ。それを手にした瞬間、封を切らずとも内容は概ね想像がついた。先日、この友人が私に見合いのような席を設けてくれたのである。手紙はそのフォローアップだ。当事者2名とそれぞれに付き添いが付いて合計4名で会食をした。手紙の主が私の側の付き添いで、彼女の友人が相手側の付き添いだ。私以外の3名が全員歯科医。うまく話がまとまると歯無にならずに済むかもしれないという結構な話だ。その後、当事者だけで喫茶をして、それなりに会話は弾んだのだが、後が続かない。一応、礼状のような葉書を相手に送ったが、それに対する反応はなく、要するにこれっきりなのだろうと思う。

それで手紙の内容だが、想像通りだったので、なんだか可笑しくなってしまった。字面だけを見れば様子伺いなのだが、行間から叱咤激励が溢れている。尤も、字面のほうでも人に言われて納得したとかいう言葉が記されている。
「縁が無くて… というのはおかしい。自分から作る、作っていくという気持ちがないと縁などできない」
のだそうだ。そうは言っても、相手のあることなので、気持ちだけ空回りしてもどうなるものでもないだろう。なにはともあれ、こちらのほうも積み上げることが肝要ということだろうか。なかなか難儀なことである。