熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ありふれてはいけない生活

2011年05月27日 | Weblog
スクーリングに出席してから、へろへろになって出勤した。職場の席に「FYI」と書いたポストイットの付いた新聞記事の切り抜きが置かれていた。5月26日付の「三谷幸喜のありふれた生活556」とある。思わず吹き出してしまった。記事を置いてくれた同僚は、前日に雑談のなかで三谷の離婚が話題になったので、そのことについて当事者が書いたものを私に読ませたかったのだろう。あるいは離婚経験者である私に、何か語らせてみたかったのかもしれない。

私の反応に気付いた隣の席の同僚が
「なに、なに」
と尋ねてきたので、
「これ、机の上にあったんだよ」
と、その記事を渡した。読み始めてすぐ、
「へぇ、で、熊本さんは何年だったの?」
というので、
「俺は15年と何ヶ月か。同じくらいだよ。」
と答える。その「ありふれた生活」の要旨は、私の理解では以下の3点だ。

・ 結婚16年にして離婚したこと
・ 離婚原因は「生き方」「考え方」の相違
・ 彼女が家を出て行ったこと

文章の量としては「相違」の具体例と、相手への気遣いが大部を占めていたが、そういう説明や相手への一応の敬意を表明するのは、人として当然のことであり、離婚の実質的な中身とはあまり関係のないことだろう。メディアに露出することを生業にしている人が、ドロドロした話をこういう連載エッセイに書くわけにはいかない。事実や実感がどうあれ、結婚生活やその相手を立てておくというのが、この場合の真っ当な書き方だ。それでも、「些細な」行き違いが積もり積もって深刻な溝になる、というのは実感を伴って諒解できる。生き方とかいうようなものを真剣に考えれば考えるほど、そうした人としての根本のところで相容れない相手との距離は離れていくしかないのである。

隣の席の同僚には交際中の相手がいるらしいが、まだ結婚にまでは至らないのだそうだ。離婚やそこに至る諸々を話した後、
「でも、一回くらいは結婚したほうがいいよ」
と言っておいた。
「何事も経験だからね。いろいろな経験を積むことで人生は絶対に豊かになるから」
とも言った。彼女はそれには同意しつつも、
「でも、女の側から結婚を言い出すわけにはいかないでしょ」
などと言う。プロポーズをひたすら待っているらしいのだ。ただ待っているのだけでは物事は動きようがないと思うのだが、仕事の引継ぎの合間に、そうした深い話に突入するわけにもいかず、
「でも、よく考えたほうがいいよ。それじゃ、おつかれさま」
と、引継ぎを済ませて自分のシフトに入った。

私の所属するチームには6人の女性がいるのだが、そのうち5人が未婚だ。しかも、もう若くはない。傍目に、このまま死ぬまで独りだろうな、と思う人は何人もいて、そこには共通したものがある。何がどのように共通しているのか、なかなか言葉では尽くせないこともあるので、ここには書かない。私も現在は彼女たちと同じく独り身だが、同類になってしまうと希望がなくなってしまう。他人の振り見て我が振り直せ、などとも言う。もう何時死んでも不思議のない年齢に達しているのだが、生きている限りは、最後まで人間関係に纏わる希望を捨ててはいけないと思っている。