スクーリングの最終日は、作品を提出し、その講評を先生から頂く。初めてのことで何かと不案内で、提出時間までに完成させることはできなかったが、一応提出できる状態にまではなんとか漕ぎ付けることができた。
この授業を受講したのは私を含め10名だった。私が唯一の美術未経験者だったので、さすがに作品の出来には歴然とした差が出た。講評は教室の前の壁に10名の作品を並べて掲示し、ひとつひとつについて作成者がコメントをし、先生が講評をする、という形式だった。一枚の室内図、しかも、絵画的要素が濃厚とはいえ、基本的には図面の一種なので大枠としては同じようなものが並ぶはずです。それが、室内のインテリアや窓から見えるものによって、全く違った個性を持つに至る。それだけでも面白いのに、先生の講評のなかには作成者の個性について言及する部分もあり、それが少なくとも私に関しては図星であったので、驚いた。10数年前に美大出身の人とメールの遣り取りをしていたことがあるのだが、その人が私のメールの文章について指摘したことと同じことも含まれていた。それを端的に言い当てているのが、「踏み込みが足りない」「自分の周囲にバリアのようなものを張り巡らしている」というようなことだった。
手仕事に限らず、その人の行動一般に敷衍してみても、やはりどのような些細なことにもその人の個性というものが出るものだ。それはその人の性格とか物事の考え方というようなものが反映されている。逆に言えば、性格というものは変えようがないのかもしれないが、考え方を変えれば行動も変化するということだ。考え方を変えたつもりでも、行動がそれに伴っていなければ、単なる「つもり」に過ぎないということだろうし、意識しなくとも行動に変化が生じていれば考え方の何事かが変化しているということだ。陶芸や木工をやっていて感じるのだが、一歩踏み出す、腹を決めて思い切る、びくびくしない、というようなことが作品を完成させる上で大きな要素になる。それは土に加える手の力だったり、鋸を引くときの刃の当て方だったり、という些細なことなのだが、そういうことを繰り返すことで、些細な姿勢の変化が心のありようという大きな変化にまで及ぶのではないだろうか。思い切ってやってみたら上手くできた、という小さな経験を積み重ねることで、精神そのものが強くなるということではないかと今更ながら感じている。
自分のことを自分が好ましいと思えるような人物に変えようと思いながらあれこれやってきたつもりだったが、10数年を経て結局は何も変わっていなかったのかと、苦笑を禁じえないような現実を経験できたことも、それはそれとして価値のあることだ。「バリアを張り巡らしている」というつもりはさらさら無いのだが、そう解釈されても仕方の無いような性向は確かにあると自覚しているし、「踏み込みが足りない」のは百も承知している。それをなんとかしようと思いながら、いろいろやってきたつもりなのだが、そう簡単に自分というものが変わるものでもないのも確かなことだ。自分が好きな自分を目指すというのが、生きている限り背負い続ける課題なのだろう。
ところで、スクーリングの講評のなかで指摘されたことで成程と印象に残ったことがもうひとつある。それは、根幹部分ではない枝葉、どうということもない部分をいかに表現するかというところが、作品全体を大きく変化させることになるということだった。室内図であれば、壁の表現というようなことだ。そのどうでもよいところで、いかに遊び心を表現することができるか、というところに創造性の一端が表現されるというのである。勿論、全体の構成がきちんと考えられている上でのことなのだが、一見どうでもよさそうなところを、どうでもよいなりに自分を表現するというのは生活のなかでも、生き心地とか暮らし心地を案外大きく左右することなのかもしれない。
この授業を受講したのは私を含め10名だった。私が唯一の美術未経験者だったので、さすがに作品の出来には歴然とした差が出た。講評は教室の前の壁に10名の作品を並べて掲示し、ひとつひとつについて作成者がコメントをし、先生が講評をする、という形式だった。一枚の室内図、しかも、絵画的要素が濃厚とはいえ、基本的には図面の一種なので大枠としては同じようなものが並ぶはずです。それが、室内のインテリアや窓から見えるものによって、全く違った個性を持つに至る。それだけでも面白いのに、先生の講評のなかには作成者の個性について言及する部分もあり、それが少なくとも私に関しては図星であったので、驚いた。10数年前に美大出身の人とメールの遣り取りをしていたことがあるのだが、その人が私のメールの文章について指摘したことと同じことも含まれていた。それを端的に言い当てているのが、「踏み込みが足りない」「自分の周囲にバリアのようなものを張り巡らしている」というようなことだった。
手仕事に限らず、その人の行動一般に敷衍してみても、やはりどのような些細なことにもその人の個性というものが出るものだ。それはその人の性格とか物事の考え方というようなものが反映されている。逆に言えば、性格というものは変えようがないのかもしれないが、考え方を変えれば行動も変化するということだ。考え方を変えたつもりでも、行動がそれに伴っていなければ、単なる「つもり」に過ぎないということだろうし、意識しなくとも行動に変化が生じていれば考え方の何事かが変化しているということだ。陶芸や木工をやっていて感じるのだが、一歩踏み出す、腹を決めて思い切る、びくびくしない、というようなことが作品を完成させる上で大きな要素になる。それは土に加える手の力だったり、鋸を引くときの刃の当て方だったり、という些細なことなのだが、そういうことを繰り返すことで、些細な姿勢の変化が心のありようという大きな変化にまで及ぶのではないだろうか。思い切ってやってみたら上手くできた、という小さな経験を積み重ねることで、精神そのものが強くなるということではないかと今更ながら感じている。
自分のことを自分が好ましいと思えるような人物に変えようと思いながらあれこれやってきたつもりだったが、10数年を経て結局は何も変わっていなかったのかと、苦笑を禁じえないような現実を経験できたことも、それはそれとして価値のあることだ。「バリアを張り巡らしている」というつもりはさらさら無いのだが、そう解釈されても仕方の無いような性向は確かにあると自覚しているし、「踏み込みが足りない」のは百も承知している。それをなんとかしようと思いながら、いろいろやってきたつもりなのだが、そう簡単に自分というものが変わるものでもないのも確かなことだ。自分が好きな自分を目指すというのが、生きている限り背負い続ける課題なのだろう。
ところで、スクーリングの講評のなかで指摘されたことで成程と印象に残ったことがもうひとつある。それは、根幹部分ではない枝葉、どうということもない部分をいかに表現するかというところが、作品全体を大きく変化させることになるということだった。室内図であれば、壁の表現というようなことだ。そのどうでもよいところで、いかに遊び心を表現することができるか、というところに創造性の一端が表現されるというのである。勿論、全体の構成がきちんと考えられている上でのことなのだが、一見どうでもよさそうなところを、どうでもよいなりに自分を表現するというのは生活のなかでも、生き心地とか暮らし心地を案外大きく左右することなのかもしれない。