熊本熊的日常

日常生活についての雑記

隠居のたわごと

2011年05月05日 | Weblog
この三連休は体調が思わしくなく、木工の他に映画を観に出かけたくらいで、殆ど住処の中で過ごした。まるで隠居である。ご隠居、というと茶でも啜りながら新聞か何かを読んでのんびりとしているといった風情を思い浮かべる。新聞は無いのだが、なんとなくネットのニュースなどを見ていると、どこぞの親分がパキスタンで殺されたとか、それを聴いて狂喜乱舞している群集があるとか、血生臭い話が目についてしまう。

人は必ず死ぬ。類としての人もいつか必ず絶滅する。放っておいても死に絶えるものを、どういう理由があって、慌てて殺しあうことになってしまうのか。いつか必ず終わるのだから、生きている間くらいは、いろいろ不平不満もあるだろうけれど、なんとか折り合いをつけて仲良くやっていこう、ということにどうしてならないのか。私は不思議でしょうがない。結局のところは、自我が極端に肥大した奴とか自己顕示欲が病的に強い奴に世間が振り回されているだけのことではないかと思う。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」なんて言っている人たちが、やられたら何が何でもやり返す、というようなことに汲々としているというのも妙なことだが、おそらく、宗教というのは方便のひとつということなのだろう。方便というと語感が悪いというなら、人類の偉大なる知恵、ということにでもしておこう。

連休中は、ちょっとした引き篭もり状態だったが、前にも書いた通り、小三治のDVDボックス「落語研究会 柳家小三治全集」を手に入れたので、時間は足りないくらいだった。住処で過ごすと言っても、炊事、洗濯、掃除、アイロンがけなど家事がいろいろあるのと、細々とした雑事があるので、DVDだけを観て過ごすというわけにもいかない。結局、これまでに10枚中8枚、20席を聴いた。残すところ2枚3席だ。どの噺も甲乙付けがたく、泣いたり笑ったりしながら楽しんだ。「泣き笑い」という言葉があるが、「薮入り」を聴いたときには胸の奥から泣き、腹の底から笑った。やはり、自分が親という立場だからこそわかることというのはあるもので、そうでなければこの噺で泣くことはできないのではないかと思う。「一人前」という言葉がある。一般的には、世帯を持って「一人前」というような感覚があるように思うのだが、やはり人として生まれたからには、人の親になってみて初めて実感できることがいくらでもある。生憎と世帯は手放したが、つくづく自分に子があることを有り難いことだと思う。そうでなければ、世の中がもっと薄っぺらにしか見えなかったのではないだろうか。子供がいるおかげで、人生がどれほど豊かになっていることかと改めて思った。

今日は外出するのが億劫だったが、どうしても郵便局に用があって、夕方になって重い腰を上げて、休日でも営業している豊島郵便局まで出かけて行った。せっかく出かけたのに、そのまま引き返すのも間が抜けているので、そのまま雑司ヶ谷まで歩いて、そこから地下鉄副都心線に乗り、渋谷に出て映画を観てきた。

私は副都心線が大好きだ。池袋、新宿三丁目、渋谷という繁華街を結んでいるのに、空気を運ぶだけのような余裕がある。駅の入口なども街並に溶け込んでいて、うっかりすると通り過ぎてしまうような慎ましい存在感だ。駅入口からホームに至るまで、すれ違う人も無く、営業しているのかいないのかよくわからないというのも面白い。なんとなく「秘密の路線」という感じがして楽しい。

映画はイメージフォーラムで「引き裂かれた女」を観た。主演のリュディヴィーヌ・サニエが綺麗だから、とりあえずよかったと思えるけれど、話としては別にどうということのほどのものはない。チラシには「性格や年齢の異なる2人の男に愛されたヒロインが思い込みの激しさゆえ、歪んだ恋愛関係に溺れ自分を見失っていく様をスリリングに描いたサスペンス・ラブストーリー」なんて書いてある。この文章は恋愛をしたことが無い奴が書いたということがすぐにわかる。あれで「思い込みが激しい」というのなら、思い込みの激しくない奴というのは案山子のような奴のことだろう。思い込まない恋愛などありえないだろうし、歪んでいない恋愛などあるとは思えないし、溺れない恋愛を恋愛とは言わないだろう。自分を見失わない恋愛というのも無い。ふと、これを書いた人は、この作品をちゃんと観たのだろうかと思った。プログラムの原稿を書く時点では字幕が付いていないのではないか。古い話だが、「Uボート」のプログラムでは登場人物の名前を入れ違えて書いてあるところがある。英語の作品ではそういうことは経験が無いのだが、英語以外の外国語の作品だと、ちぐはぐなことがあるような気がする。先日の「四つのいのち」は作品がよかったので、帰りがけにプログラムを買った。ところが、そのプログラムにも感心しないところがあった。台詞が無い作品でもそういうことになるのは、プログラムの作成に関わる人々に配布される資料がいい加減であったり、そのいい加減な資料だけを見るだけで作品を観ないで原稿を書いているということではなかろうか。言葉の問題ではなく、言葉の問題に象徴される構造的な問題がこの業界にあるということだろう。斜陽産業というのは、えてしてまともな人が集まらなくなるものだが、実務を担う人たちがいなければ、作品そのものの出来不出来にかかわらず、客を集めることなどできるはずがない。人を楽しませたり喜ばせたりするには、たとえ裏方であっても、人というものを知らなければならない。人を知るという修行や訓練をすることなく、ろくに人生経験も無い奴が、それこそ思い込みだけで人を食ったような仕事をしているというのは、その人たちを直接知らなくても、その人たちがした仕事を見ればわかることだ。まだ過去の蓄積があるだろうから、すぐにどうこうということもないだろうが、映画に未来は無さそうだ。

映画を観た後、Kua Ainaの宮益坂店でアボカドバーガーを食べてから帰る。昔、勤め先が渋谷にあった頃、ベルリッツで中国語を習っていたのだが、レッスンのある日はここで腹ごしらえをしてから出かけたものだ。もうあの頃から10年が経っている。当時から営業を続けている店はずいぶん少なくなってしまった。