熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「四つのいのち(原題:Le Quattro Volte)」

2011年05月03日 | Weblog
映画とは何かということを考えさせてくれる作品だ。ドキュメンタリーではないのに、台詞が一言も無いのである。俳優は一人も出演していない。唯一の「プロ」は犬だけだ。それでも、これほど面白い作品になるのである。俳優も無く台詞も無く、それでも映像作品として成り立つのである。俳優とは映画にとって何なのか、台詞にどれほどの意味があるのか、と思ってしまう。確かに、多くの俳優が、健康に然したる問題がなくても、実質的な廃業に追い込まれてしまっている。それは、存在意義が無いということなのか、別に理由があるのか。

映画のほうはタイトルそのままの「いのち」の物語だ。舞台はイタリア南部、カラブリア州の小高い山の上の農村。炭焼きのシーンで始まる。その煙が漂うなかで、老いた牧夫の咳き込む声が聞えてくる。彼は山羊を飼っている。毎日、畜舎から山へ放牧にでかけ、畜舎に帰る。その繰り返し。身なりは洗濯されて小奇麗なものを身につけ、家のなかはきちんと片付いている。よく「男ヤモメに蛆が湧く」などというが、実際には男性のひとり暮らしというのは几帳面に片付いていることのほうが多いものだそうだ。老人は就寝前に粉薬のようなものを水に溶いて飲む。後のシーンで、これが教会の床を掃除したときに集められた埃であることがわかる。これは教会の管理人になぶられているわけではなく、教会の埃に魔法の力があるという信仰に基づくものだそうだ。そんなものを飲み続けたところで、いくら「病は気から」と言ったって、病気がよくなるわけもなく、老人はある日、ベッドの中で静かに息を引き取る。

老人が亡くなった翌朝、老人が飼っていた山羊が出産する。消える命、生まれる命、まるでバトンタッチをするように、映像は山羊の群れに焦点を当てる。生後間もない山羊は、しばらくの間は畜舎のなかで過ごし、放牧には出されない。初めて放牧に出された日、子山羊の1頭が群れから逸れてしまう。群れに戻ることができないまま、子山羊は大きな樅の木の下でうずくまる。

季節が巡り、その樅の木が切り倒される日が来る。村のピタの祭りに使われるのである。切り倒された大木は枝を打たれ、外皮を剥がれ、大勢の人々に引かれて村の広場に立てられる。村の外から観光客も集まり、賑やかな祭りが繰り広げられる。

祭りが終わると樅の木は切断され、炭焼き場へ運ばれる。そこで他の木といっしょに炭焼きの櫓の一部となり、炭に焼かれる。こうして、最初のシーンと同じラストシーンになる。人も山羊も木も、生きとし生けるものすべて、それぞれの生命史が大きな円環を描くように綿々と続いていくということなのだろう。

老いて身体がしんどいとか、咳がひどいとか、個人の事情に関係なく、世界は続いていく。亡くなる命もあれば、生まれる命もある。大きく育つ木もあれば、伐採されて切り刻まれる木もある。世の中の命の生命史を上手くつなげれば、それぞれに適切につながりながら生きていける。そんなことを感じさせる作品だ。勿論、現実はそんな牧歌的なものではない。この映画の舞台になっている山村も過疎化に悩み、今や存亡の危機に瀕しているらしい。世界が市場経済のメカニズムのなかに組み込まれてしまった後になって、今更自給自足の生活などは困難だ。人々の生活に必要なものを、自分の身の回りにあるものだけで賄うということができる土地は、おそらくこの地球上のどこにも無いのではなかろうか。人が生活をするのに必要以上のものを我々は手に入れてしまったことは確かだろう。そして、そのために自然環境を加工してしまっている。そうした余剰や過剰は、生命の維持にとっては「余剰」や「過剰」でも、生活の維持にとっては必要不可欠なのである。その生活を我々は捨て去ることができるだろうか。捨て去ったら幸せになるだろうか。

私は自分が暮らしている場所で、原発がああいうことになっているなかで観るから、この作品が余計に面白く感じるということはあるかもしれない。今回の原発事故で、東京とその周辺の暮らしには節電が強いられることになった。首都圏を走る鉄道路線の多くが日中の比較的閑散な時間帯での列車の本数を減らし、車内の空調や照明を止めたり、必要最小限にまで減じたりしている。夜間の街の照明も減らされている。それで明らかになったのは、我々の日常が不必要に明るかったり、不必要な空調に慣らされていたという事実だった。

ついこの前まで、相対的に優れた経済性で、安定的に電力を供給して我々の生活を支えていたものが、一瞬にして、安定的に放射能を垂れ流し続けて我々の生活を静かに破壊し続けるものに変貌するという現実が何千万人という人に対して突き付けられた。ただ垂れ流しているのではない。莫大な金額の税金を食いつぶしながら、垂れ流しているのである。恐ろしいのは、原発もさることながら、一向に終息していない原発事故が長期化するにつれて、人々の関心が低下することだ。知らず識らずのうちに人も社会も放射能に蝕まれていくというのは、何事かの終焉を象徴するかのようだ。

今回の事故は、結局のところ、どこにどのような問題があって、その責任の所在がどこにあって、その責任をどのような形で明らかにするのか、たぶん、うやむやに終わる。電力会社だけの問題ではないはずなので、経営幹部がどうこうするということで済むことではないだろうし、原発に絡んで多額の金があちこちにばら撒かれているのだから、それを今まで受け取ってきた連中にとっては責任など明らかにならないほうがよいくらいだろう。政府にしても、現在の当事者は民主党政権かもしれないが、原発政策を推進したのは、現在は野党となっている自民党が政権を握っていた時代のことだ。近頃は「透明性」だの「法令順守」だのとやかましいが、はっきりさせないほうが上手くいくことのほうが多いのも生活の現実だろう。この事故の処理は、我々の社会が抱えているパンドラの箱を開くことになるのかもしれない。

「四つのいのち」に描かれているのは、命と生活が一致している世界だ。今回の震災と原発事故で明らかになったのは、我々の社会では命と生活が対立しているという側面も多分に持っているということだ。命を守るのに必要なものと、生活を守るのに必要なものというのは必ずしも一致しない。我々は、生活を守るために命を削るという矛盾に陥っているのではないだろうか。