「春眠暁を覚えず」という言葉があるが、冬の寒さが緩んで暖かになると、なんとはなしに始終眠いものだ。それは気候の変化が身体に対して負荷として作用するため、自己防衛本能で休養を求めるということなのだろう。それならば、夏の暑さが和らいでしのぎやすくなる今時分も同じような現象が見られることに不思議はないはずだ。というわけで、このところ始終眠い。今週は木金今日と起床が昼近い日が続いた。木曜と今日は昼寝もした。
今日は起床してすぐに米を研いで鍋に入れて水を張り、洗濯機をまわしてからシャワーを浴びた。シャワーから出てから台所に立って食事の支度をする。支度ができたところで、洗濯物を干し、食事をいただく。食事はたいてい野菜を炒めて何かで味をつけたものをおかずにする。他に納豆と海苔を必ず付ける。野菜は昨日が玉葱、ズッキーニ、茄子、オクラ、椎茸で、それにシラスを混ぜ、カレー粉で味をつけた。炒めるときに使った油はオリーブオイルだ。今日は玉葱、茄子、オクラ、椎茸にシラスを混ぜ、味噌を味醂で溶いて混ぜた。今日の油は胡麻油。食事を終えてから、コーヒーを淹れる。今手元にある豆はマンデリンとモカ・イルガチェフで、今日はマンデリンをいただく。炊飯器ではなく陶器の鍋でご飯を炊いており、片付けるのに少し長く水に浸けておいたほうが汚れ落ちがよいので、コーヒーをいただきながら、落語のDVDを観る。
小三治の「小言幸兵衛」。落語だから面白おかしく聴いていられるが、現実の世界でも口を開けば不平不満ばかりという人がいる。本人はたいしたつもりで周囲を批評しているのだろうが、傍で聞いていると、そんなに文句があるなら自分でどうにかすればよさそうなものだと思って白々とした気分になる。それがいつもいつもとなると、「また始まったよ」と却って愉快になる。きっとそういう人は死ぬまで評論家なのだろう。評論家というのは、つまり、不平不満を語っているだけで、それで世の中とか自分自身の生活を良くするということが無いということだ。傍で聞かされている分には、ある種の楽しみにもなるが、そういう人とはあまり関わりになりたくないものだ。
食事の後片付けをして、やれやれと思うと眠くなる。そこでヨガマットを広げて横になり、バスタオルを掛けて昼寝。目が覚めてからも蝉の声を聞きながらしばらく横になっている。起きだしてからトイレを掃除する。身支度をして、実家へ向かう。
実家ではちょうど池上彰の番組を観ていた。この人のことはNHKの「こどもニュース」で知った。自分の子供と一緒に観ていたテレビ番組がいくつもあるのだが、私のほうが一生懸命になって観ていたものもいくつかある。「こどもニュース」もそのひとつで、本職とは言え、話がうまいものだと毎週感心しながら観ていた。
その後、池上氏はNHKを離れ、今日のような番組の司会や著作に忙しくご活躍だが、話をわかりやすくすることの危険も感じないわけではない。物事を一本の木に例えれば、その幹を取り出して木の姿を語れば、大方その姿の成り立ちが把握できるものである。しかし、現実はそこに枝葉が複雑に付いている。幹にしても、根があるわけで、根の張り方は土地の有り様とか木の種類によって一様ではない。そうした一筋縄では語り尽くせない部分が、一見単純に見えることのなかにも必ずあるものだ。そうした枝葉や背景が物事の本質的な部分と相互に関連し合っているのが現実である。だからこそ、その現実を生きることは容易ではないのである。物事をわかりやすく説明することはマスを対象にする場合には重要なことではあるのだが、わかりやすさを追求するあまりに過度に紋切り型の物言いになってしまうと、その事象の本来の姿が却って見えなくなってしまうことも少なくないのではなかろうか。
それでも、今日の池上氏の番組は面白く、普段なら午後9時頃には帰るのだが、10時半ころまで見入ってしまった。帰宅は11時過ぎ。昼間は暑かったが、夜はだいぶしのぎやすい。月のきれいな晩だ。
今日は起床してすぐに米を研いで鍋に入れて水を張り、洗濯機をまわしてからシャワーを浴びた。シャワーから出てから台所に立って食事の支度をする。支度ができたところで、洗濯物を干し、食事をいただく。食事はたいてい野菜を炒めて何かで味をつけたものをおかずにする。他に納豆と海苔を必ず付ける。野菜は昨日が玉葱、ズッキーニ、茄子、オクラ、椎茸で、それにシラスを混ぜ、カレー粉で味をつけた。炒めるときに使った油はオリーブオイルだ。今日は玉葱、茄子、オクラ、椎茸にシラスを混ぜ、味噌を味醂で溶いて混ぜた。今日の油は胡麻油。食事を終えてから、コーヒーを淹れる。今手元にある豆はマンデリンとモカ・イルガチェフで、今日はマンデリンをいただく。炊飯器ではなく陶器の鍋でご飯を炊いており、片付けるのに少し長く水に浸けておいたほうが汚れ落ちがよいので、コーヒーをいただきながら、落語のDVDを観る。
小三治の「小言幸兵衛」。落語だから面白おかしく聴いていられるが、現実の世界でも口を開けば不平不満ばかりという人がいる。本人はたいしたつもりで周囲を批評しているのだろうが、傍で聞いていると、そんなに文句があるなら自分でどうにかすればよさそうなものだと思って白々とした気分になる。それがいつもいつもとなると、「また始まったよ」と却って愉快になる。きっとそういう人は死ぬまで評論家なのだろう。評論家というのは、つまり、不平不満を語っているだけで、それで世の中とか自分自身の生活を良くするということが無いということだ。傍で聞かされている分には、ある種の楽しみにもなるが、そういう人とはあまり関わりになりたくないものだ。
食事の後片付けをして、やれやれと思うと眠くなる。そこでヨガマットを広げて横になり、バスタオルを掛けて昼寝。目が覚めてからも蝉の声を聞きながらしばらく横になっている。起きだしてからトイレを掃除する。身支度をして、実家へ向かう。
実家ではちょうど池上彰の番組を観ていた。この人のことはNHKの「こどもニュース」で知った。自分の子供と一緒に観ていたテレビ番組がいくつもあるのだが、私のほうが一生懸命になって観ていたものもいくつかある。「こどもニュース」もそのひとつで、本職とは言え、話がうまいものだと毎週感心しながら観ていた。
その後、池上氏はNHKを離れ、今日のような番組の司会や著作に忙しくご活躍だが、話をわかりやすくすることの危険も感じないわけではない。物事を一本の木に例えれば、その幹を取り出して木の姿を語れば、大方その姿の成り立ちが把握できるものである。しかし、現実はそこに枝葉が複雑に付いている。幹にしても、根があるわけで、根の張り方は土地の有り様とか木の種類によって一様ではない。そうした一筋縄では語り尽くせない部分が、一見単純に見えることのなかにも必ずあるものだ。そうした枝葉や背景が物事の本質的な部分と相互に関連し合っているのが現実である。だからこそ、その現実を生きることは容易ではないのである。物事をわかりやすく説明することはマスを対象にする場合には重要なことではあるのだが、わかりやすさを追求するあまりに過度に紋切り型の物言いになってしまうと、その事象の本来の姿が却って見えなくなってしまうことも少なくないのではなかろうか。
それでも、今日の池上氏の番組は面白く、普段なら午後9時頃には帰るのだが、10時半ころまで見入ってしまった。帰宅は11時過ぎ。昼間は暑かったが、夜はだいぶしのぎやすい。月のきれいな晩だ。