あまり天気のことを意識して暮らしているわけではないのだが、1ヶ月の間に台風の直撃を2回受けるというのは、自分の長い人生のなかでは初めてのことのような気がする。ずっと東京にいれば、今月は15号だけなのだが、倉敷に行っていたときに、むこうで12号に襲われたので2回なのである。沖縄だとか西日本の太平洋岸なら台風が月に2回程度上陸することなど珍しくもないのだろうが、東京あるいはその周辺を長らく生活の場としていると、台風が来ることを前提にして物事を考えたりしない。地震とちがって、いつ、どれくらいの規模のものが来るのか、数日前から予測できるが、予測できるということが被害をおさえることには役立つとしても、被害から完全に免れるわけにはいかない。人間の力というのはその程度のものなのである。それでも、被害を少しでも軽くする工夫はあるように思う。個人とか地域でできることはそれぞれが考えて実行すればよいのだが、土砂災害のようなものは国の農林業に関する政策抜きに対応しようがない。これは山林をどのような姿にするか、ということと不可分だからだ。
日本の国土の約7割が山林で、その約6割は私有地だそうだ。山林が荒れているというのはかなり前から言われていることで、それがここ数年、盛んに売買されるようになっているというのも事実らしい。農地は農地法の規制があるので無闇に売買できないが、山林にはそうした規制がない。今のところは、売買されたからといって開発されるわけでもなく、相変わらず荒れたままのようだ。
山林は、適切に手入れを受け、山肌を一定の秩序に基づいて覆うことで、山林のエコシステムを活性化し、また、樹木が適切な密度で根を張り巡らせることで、その山地の保水力を高め、台風など気象の異常に対する抵抗力が増す。山林が荒れるのは、木材が売れないからだ。「売れない」というのは需要が無いということではなく、山林を手入れして、伐採した木材を出荷するのに要する費用を賄う価格では、需要が無いということだ。しかし、既存の流通経路から外れたところには、多少価格が高くともものによっては欲しいという声が無いわけでもないだろう。需要と供給の「ミスマッチ」などと言えば、わかったようなつもりになってしまうが、あるのに使えないというのは、ないから使えないということよりも深刻な問題であると思う。こういう現象は木材に限ったことではないのだが、資源の有無よりも、それを活用する能力をなんとかしないことには、それこそ宝の持ち腐れだ。腐るだけならまだしも、腐って荒廃が進めば、宝どころか人の生活に対する脅威になる。それは当たり前のことなのだが、東京のようなところで暮らしていると、その当たり前のことに疎くなる。そういう自分の無知や麻痺が容易に実感できないというのは、自分の生活の基本的なところに大きな欠陥があるということだろう。すぐにどうこうできるわけでもないのだが、なんとかしないといけないとは思っている。
日本の国土の約7割が山林で、その約6割は私有地だそうだ。山林が荒れているというのはかなり前から言われていることで、それがここ数年、盛んに売買されるようになっているというのも事実らしい。農地は農地法の規制があるので無闇に売買できないが、山林にはそうした規制がない。今のところは、売買されたからといって開発されるわけでもなく、相変わらず荒れたままのようだ。
山林は、適切に手入れを受け、山肌を一定の秩序に基づいて覆うことで、山林のエコシステムを活性化し、また、樹木が適切な密度で根を張り巡らせることで、その山地の保水力を高め、台風など気象の異常に対する抵抗力が増す。山林が荒れるのは、木材が売れないからだ。「売れない」というのは需要が無いということではなく、山林を手入れして、伐採した木材を出荷するのに要する費用を賄う価格では、需要が無いということだ。しかし、既存の流通経路から外れたところには、多少価格が高くともものによっては欲しいという声が無いわけでもないだろう。需要と供給の「ミスマッチ」などと言えば、わかったようなつもりになってしまうが、あるのに使えないというのは、ないから使えないということよりも深刻な問題であると思う。こういう現象は木材に限ったことではないのだが、資源の有無よりも、それを活用する能力をなんとかしないことには、それこそ宝の持ち腐れだ。腐るだけならまだしも、腐って荒廃が進めば、宝どころか人の生活に対する脅威になる。それは当たり前のことなのだが、東京のようなところで暮らしていると、その当たり前のことに疎くなる。そういう自分の無知や麻痺が容易に実感できないというのは、自分の生活の基本的なところに大きな欠陥があるということだろう。すぐにどうこうできるわけでもないのだが、なんとかしないといけないとは思っている。