昼過ぎに家を出て、所用を済ませてから日本橋三越で開催されている自分の陶芸の先生の個展にお邪魔し、ついでに院展も観てから出勤した。陶芸を習い始めたのは2006年10月で、ずっと同じ先生についている。その割に、先生の個展にお邪魔するというのは今回がまだ3回目だ。かなり怠慢な生徒である。会場には先生がおられたので、作品を拝見しながら、技法について事細かくご説明していただいた。陶磁器制作上の大きな特徴は焼成という作り手の側からすれば窯にまかせるしかない工程があることだ。作りたいと思う確たるイメージが強ければ強いほど、その自分ではどうにもならない部分をどうにかしてコントロールしなければならない。方法としては大きく二通りだろう。ひとつはそのブラックボックスを最短、つまり1回だけでおさえる。もうひとつは、イメージに近づくまで何度も繰り返す。ルーシー・リーなどは本焼きだけで作品を完成させていたが、私の先生の場合は後者のほうのようだ。
「これなんか6回くらい焼いたかな」
そうおっしゃって手にされた茶碗は、銀粉をちりばめた地の上を黒々とした漆のような釉が今まさに流れ落ちているかのような様子だ。「地」と書いたが、実際の制作では、胴の黒い釉のほうを先に焼いて銀粉をちりばめた部分は後から焼いている。釉薬をかけるということがどういうことなのかわかっていれば、それは想像がつくことなのだが、予備知識無しに見れば、後先は容易に判別し難い。見た目の印象と実際との間に乖離があるのは器に限ったことではないが、やはり印象だけで物事を語る危険というのはどのようなことにもついてまわるものだ。
院展もざっと眺めてきたのだが、世相を反映するものなのだろうか。暗い印象の作品が多いと感じた。震災をテーマにした作品も当然ある。人口が減少に転じるとか、景気が一向に良くならないとか、閉塞感が強くなる一方の状況のなかで、東日本では大震災があり、西日本では台風の被害に見舞われた。こういう時だからこそ、前を見据えるようなものが欲しいのだが、その手がかりが見つからないというのも現実ではある。ただ、院展のポスターやチケットに使われている「天水」という作品はすばらしいと思った。何がすばらしいかというと、視点だ。毎日あたりまえのように繰り返していることでも、思いもよらない角度から見れば、はっとするような美しさとか、「そういうことだったのか」と溜飲を下げるようなことを見いだすことができる。
「これなんか6回くらい焼いたかな」
そうおっしゃって手にされた茶碗は、銀粉をちりばめた地の上を黒々とした漆のような釉が今まさに流れ落ちているかのような様子だ。「地」と書いたが、実際の制作では、胴の黒い釉のほうを先に焼いて銀粉をちりばめた部分は後から焼いている。釉薬をかけるということがどういうことなのかわかっていれば、それは想像がつくことなのだが、予備知識無しに見れば、後先は容易に判別し難い。見た目の印象と実際との間に乖離があるのは器に限ったことではないが、やはり印象だけで物事を語る危険というのはどのようなことにもついてまわるものだ。
院展もざっと眺めてきたのだが、世相を反映するものなのだろうか。暗い印象の作品が多いと感じた。震災をテーマにした作品も当然ある。人口が減少に転じるとか、景気が一向に良くならないとか、閉塞感が強くなる一方の状況のなかで、東日本では大震災があり、西日本では台風の被害に見舞われた。こういう時だからこそ、前を見据えるようなものが欲しいのだが、その手がかりが見つからないというのも現実ではある。ただ、院展のポスターやチケットに使われている「天水」という作品はすばらしいと思った。何がすばらしいかというと、視点だ。毎日あたりまえのように繰り返していることでも、思いもよらない角度から見れば、はっとするような美しさとか、「そういうことだったのか」と溜飲を下げるようなことを見いだすことができる。