近頃は携帯電話とメールのアカウントを持つのが当たり前になっているかの感がある。以前、携帯電話を買いに出かけたときのことをこのブログにも書いたが、そういうものを持っていないというと、なにか訳ありの人なのではないかと思われてしまうような雰囲気が世の中にあるように思う。それに加えてSNSのアカウントも社会生活の必需品のようになりつつあるように感じられる。
何度も書いているように、私はできることならそういうものを使わずに生活をしたいと思っている。なぜそう思うのかを語り始めると長くなるし、場合によっては厄介にもなるので書かない。そう思いながら、こんなふうにブログを書いたりしているのだから、しょうもない。
それでSNSだが、私もFacebookにアカウントがある。言い訳がましくなるが、自分から作ったのではなく、かつての職場の同僚から招待を受けたので、それに応える形でできたのである。その後、同窓会の掲示板にも加えられた。そうなると、掲示板上の連絡が更新される度にメールが届いてFacebookの画面を開くことになる。開いたついでに、自分の「友達」が他にどのような「友達」を持っているのか眺めてみたら、当然なのだろうが、仕事や職場で知り合った人たちの「友達」には、自分の「友達」には入れていないけれど見知っている人がごろごろいる。これを見て、ふと考えた。たまには連絡を取り合ってみたい人ならよいけれど、二度とかかわり合いたくないような人から「友達」申請が届いたらどうしたらよいのだろうか、と。
同じ同窓会のメンバーであるというだけで、「友達」申請をしてきた人が3人いる。最初の人は、うっかり承認してしまったのだが、会ったこともない人と「友達」というのは妙だろうと思い、あとの2人からのものはそのままにしてある。Facebook上で「友達」になったからといって、実生活のなかでどうこうということは無いだろうが、相手によっては微妙な問題が生じないとも限らない。かつての職場の上司から「友達」申請が送られてきたとき、正直なところ、それを承認するかしないか迷った。自分の生活力に絶対の自信があれば、自分の気持ちに正直に対応できるのだろうが、どこでどうなるかわからないという不安が少しでもある限り、人との縁を粗末に扱うのは危険なことである。そうなると、「友達」というのは友だちと同義ではなくなる。逆に、自分がそうは思っていなくても、相手が自分のことを目上と感じているような場合で、しかもその相手と長らく交渉が途絶えている状況下で、その人に「友達」申請を出したら相手はどう思うか、ということも考える必要があるだろう。
実際の生活では、限られた行動圏と時間のなかで個別具体的な相手と長時間に亘って関わるというのは、同居家族以外にはそうあるものではない。だから付き合いの相手についてそれほど神経質になることも無いのだが、目の前に個別具体的な相手が提示されてその人との関係の是非を問われると、はたと考えてしまうこともないではない。ネット上の関係を生活と区別する考え方もあるだろうが、私は人と人との関係にリアルだのバーチャルだのという区別はあり得ないと思う。どちらであろうと、人の存在が関係性の上に成り立つものである限り、その関係性はその人そのものだ。
尤も、縁は自分が意識しているものが全てではない。自分が意識していなくても、自分の意識や行動が巡り巡って自分のところに回ってくるというのは当たり前にあることなのである。それを人は「神様」とか「おてんとうさま」などと便宜的に呼んだりする。あの世があるのかないのか行ったことがないので知らないが、要するに、ひとつひとつの因果関係をつないでいくと、人知を超えた規模になってしまうということだろう。規模が大きすぎてわけがわからないから「あの世」とか「神様」にお出ましいただいて、とりあえず収めておくというだけのことだ。そう考えると、宗教は多体問題に対する解答のひとつのありかたとも言える。「因果応報」という言葉もあるが、自分が良かれと思ってしたことが、必ずしも良い結果になるわけではないし、その逆も然りである。「因果応報」で片付くことばかりなら苦労などない。自分という関係性の有り様が自分で認識できることもできないことも含んでいるから、むしろ認識できないことのほうを多分に含んでいるから、自分というものを容易に理解することなどできないし、ましてや他人のことなどわからない。かといって、投げ出してしまっては、社会生活を送ることができない。生きることは多体問題に取り組むことであり、なるほど難儀なことなのである。
何度も書いているように、私はできることならそういうものを使わずに生活をしたいと思っている。なぜそう思うのかを語り始めると長くなるし、場合によっては厄介にもなるので書かない。そう思いながら、こんなふうにブログを書いたりしているのだから、しょうもない。
それでSNSだが、私もFacebookにアカウントがある。言い訳がましくなるが、自分から作ったのではなく、かつての職場の同僚から招待を受けたので、それに応える形でできたのである。その後、同窓会の掲示板にも加えられた。そうなると、掲示板上の連絡が更新される度にメールが届いてFacebookの画面を開くことになる。開いたついでに、自分の「友達」が他にどのような「友達」を持っているのか眺めてみたら、当然なのだろうが、仕事や職場で知り合った人たちの「友達」には、自分の「友達」には入れていないけれど見知っている人がごろごろいる。これを見て、ふと考えた。たまには連絡を取り合ってみたい人ならよいけれど、二度とかかわり合いたくないような人から「友達」申請が届いたらどうしたらよいのだろうか、と。
同じ同窓会のメンバーであるというだけで、「友達」申請をしてきた人が3人いる。最初の人は、うっかり承認してしまったのだが、会ったこともない人と「友達」というのは妙だろうと思い、あとの2人からのものはそのままにしてある。Facebook上で「友達」になったからといって、実生活のなかでどうこうということは無いだろうが、相手によっては微妙な問題が生じないとも限らない。かつての職場の上司から「友達」申請が送られてきたとき、正直なところ、それを承認するかしないか迷った。自分の生活力に絶対の自信があれば、自分の気持ちに正直に対応できるのだろうが、どこでどうなるかわからないという不安が少しでもある限り、人との縁を粗末に扱うのは危険なことである。そうなると、「友達」というのは友だちと同義ではなくなる。逆に、自分がそうは思っていなくても、相手が自分のことを目上と感じているような場合で、しかもその相手と長らく交渉が途絶えている状況下で、その人に「友達」申請を出したら相手はどう思うか、ということも考える必要があるだろう。
実際の生活では、限られた行動圏と時間のなかで個別具体的な相手と長時間に亘って関わるというのは、同居家族以外にはそうあるものではない。だから付き合いの相手についてそれほど神経質になることも無いのだが、目の前に個別具体的な相手が提示されてその人との関係の是非を問われると、はたと考えてしまうこともないではない。ネット上の関係を生活と区別する考え方もあるだろうが、私は人と人との関係にリアルだのバーチャルだのという区別はあり得ないと思う。どちらであろうと、人の存在が関係性の上に成り立つものである限り、その関係性はその人そのものだ。
尤も、縁は自分が意識しているものが全てではない。自分が意識していなくても、自分の意識や行動が巡り巡って自分のところに回ってくるというのは当たり前にあることなのである。それを人は「神様」とか「おてんとうさま」などと便宜的に呼んだりする。あの世があるのかないのか行ったことがないので知らないが、要するに、ひとつひとつの因果関係をつないでいくと、人知を超えた規模になってしまうということだろう。規模が大きすぎてわけがわからないから「あの世」とか「神様」にお出ましいただいて、とりあえず収めておくというだけのことだ。そう考えると、宗教は多体問題に対する解答のひとつのありかたとも言える。「因果応報」という言葉もあるが、自分が良かれと思ってしたことが、必ずしも良い結果になるわけではないし、その逆も然りである。「因果応報」で片付くことばかりなら苦労などない。自分という関係性の有り様が自分で認識できることもできないことも含んでいるから、むしろ認識できないことのほうを多分に含んでいるから、自分というものを容易に理解することなどできないし、ましてや他人のことなどわからない。かといって、投げ出してしまっては、社会生活を送ることができない。生きることは多体問題に取り組むことであり、なるほど難儀なことなのである。