評判の映画のようなものはあまり観ないのだが、チャン・イーモウの名前も耳にしたことはあるし、コーエン兄弟の作品もいくつかは観たことがある。しかし、「ブラッド・シンプル」は有名な作品だが観たことは無いし、チャン・イーモウの作品でこれまでに観たのは「単騎、千里を走る。」だけだ。それでも、この「女と銃と…」は観てみたいと思ったのである。
何年か前に映像翻訳の学校に通っていたことがある。たぶん2年近く通ったような気がするのだが、その頃は映画館でもレンタルでもかなり多くの映像作品を観たものだ。結論としては、やはり「アメリカ」とか「アメリカ人」というものには生理的に嫌悪感を覚えてしまう。個別具体的に何がどうということではないのだが、どういうわけか嫌悪と軽蔑が先に立ってしまう。それでもコーエン兄弟の作品で「バーバー(原題:The Man Who Wasn’t There)」や「ファーゴ(原題:Fargo)」は好きだし、自分のなかでの映画のスタンダードは「ローマの休日(原題:Roman Holiday)」だ。「恋愛小説家(原題:As Good As It Gets)」や「アバウト・シュミット(原題:About Schmidt)」も好きだし、「がんばれ!ベアーズ(原題:The Bad News Bears)」はDVDも持っている。映像作品以外でもアメリカは決して自分にとって疎遠ではない。ヘミングウェイやスタインベックの作品は日本語に翻訳されているものは全て読んだし、意識をして絵画を眺めるようになった最初の作家はエドワード・ホッパーだ。ところが、年齢を重ねる毎に自分のなかにある「アメリカ」というイメージに対しては嫌悪感が強くなる一方なのである。不思議なもので、「イギリス」に対してはそうした感情は無い。留学や仕事で通算すると3年半ほど生活をしていて、個別具体的に不愉快な思いをすることも少なく無かったのだが、何故かあそこに対しては否定的な感情が起こらない。自分のなかで最初の外国文化の体験がモンティ・パイソンやビートルズであったということも関係しているかもしれない。
さて、「女と銃と…」だが、期待を裏切らない作品だった。舞台設定や登場人物がシンプルになっている分、物語を現実の諸々のことに読み替えることができる。何に読み替えるかということは、その時々の社会や自分の置かれた状況によっても変わるであろうし、読み替えを事細かに記すのも野暮というものだ。逆に、どのように読み替えるかで、そのときに自分が置かれていると認識している状況を語ることもできるかもしれない。
この作品では、麺屋の主が象徴する財力と警察官が象徴する武力が非公式に結託する。一方で麺屋の主の妻という、全体のなかでは支配層に属しながら、亭主から虐待を受けているという点では被支配層の地位にある、両義的立場にあるものが、外国から来た商人という、これまた両義性を備えたものから拳銃という、それまでのその場には存在していなかったスーパーパワーを手に入れる。警察官は、立場としては権力の側にあるが薄給で使われているという点では被支配層とも言える。主だった登場人物はこれだけだ。他は、麺屋の妻と不倫関係にあることが権力の側にばれないかと怯えていたり、わずかばかりの給料の未払いに不満を募らせて金庫破りに及ぶ従業員たちがいるが、これらは小さなことで右往左往しているだけの愚衆の象徴で、風景の一部のようなものだろう。物語の展開の軸になるのは、権力でもなければ武力でもなく、ましてや不倫や虐待でもない。麺屋の地下、主の仕事部屋に鎮座する金庫、さらに言えばその中身を巡って、物語が展開するのである。もっと言えば、執拗にその金庫の中身を奪い取ろうとする警察官が物語の中核だ。
はじめは、警察官が麺屋の主から妻とその不倫相手の殺害を依頼される。報酬は10貫というオファーだ。彼はそれを交渉で15貫に引き上げ、さらに手付金としてそのうちの10貫をその場で手にする。しかし、金庫の中身を目にして、欲望が膨張するのである。彼は麺屋を殺害し、金庫をこじ開けようとするが、それで開いたら金庫とは言えない。その場は引き揚げ、以後、様々な道具を持ってきては金庫を開けようとするが、力づくでは開かない。金庫の鍵が算盤状の文字合わせ式で、ある計算をその算盤で行うと開くようになっている。大事なものを手に入れるためには、武力と知力が揃っていないといけないのである。
金庫を開くことができるのは主だけではなかった。従業員のひとりが、金庫の開け方を盗み見たのである。しかし、彼には主の部屋に忍び入って金庫を開けるという勇気はない。武力と知力と勇気も揃うと金が手に入るということになる。あるとき、800文の未払い給与がどうしても気になって、その従業員は勇気を奮い起こす。そして同僚を誘って夜中に金庫のある部屋に忍び込み、ふたりは未払い分を無事手にする。それで終わればよかったのだが、金庫の開け方を知っているほうの従業員は、金庫の中身を目の当たりにして、欲望が膨張する。後日、ひとりで忍び入って金庫の中身を全て手にしようとしたところで、そこに潜んでいた警察官に殺害され、金は警察官の手に落ちる。大事なものを手に入れるためには、武力と知力と勇気、それに運あるいは巡り合わせが揃っていないといけないのである。
それで終わればよかったのだが、…、という具合に物語が展開する。物語の起点となっていた金が最終的にどうなるのか、作品のなかでは語られない。興味深いのは、登場人物のなかで生き残るのは女性だけということだ。そこに何か意味があるのか、偶然そうなったのかは知らない。私が男だからそう思うのかもしれないが、生命力という漠然としたものは、どちらかといえば男よりも女の方により多く宿っているように思う。もうひとつ興味を引いたのは、拳銃だ。拳銃には3発の弾が入っていた。その3発は全て発砲され、全て命中した。ただ、同じ人物が3発撃ったのではない。3人が撃ち、このうち2発が同一人物に命中している。拳銃を買ったのは麺屋の妻。彼女は亭主を撃ち殺そうとして購入した。ところが、彼女が撃った相手は亭主ではない。3発の銃弾が1人に2発、もう1人に1発命中するという配分も示唆に富んでいるし、武力というものが必ずしも目的通りには執行されないというのも面白い。荒野のなかのにぽつんと建っている麺屋のなかで物語が展開するが、荒野の広大な風景と騒動が展開する狭い世界との対比にも大きな意味があるように思う。
2009年の作品だが、この10年ほどの間に世界で起こった様々なことの根幹の一端を語っているかのような印象も受けた。それを書き始めると際限がなくなってしまうので書かないが、権力とは何か、ということは社会生活を送る上で常に意識する必要があるように思う。
何年か前に映像翻訳の学校に通っていたことがある。たぶん2年近く通ったような気がするのだが、その頃は映画館でもレンタルでもかなり多くの映像作品を観たものだ。結論としては、やはり「アメリカ」とか「アメリカ人」というものには生理的に嫌悪感を覚えてしまう。個別具体的に何がどうということではないのだが、どういうわけか嫌悪と軽蔑が先に立ってしまう。それでもコーエン兄弟の作品で「バーバー(原題:The Man Who Wasn’t There)」や「ファーゴ(原題:Fargo)」は好きだし、自分のなかでの映画のスタンダードは「ローマの休日(原題:Roman Holiday)」だ。「恋愛小説家(原題:As Good As It Gets)」や「アバウト・シュミット(原題:About Schmidt)」も好きだし、「がんばれ!ベアーズ(原題:The Bad News Bears)」はDVDも持っている。映像作品以外でもアメリカは決して自分にとって疎遠ではない。ヘミングウェイやスタインベックの作品は日本語に翻訳されているものは全て読んだし、意識をして絵画を眺めるようになった最初の作家はエドワード・ホッパーだ。ところが、年齢を重ねる毎に自分のなかにある「アメリカ」というイメージに対しては嫌悪感が強くなる一方なのである。不思議なもので、「イギリス」に対してはそうした感情は無い。留学や仕事で通算すると3年半ほど生活をしていて、個別具体的に不愉快な思いをすることも少なく無かったのだが、何故かあそこに対しては否定的な感情が起こらない。自分のなかで最初の外国文化の体験がモンティ・パイソンやビートルズであったということも関係しているかもしれない。
さて、「女と銃と…」だが、期待を裏切らない作品だった。舞台設定や登場人物がシンプルになっている分、物語を現実の諸々のことに読み替えることができる。何に読み替えるかということは、その時々の社会や自分の置かれた状況によっても変わるであろうし、読み替えを事細かに記すのも野暮というものだ。逆に、どのように読み替えるかで、そのときに自分が置かれていると認識している状況を語ることもできるかもしれない。
この作品では、麺屋の主が象徴する財力と警察官が象徴する武力が非公式に結託する。一方で麺屋の主の妻という、全体のなかでは支配層に属しながら、亭主から虐待を受けているという点では被支配層の地位にある、両義的立場にあるものが、外国から来た商人という、これまた両義性を備えたものから拳銃という、それまでのその場には存在していなかったスーパーパワーを手に入れる。警察官は、立場としては権力の側にあるが薄給で使われているという点では被支配層とも言える。主だった登場人物はこれだけだ。他は、麺屋の妻と不倫関係にあることが権力の側にばれないかと怯えていたり、わずかばかりの給料の未払いに不満を募らせて金庫破りに及ぶ従業員たちがいるが、これらは小さなことで右往左往しているだけの愚衆の象徴で、風景の一部のようなものだろう。物語の展開の軸になるのは、権力でもなければ武力でもなく、ましてや不倫や虐待でもない。麺屋の地下、主の仕事部屋に鎮座する金庫、さらに言えばその中身を巡って、物語が展開するのである。もっと言えば、執拗にその金庫の中身を奪い取ろうとする警察官が物語の中核だ。
はじめは、警察官が麺屋の主から妻とその不倫相手の殺害を依頼される。報酬は10貫というオファーだ。彼はそれを交渉で15貫に引き上げ、さらに手付金としてそのうちの10貫をその場で手にする。しかし、金庫の中身を目にして、欲望が膨張するのである。彼は麺屋を殺害し、金庫をこじ開けようとするが、それで開いたら金庫とは言えない。その場は引き揚げ、以後、様々な道具を持ってきては金庫を開けようとするが、力づくでは開かない。金庫の鍵が算盤状の文字合わせ式で、ある計算をその算盤で行うと開くようになっている。大事なものを手に入れるためには、武力と知力が揃っていないといけないのである。
金庫を開くことができるのは主だけではなかった。従業員のひとりが、金庫の開け方を盗み見たのである。しかし、彼には主の部屋に忍び入って金庫を開けるという勇気はない。武力と知力と勇気も揃うと金が手に入るということになる。あるとき、800文の未払い給与がどうしても気になって、その従業員は勇気を奮い起こす。そして同僚を誘って夜中に金庫のある部屋に忍び込み、ふたりは未払い分を無事手にする。それで終わればよかったのだが、金庫の開け方を知っているほうの従業員は、金庫の中身を目の当たりにして、欲望が膨張する。後日、ひとりで忍び入って金庫の中身を全て手にしようとしたところで、そこに潜んでいた警察官に殺害され、金は警察官の手に落ちる。大事なものを手に入れるためには、武力と知力と勇気、それに運あるいは巡り合わせが揃っていないといけないのである。
それで終わればよかったのだが、…、という具合に物語が展開する。物語の起点となっていた金が最終的にどうなるのか、作品のなかでは語られない。興味深いのは、登場人物のなかで生き残るのは女性だけということだ。そこに何か意味があるのか、偶然そうなったのかは知らない。私が男だからそう思うのかもしれないが、生命力という漠然としたものは、どちらかといえば男よりも女の方により多く宿っているように思う。もうひとつ興味を引いたのは、拳銃だ。拳銃には3発の弾が入っていた。その3発は全て発砲され、全て命中した。ただ、同じ人物が3発撃ったのではない。3人が撃ち、このうち2発が同一人物に命中している。拳銃を買ったのは麺屋の妻。彼女は亭主を撃ち殺そうとして購入した。ところが、彼女が撃った相手は亭主ではない。3発の銃弾が1人に2発、もう1人に1発命中するという配分も示唆に富んでいるし、武力というものが必ずしも目的通りには執行されないというのも面白い。荒野のなかのにぽつんと建っている麺屋のなかで物語が展開するが、荒野の広大な風景と騒動が展開する狭い世界との対比にも大きな意味があるように思う。
2009年の作品だが、この10年ほどの間に世界で起こった様々なことの根幹の一端を語っているかのような印象も受けた。それを書き始めると際限がなくなってしまうので書かないが、権力とは何か、ということは社会生活を送る上で常に意識する必要があるように思う。