熊本熊的日常

日常生活についての雑記

市展に出品

2011年10月02日 | Weblog
8月23日のブログに紹介した壷を、住民票のある自治体の美術展に出品申し込みをしたところ、展示されることになった。何の変哲も無いただの壷なので、さすがに無冠だが、今日から10月10日まで自治体が運営する文化会館で開催されている展覧会に展示されている。

この展覧会は以下の6部門で構成されている。
第1部 日本画
第2部 洋画
第3部 彫刻
第4部 工芸
第5部 書
第6部 写真
全部で207点の出品があり、全品陳列されている。ハズレなしということだ。このほかに審査員の先生方の作品もあり、全部で268点の作品が展示されている。このうち陶磁作品を含む工芸部門の出品数は34で、陳列作品は42点である。美術展に出品しようというほどの作品が殆どなので、どれも技巧や創意工夫の跡を見て取ることができる。そうしたなかに、ただの壷を出すというのも、我ながら大胆だとは思うが、並べるほうも寛容だ。

言い訳がましくなるが、あの壷はずっとテーブルの上に置いて眺めていた。あの後、2つの壷が焼き上がってきたのだが、最初に出来たあれが一番良いような気がしたのである。何がどう良い、ということは言えないのだが、なんとなく気に入った。そんな折に、自治体の美術展の案内を目にしたので、なんとなく出品してみることにした。申し込み期間の終わりの頃に市役所に出向いて出品申し込みをしたところ、受付番号が妙に若かったので、ひょっとしたら出せば並ぶのだろうか、と期待が膨らんだ。いざ蓋を開けてみると、期待通りだったというわけだ。

出品作が全て入選だからといって、決して他の類似の展覧会に引けをとるような内容ではない、と思う。勿論、所謂「権威ある」展覧会に比べれば、出展作が工芸も絵も総じて小振りになるのは仕方ないだろう。こういう自治体系の作品の出展者は殆どが私のような素人なので、大きな作品を制作する場所がないという人が多いのではないだろうか。確かに、こういうものを描いたり作ったりする場合に、サイズというのは見た目以上に力量の差が出るものだ。しかし、大きければよいというものでもないだろうし、小さいから難易度が低いという単純なものでもない。作品を通じて表現しようとする心が一番大事なものであって、技巧や道具は二の次だ。勿論、表現のためには技巧も道具も優れているに越したことはない。しかし、何が主であり何が従なのか、というところをおさえておかないと、威張り腐っているだけのものになってしまう。

8月23日のタイトル「つぼさん」は落語の「壷算」から取ったつもりだ。落語には、あまり悪人は登場しない。あくまで私の主観だが、西洋の笑い話には人を馬鹿にして笑うものが目立つように思う。落語では人を騙したり馬鹿にしたりして噺をサゲるというのは少ない。「壷算」はそうした数少ない騙しネタだ。一荷入の壷の値段で倍の二荷入の壷を買ってしまうという噺である。こういう噺は難しい。人を騙す、馬鹿にする、という行為を素直に笑うことのできる人というのはそういるものではない。笑えたとしても、どこか引っ掛かりが残るのが文明のある社会に暮らす人の一般的な反応だろう。そう言えるのは、文明社会の基本にあるのは人を信じることにあるからだ。信義に反することが明らかになれば犯罪として権力により取り締まりを受け、メディアによって報道される。「人を見たら泥棒と思え」ということが当然の社会なら、信義に反するのは当たり前なので、いちいち取り締まりきれるものではないし、当たり前のことにニュースとしての価値など無いはずだ。一方で、どのようなことにも二面性というものがある。絶対的に善というものも無いだろうし、絶対の悪というものも無いだろう。どのような立場でものを考えるか、どのような論点や視点でものごとを捉えるかによって、同じ事象が正反対の意味を持つことは珍しいことではない。とはいえ、騙す側に分があると思わせるような噺ができるのは、やはり噺家の力量があってこそなのである。

それで、「つぼさん」だが、騙すほうの意味ではなく、一荷入が二荷入に化けるように自分の力量が成長することを願って、そういうタイトルを付けたのである。