死が間近に迫っていると認識したとき、人はどのような行動を取るものなのか、というのはよく取り上げられる話題だ。映画では「最高の人生の見つけ方(原題:The Bucket List)」とか「死ぬまでにしたい10のこと(原題:My Life Without Me)」などがすぐに思い浮かぶが、ドキュメンタリーでこのテーマを取り上げた作品が上映されている。主人公は撮影者で作品の監督でもある人の父親。都内に本社のある化学メーカーに勤務し、最後は役員として67歳で定年を迎えた人物だ。定年の2年後の5月、定期検診で末期の胃ガンが発見され、その年の暮れに永眠した。この間の映像だけでなく、それ以前に撮りだめられていた家族映像も併せて、市井の人が最期を迎える姿がドキュメンタリー作品としてまとめられている。
人物を対象にしたドキュメンタリーほど制作が難しい映像作品は無いと思っている。カメラを向けられれば人は誰でも程度の差こそあれ緊張する。その結果、その人が普段は見せないような表情や様子を示すことで、その人の隠れた一面が見えたり、その人を象徴する姿が現れたりするものだ。しかし、いずれにしても、おそらくそれはその人の普段の姿ではない。「普段の姿」というのは、連続したものであって、本来的に連続しているものを断片として切り取ってしまうと、その時点でそれは「普段」ではなくなってしまう。「普段」を記録として残そうとすれば、被写体と撮影者の間の信頼が不可欠になる。一瞬にして成立する信頼が皆無とは言わないが、人が他者に己をさらけ出すことを厭わないような関係というのは一朝一夕にできるものではなく、どうしても家族のような長い時間を共にする関係であることが多くなるだろう。
一方で、長期間に亘る関係があると、相手に対する甘えや情が出て、相手というものを素直に見ることができなくなるということもある。信頼と甘えというのは二項対立ではなく、連続した感情のなかにあるのだろうし、甘えることしかできないとか、信頼関係を結ぶことができるというようなことは、能力あるいは知性の問題でもあるだろう。
「エンディングノート」のすごいところは、どこの家庭にでも起こりそうな風景が当たり前のように映像として記録されていることだと思う。作品の紹介や映画評には「家族の絆」だとか「感動の」といった、いかにも馬鹿っぽい文句が踊るが、それは商業という産業のなかの決まり事なので、たとえそうした宣伝が作品の価値を毀損するものであっても、そういう宣伝をせざるを得ないということは承知しておく必要があるのだろう。ドキュメンタリーとしてのこの作品の価値は、誰にでも撮れそうで、誰にも撮れない映像で人の最期を克明に記録していることにあると思う。主人公が考えるようなことは誰でも考えるのではないだろうか。少なくとも、私は考え、実際にエンディングノートを作っている。主人公の場合は、所謂「会社人間」であった人らしく、付き合いとか家族への伝言のようなものが主になっている印象がある。葬儀場の下見をしてみたり、家族や会葬者の負担を考えて、死を目前にしてキリスト教に改宗してみたり、関心の対象が地に足の着いたものになっている。そこがなんとなく滑稽でもあり、逆に悲しみを感じさせてみたりするところでもある。落語の人情噺にも通じることだが、生きることは滑稽であって哀しいことでもあるという気がする。そういう生きることの本質のようなことまでも活写した作品だと思う。
家族を被写体にしているというのは、被写体との信頼関係確立の時間を節約している、というような見方もあるかもしれない。しかし、私は家族が特別な関係だというのは単なる幻想に過ぎないと考えている。一緒に過ごす時間が長いということが関係性に影響を与えているのは確かだろうが、だからといって、それで信頼が容易に築くことができるわけではないし、思い込みが先行する分、かえって互いが見えなくなるということだってあるだろう。夫婦であろうと親子であろうと、人が生涯の間に取り結ぶ数多の関係のひとつにすぎないと私は思う。だからこそ、自分が想像する自分の最期と大きな違和感のない主人公が記録されているというところに、凄さを感じるのである。
人物を対象にしたドキュメンタリーほど制作が難しい映像作品は無いと思っている。カメラを向けられれば人は誰でも程度の差こそあれ緊張する。その結果、その人が普段は見せないような表情や様子を示すことで、その人の隠れた一面が見えたり、その人を象徴する姿が現れたりするものだ。しかし、いずれにしても、おそらくそれはその人の普段の姿ではない。「普段の姿」というのは、連続したものであって、本来的に連続しているものを断片として切り取ってしまうと、その時点でそれは「普段」ではなくなってしまう。「普段」を記録として残そうとすれば、被写体と撮影者の間の信頼が不可欠になる。一瞬にして成立する信頼が皆無とは言わないが、人が他者に己をさらけ出すことを厭わないような関係というのは一朝一夕にできるものではなく、どうしても家族のような長い時間を共にする関係であることが多くなるだろう。
一方で、長期間に亘る関係があると、相手に対する甘えや情が出て、相手というものを素直に見ることができなくなるということもある。信頼と甘えというのは二項対立ではなく、連続した感情のなかにあるのだろうし、甘えることしかできないとか、信頼関係を結ぶことができるというようなことは、能力あるいは知性の問題でもあるだろう。
「エンディングノート」のすごいところは、どこの家庭にでも起こりそうな風景が当たり前のように映像として記録されていることだと思う。作品の紹介や映画評には「家族の絆」だとか「感動の」といった、いかにも馬鹿っぽい文句が踊るが、それは商業という産業のなかの決まり事なので、たとえそうした宣伝が作品の価値を毀損するものであっても、そういう宣伝をせざるを得ないということは承知しておく必要があるのだろう。ドキュメンタリーとしてのこの作品の価値は、誰にでも撮れそうで、誰にも撮れない映像で人の最期を克明に記録していることにあると思う。主人公が考えるようなことは誰でも考えるのではないだろうか。少なくとも、私は考え、実際にエンディングノートを作っている。主人公の場合は、所謂「会社人間」であった人らしく、付き合いとか家族への伝言のようなものが主になっている印象がある。葬儀場の下見をしてみたり、家族や会葬者の負担を考えて、死を目前にしてキリスト教に改宗してみたり、関心の対象が地に足の着いたものになっている。そこがなんとなく滑稽でもあり、逆に悲しみを感じさせてみたりするところでもある。落語の人情噺にも通じることだが、生きることは滑稽であって哀しいことでもあるという気がする。そういう生きることの本質のようなことまでも活写した作品だと思う。
家族を被写体にしているというのは、被写体との信頼関係確立の時間を節約している、というような見方もあるかもしれない。しかし、私は家族が特別な関係だというのは単なる幻想に過ぎないと考えている。一緒に過ごす時間が長いということが関係性に影響を与えているのは確かだろうが、だからといって、それで信頼が容易に築くことができるわけではないし、思い込みが先行する分、かえって互いが見えなくなるということだってあるだろう。夫婦であろうと親子であろうと、人が生涯の間に取り結ぶ数多の関係のひとつにすぎないと私は思う。だからこそ、自分が想像する自分の最期と大きな違和感のない主人公が記録されているというところに、凄さを感じるのである。