熊本熊的日常

日常生活についての雑記

GO

2011年10月08日 | Weblog
以前、自分が気に入った本や映画を紹介し合う間柄の人がいて、彼女から「GO」という本をもらった。紹介することは多くても、実物をやり取りすることは珍しかったが、この本は数少ないものの一冊だ。稀少である分、その面白さも半端ではなかった。たぶん、気に入った文をどこかに記録しながら読んだはずなのだが、肝心なそのメモがみつからない。今日はたまたまGyaOの無料版に映画のほうの「GO」を見つけ、見入ってしまった。映画を観るのは今回が初めてだが、本で読んだ印象と違和感がなく、素直に楽しめた。キャスティングも本のイメージを損なうことなく、杉原の母親役に至っては本よりも存在感が強いくらいだ。大竹しのぶという人はすごい女優だと思う。

彼女から紹介された本も映画も外れたことがないのに、私が勧めるほうの作品はダメ出しばかりくらっていた。あまりの非対称性に本気で悩んでしまい、食事が喉を通らなくなって、3ヶ月ほどの間に体重が8kgほど減ったこともあった。その人とは今は疎遠になってしまったが、もし今でもそういう関係が続いていたとしたら、私が勧めたいと思うものは、以前にも増して高い確率で酷評されるような気がする。しかし、今はそのほうが面白くてよいと思える。人それぞれに生活を重ね、時に共感することがあったり、時に理解不可能なことがあったり、感性の軌跡が交錯するように互いの距離が変化するのが自然なことのように思う。誰とでも親しい関係を長く維持するというのは容易ではない。発想は経験に基づくものだ。積み重ねる経験が人によって様々なのだから、相手との距離感が同じということはあり得ない。そういうことを承知した上で、人と人との関係は成り立つべきものであるように今は考えている。だから、今は自分が良いと思って紹介する映画や本が悉く酷評されたとしても、食事が喉を通らなくなるほど悩むことはない、と思う。

ところで、映画にも本にもある台詞だが、主人公の親しい友人で民族学校始まって以来の秀才であるジョンイルが、激高する教師に向かって
「僕は何人でもありません。(日本人でもなければ、韓国人でもない)」
というシーンがある。彼の夢は大学を出て民族学校の教師になって、民族学校で落語をやることだ。

先日、「アメリカ」にも書いたが「国」とか「何人」であるとかいう言葉の意味をきちんと考えて使っている人がどれほどいるのだろうか。とりあえず生活は回っているけれど、我々の生きている場というのは訳の分からないことばかりである。今、アメリカでは格差社会に抗議するデモが流行しているそうだが、一攫千金を夢見て渡ってきた人達が作ったのがアメリカという国だろう。欧州の伝統的な因習から解放される手段として、金銭を基準にした「民主的」な社会を標榜していたのではないか。金銭すなわち計数表記である。物事の価値を数値の多寡で表現し、階級だとか慣習といった今現在の自分ではどうにもならないことから解放されることを目指していたのではないか。努力して、才能と幸運にも恵まれれば晴れて望んでいた富を手にする事が出来る。しかし、そうならなければ落ちるところへ落ちる、それが「アメリカ」というところの仕組みなのではないか。そんなことは今に始まったことではない。スタインベックの「怒りの葡萄」に描かれているのはそういう社会だろう。ヘミングウェイの「老人と海」だって、そこに描かれている記号を読み解けば、「アメリカ人」たる彼の世界観が見えてくるではないか。「ナントカの春」に触発されたと言われているようだが、「民主化」を達成したと言われている旧独裁国家で、果たして人々の暮らしは良くなったのだろうか。現実はそれまでの独裁に代わる支配被支配関係が成立しただけなのではないか。大山鳴動して鼠一匹、朝三暮四、いろいろ表現はあるだろうが、結局そういうことなのではないか。思うようにならないから、徒党を組んで馬鹿騒ぎをするというのは数を頼むという点で彼等が抗議している対象と何ら変わりはない。豚のように肥え太った連中が生活苦を訴えるという風景も冗談のようにしか見えない。

それで、民族学校で落語だが、それが最大多数の最大幸福を実現するという点ではあるべき姿ではないだろうか。何人ならかくあるべし、何人は何をしてはいけない、などと「何人」の何たるかも問わずして教条主義に陥るのは、単に思考を停止しているだけだ。この作品のエッセンスはジョンイルという知性と理性に溢れた少年が、「僕は何人でもない」と表明するところにあると思う。そして、その理性の象徴が、あのような形で亡くなるというのも、作者の世界観の主要な部分を表現しているのだろう。私も、現実とはそういうものだと思う。