木工の帰りに池袋の西武に寄って、尾久彰三氏の講演を聴いた。民藝に関心を持っている人なら誰でも一度くらいは氏の名を耳にしているはず。そういう人なので、ここで氏のプロフィールを紹介するというようなことはしない。講演のタイトルは「民藝新感覚」。「新」とは言っても内容は柳の語っていることと変わらない。しかし、それでよいのだと思う。簡単に「新」だの「旧」だのというものが出てこないくらい柳の民藝とか美というものに対する考え方には普遍性があるということなのだ。
今日から30日まで西武ギャラリーで「美の壷 鑑賞講座」という催しが行われている。5人の講師が日替わりで登壇し、そのトップが尾久氏だ。会場にはそれぞれの講師に関連した展示もあり、こちらは5人分まとめて期間中展示されている。尾久氏は講演会場に展示されているものとは別にたくさんのものを用意して、聴講者に直接触れる機会を提供されておられた。民藝とは言っても、いまや稀少品となっているものばかりなので、こうして手に取る機会などそうあるものではない。もともとはどこの家にもあった日用品が、いざ姿を消してみて、今更ながら「あれはよかった」などと思って探そうとすると、とんでもなく遠い存在になっているというのは、なにも民藝に限ったことではない。無限のようでもあって有限のようでもある時間というものの制約の下、社会という関係性のなかで生活をしていれば、追い立てられるような状況ばかりが目についてしまう。そういうなかでは、どうしても安易に流れるのは致し方ないことだろう。わずかな手間であることを承知していながら、そうした手間をかけることを惜しんでしまうということを誰が責めることができようか。手間を省いたところで得られることなどたかが知れている。それは自分の生活の歴史が雄弁に語っていることだ。先日も書いたが、私の幼年時代は日本の高度経済成長と共にあった。身の回りはあれよあれよという間に家電製品が溢れ、社会基盤の整備も進み、しかもそれらが進化を続けていた。それで自らがかけなければならない手間隙が劇的に減少したはずである。その浮いた時間や労力で幸福や満足につながるようなことがどれほどあっただろうか。今となっては、むしろ、手間隙をかけていた頃のことのほうを懐かしむ気持ちが強くなっている。幸福も満足も心のありようのことだ。人が関係性のなかを生きる限り、その心は関係性を構成する人間同士の交流によってしか影響を受けないということになるだろう。物のありがたさとか美しさというようなことも、その物単独のことではなく、その背後にある関係性がありがたさや美しさ、逆に、怨念や憎悪も生み出しているのだろう。さらに言えば、人の気持ちというのは、結局のところ手を通じてしか伝わらないのではないだろうか、とさえ思う。ものを作るのは人の手だ。たとえ最終的に機械が作り出すものであっても、その構想は人の手を通じてなされるものだろう。物の佇まいや質感、感触、といったものがわからない人というのは、人情の機微に対しても鈍感な人が多いように思われる。確かに、意思伝達手段の最たるものは言葉であって、物ではない。情報通信の発達のおかげで言葉のやりとりは便利になった。しかし、メールやつぶやきで伝わることというのは、結局はそうした簡便な方法で伝わる程度のことなのではないだろうか。なぜなら、言葉にしても、その本当の意味は、人間の経験に深く拠っているからだ。辞書的な表層をすくい取ってわかったつもりになるのは浅はかというものだ。言葉のやりとりにしても、互いが同じくらい経験を深く共有して初めて意味を成すものではないだろうか。尤も、そういう相手というのは容易に出会うものではない。そういう相手を求めるのも、人生の愉しと割り切らなければ、人はただ孤独に陥るだけだ。
ところで、尾久氏だが、今回初めて実物を拝見した。2009年8月まで日本民藝館で学芸員をされていたので、あるいはそれとは気付かずにお目にかかっていたこともあったかもしれない。それにしても、お話の様子がなんともいえず魅力的で「おぎゅーさん」という感じなのである。1時間強の講演だったが、おかげさまで気持ちのよい時間を過ごすことができた。
今日から30日まで西武ギャラリーで「美の壷 鑑賞講座」という催しが行われている。5人の講師が日替わりで登壇し、そのトップが尾久氏だ。会場にはそれぞれの講師に関連した展示もあり、こちらは5人分まとめて期間中展示されている。尾久氏は講演会場に展示されているものとは別にたくさんのものを用意して、聴講者に直接触れる機会を提供されておられた。民藝とは言っても、いまや稀少品となっているものばかりなので、こうして手に取る機会などそうあるものではない。もともとはどこの家にもあった日用品が、いざ姿を消してみて、今更ながら「あれはよかった」などと思って探そうとすると、とんでもなく遠い存在になっているというのは、なにも民藝に限ったことではない。無限のようでもあって有限のようでもある時間というものの制約の下、社会という関係性のなかで生活をしていれば、追い立てられるような状況ばかりが目についてしまう。そういうなかでは、どうしても安易に流れるのは致し方ないことだろう。わずかな手間であることを承知していながら、そうした手間をかけることを惜しんでしまうということを誰が責めることができようか。手間を省いたところで得られることなどたかが知れている。それは自分の生活の歴史が雄弁に語っていることだ。先日も書いたが、私の幼年時代は日本の高度経済成長と共にあった。身の回りはあれよあれよという間に家電製品が溢れ、社会基盤の整備も進み、しかもそれらが進化を続けていた。それで自らがかけなければならない手間隙が劇的に減少したはずである。その浮いた時間や労力で幸福や満足につながるようなことがどれほどあっただろうか。今となっては、むしろ、手間隙をかけていた頃のことのほうを懐かしむ気持ちが強くなっている。幸福も満足も心のありようのことだ。人が関係性のなかを生きる限り、その心は関係性を構成する人間同士の交流によってしか影響を受けないということになるだろう。物のありがたさとか美しさというようなことも、その物単独のことではなく、その背後にある関係性がありがたさや美しさ、逆に、怨念や憎悪も生み出しているのだろう。さらに言えば、人の気持ちというのは、結局のところ手を通じてしか伝わらないのではないだろうか、とさえ思う。ものを作るのは人の手だ。たとえ最終的に機械が作り出すものであっても、その構想は人の手を通じてなされるものだろう。物の佇まいや質感、感触、といったものがわからない人というのは、人情の機微に対しても鈍感な人が多いように思われる。確かに、意思伝達手段の最たるものは言葉であって、物ではない。情報通信の発達のおかげで言葉のやりとりは便利になった。しかし、メールやつぶやきで伝わることというのは、結局はそうした簡便な方法で伝わる程度のことなのではないだろうか。なぜなら、言葉にしても、その本当の意味は、人間の経験に深く拠っているからだ。辞書的な表層をすくい取ってわかったつもりになるのは浅はかというものだ。言葉のやりとりにしても、互いが同じくらい経験を深く共有して初めて意味を成すものではないだろうか。尤も、そういう相手というのは容易に出会うものではない。そういう相手を求めるのも、人生の愉しと割り切らなければ、人はただ孤独に陥るだけだ。
ところで、尾久氏だが、今回初めて実物を拝見した。2009年8月まで日本民藝館で学芸員をされていたので、あるいはそれとは気付かずにお目にかかっていたこともあったかもしれない。それにしても、お話の様子がなんともいえず魅力的で「おぎゅーさん」という感じなのである。1時間強の講演だったが、おかげさまで気持ちのよい時間を過ごすことができた。