熊本熊的日常

日常生活についての雑記

奇跡の軌跡

2011年10月14日 | Weblog
テレビも新聞もない生活を送っているので世の中のことに疎いのだが、ヨーロッパが大変なことになっているらしい。ギリシャがどうにかなっていて、フランスやスペインやポルトガルなども妙なことになっているという報道が伝わってきている。国債格付けを見て驚いたのだが、ムーディーズのギリシャ国債格付けはCa。要するに紙切れだ。素朴な疑問なのだが、通貨を共通にしている地域の間で、信用力に格差が付く場合、その通貨をどのように評価するべきなのであろうか。例えば、日本の資産なら日本という国家の信用が揺らいだときに、当然にその変動は日本円という日本の通貨に反映されて、対外的な信用力が調整されることになる。ユーロの場合はどうなるのだろうか。日本でも地方債は発行体によって条件が異なるのだから、ユーロ圏も同じことだろう、と考えることもできるだろう。しかし、地方自治体と国家は同じだろうか。

ユーロというのは、味噌と糞を一緒にしたものだろう。一緒にすることによって、糞は糞のままだが、味噌は食えなくなる。そういうものを10年近く維持してきたというのは奇跡であり、これまで続いていることだけでもユーロ圏の人々の英知の高さを十二分に証明していると思う。

岡目八目というが、日本に暮らしている私の眼から見ればユーロは味噌糞なのだが、欧州で暮らしている人々にとっては、通貨を統合する必然性があったということなのだろう。欧州の国々のなかで日本よりも国土が広いのはフランスとスペインだけだ。ドイツはドイツ語圏としてドイツとオーストリアを併せれば日本よりも広くなるが、ドイツだけだと日本より若干小さい。人口で見れば、欧州連合加盟国のなかで日本よりも多い国は無い。最も人口が多いのがドイツで約8,200万人、未だに植民地を持つフランスはその海外領土を含めても6,500万人でユーロ圏ではないがEUには加盟しているイギリスは同様に6,200万人である。つまり、欧州の人々にとっては、それぞれの国が独自の通貨を持っているというのは、東京と大阪が別の通貨を持っているような感覚なのだろう。殊に時代が下って様々な技術が進歩して、市場のグローバル化と呼ばれるような現象が顕著になると、小規模な国々が並存すること自体にすら違和感が出ていたのではないだろうか。ましてや、時代を遡ればローマ帝国として欧州全体がひとつの国家として存在していた時代があるのだからなおさらのことだろう。そこで、そもそも国境という枠を超えて経済活動が行われているのだから、通貨を統一したほうが、欧州全体として経済効率が向上することになるのではないか、と考えることに何の不思議もない。

しかし、通貨を統一するということは、経済政策の独立を放棄することでもある。経済の主権を放棄しつつ国家運営をするというのは、想像ができない。国内が景気の低迷に陥っても、金利を下げて経済を刺激する、というようなことはできないのである。尤も、経済というものが国という地理的な枠組みにどれほど制約を受けるものなのか、というのは問題の切り口によっていかようにも答えがあるのだろうが、自国通貨を持たないことの自由と不自由を比べれば、不自由のほうが大きいのではなかろうか。

何年か前にパリを訪れたとき、ルーブルやオランジェリーのショップで買い物をしたらレシートに参考としてフランでの金額も併せて表示されていた。やっぱりいつでもフランに戻れるようにしてあるのだな、と思ったのだが、あれはそういうことなのだろうか。