南米の作品は数えるほどしか観ていないのだが、その全てが印象に残っている。ウルグアイの作品である「ウィスキー」は自分のなかの映画ランキングでは常に上位にあり、映画の話題で人と話をするときには必ず自然に言及してしまう。「ボンボン」も「モーターサイクル・ダイアリーズ」も忘れ難い作品だ。またひとつ忘れ難い南米作品が増えた。
人の生活は不確実性のなかにある。しかし、その割にそれが劇的に変化することは少ないように思う。不確実性のなかにあることを意識するとしないとにかかわらず身にしみて認識しているから生理的に変化を忌避するために、結果として昨日と似たような今日があり、今日の延長線上に明日を想定するのかもしれない。そうすることで、人は「一寸先は闇」と口にしながらも、闇ではない未来を空想して安心するのだろう。特に文化の基盤に農業を持つ人々は不測の変化を忌避する傾向があるのではなかろうか。自然が規則正しいものとして存在するということを信じていなければ、土地を耕して種を播こうなどとは発想しないだろう。
南米はその言語が示すようにスペインやポルトガルが覇権を握っていた時代に欧州からの植民が進み現在の基になる姿ができた。今なお未開の地が広がっていて地球の酸素の供給源になっているのだそうだが、産業基盤は農業にある。おそらく、それが人々の発想や思考に大きく影響しているのではないだろうか。日本も然りだろう。100年かそこら時代を遡れば人口の8割近くが農民だった。19世紀後半から20世紀後半にかけて、日本から南米にも多くの移民が渡っている。世界には約300万人の日系人がいると推定されているが、ブラジルだけでその約半分を占めているそうだ。
さて、映画のほうだが、主人公の生活には劇的な変化が起こらない。しかし、背景では劇的に変化した人がいたりする。マリアの生活は変わらなくとも、国内予選を戦った相棒のロベルトは賞品である航空券を手に世界大会が行われるドイツへ行く。そこでそれまでとは大きく違った何かを手にするかもしれないのである。主人公もその賞品を手にしているわけで、その気になればロベルトと共にドイツへ行くという選択肢もある。しかし、多少の逡巡の末、彼女はそれまでの日常を守ることを選ぶ。その決断の直後にはやりきれなさを感じたかもしれないが、ラストシーンが示唆しているのは、日常を守ること、平凡たることに平穏の幸福を感じなければ、人はいったい何に幸福を求めるのか、ということのように見えた。
亭主がやや横暴であったり、子供たちが成長して独立していったり、それぞれが自分の都合を優先させて、それぞれが自分の思い描く「家族」や「家庭」から離れていくように見えたり、というようなことは人の生活として当たり前のことなのである。そうした小さな葛藤や不平不満を抱えながらも、互いを認め愛し合うことに全うな生活というものがあるということなのだ。
作品のモチーフとなるジグソーパズルには完成した姿というものがある。しかし、人の生活はジグソーパズルのように、それだけではどのような意味があるのかわからないような無数の断片から成り立っていて、永久に完成することはないのだけれど、ところどころにそれらが形作るものが見え、そこに喜びを見いだしているのではないだろうか。ジグソーパズルにはある程度決まった組み立て方があるらしいが、主人公のマリアは自己流である。しかし、決まったやり方でやっている人達よりも遥かに速く組み立てる。それは、他の人には想像できない断片の意味を、彼女には見抜く直感があるからだ。形あるもの、仮にそれを「幸福」と呼ぶなら呼んでもよいが、それを得ることができるかどうかは、なんでもない断片に意味を見いだすことができる能力の有無にあるのではないか。幸福はそこにあるのではなく、自ら発見するものなのではないか。物事を発見するのに決まったやりかたがあるわけではない。自分のやりかたを掴み、それを信じて生きていく。それ以外に幸福になる方法など無いのである。
人の生活は不確実性のなかにある。しかし、その割にそれが劇的に変化することは少ないように思う。不確実性のなかにあることを意識するとしないとにかかわらず身にしみて認識しているから生理的に変化を忌避するために、結果として昨日と似たような今日があり、今日の延長線上に明日を想定するのかもしれない。そうすることで、人は「一寸先は闇」と口にしながらも、闇ではない未来を空想して安心するのだろう。特に文化の基盤に農業を持つ人々は不測の変化を忌避する傾向があるのではなかろうか。自然が規則正しいものとして存在するということを信じていなければ、土地を耕して種を播こうなどとは発想しないだろう。
南米はその言語が示すようにスペインやポルトガルが覇権を握っていた時代に欧州からの植民が進み現在の基になる姿ができた。今なお未開の地が広がっていて地球の酸素の供給源になっているのだそうだが、産業基盤は農業にある。おそらく、それが人々の発想や思考に大きく影響しているのではないだろうか。日本も然りだろう。100年かそこら時代を遡れば人口の8割近くが農民だった。19世紀後半から20世紀後半にかけて、日本から南米にも多くの移民が渡っている。世界には約300万人の日系人がいると推定されているが、ブラジルだけでその約半分を占めているそうだ。
さて、映画のほうだが、主人公の生活には劇的な変化が起こらない。しかし、背景では劇的に変化した人がいたりする。マリアの生活は変わらなくとも、国内予選を戦った相棒のロベルトは賞品である航空券を手に世界大会が行われるドイツへ行く。そこでそれまでとは大きく違った何かを手にするかもしれないのである。主人公もその賞品を手にしているわけで、その気になればロベルトと共にドイツへ行くという選択肢もある。しかし、多少の逡巡の末、彼女はそれまでの日常を守ることを選ぶ。その決断の直後にはやりきれなさを感じたかもしれないが、ラストシーンが示唆しているのは、日常を守ること、平凡たることに平穏の幸福を感じなければ、人はいったい何に幸福を求めるのか、ということのように見えた。
亭主がやや横暴であったり、子供たちが成長して独立していったり、それぞれが自分の都合を優先させて、それぞれが自分の思い描く「家族」や「家庭」から離れていくように見えたり、というようなことは人の生活として当たり前のことなのである。そうした小さな葛藤や不平不満を抱えながらも、互いを認め愛し合うことに全うな生活というものがあるということなのだ。
作品のモチーフとなるジグソーパズルには完成した姿というものがある。しかし、人の生活はジグソーパズルのように、それだけではどのような意味があるのかわからないような無数の断片から成り立っていて、永久に完成することはないのだけれど、ところどころにそれらが形作るものが見え、そこに喜びを見いだしているのではないだろうか。ジグソーパズルにはある程度決まった組み立て方があるらしいが、主人公のマリアは自己流である。しかし、決まったやり方でやっている人達よりも遥かに速く組み立てる。それは、他の人には想像できない断片の意味を、彼女には見抜く直感があるからだ。形あるもの、仮にそれを「幸福」と呼ぶなら呼んでもよいが、それを得ることができるかどうかは、なんでもない断片に意味を見いだすことができる能力の有無にあるのではないか。幸福はそこにあるのではなく、自ら発見するものなのではないか。物事を発見するのに決まったやりかたがあるわけではない。自分のやりかたを掴み、それを信じて生きていく。それ以外に幸福になる方法など無いのである。